第百五十三話「最盛」

 背中を伝う血の筋が、太くなっているのを感じる。流れ出る血は暖かいが、体は冷水に浸かっているように冷えている。

 額に点々とする汗も冷たい。


「もう息切れか?」


 リコスが言った。

 まだ、お互いに一撃も受けていない状態ではあった。ただ、リコスが呼吸一つ乱していないのに対して、カルマイはぜえぜえと息を切らしている。


 剣を交わしているから分かる。リコスの剣からは、退屈と失望の感情が伝わってきていた。

 こんなものか? 今まで一体何をしてきたんだ?


 恐らく、リコスはまだ本気を出していない。これから一段、もう一段とギアを上げられるのだろう。

 奥歯を噛み締める。怪我は言い訳にならない。この程度、どうってことはない。

 この戦いは負けられないのだ。だから、怪我の一つや二つは関係ない。


 カルマイは鋭く息を吐ききり、無理やり呼吸を整える。そして、前方の敵を見据える。


 窮地ではある。しかし、カルマイの頭の中に絶望はなかった。反対に、希望と予感だけがあった。


 それは、故郷の村のフキの森で、初めて魔物と遭遇し戦ったときの感覚と同じだった。二度目だから分かる。それは圧倒的な成長の予感だ。

 

 しかも今ならば昔以上の、昔とは比べ物にならないほどの覚醒があるだろう。この一戦で自分は、自分の剣は、どれほどの進化を遂げるのか。

 これまで幾重にも振った剣が、重ねた死闘が、今カルマイの身に結実する。

 その変化は、極めて奇跡のような見た目をしているが、これ以上ないほど必然的なものだ。


 リコスとの間には、数メートル分の距離が空いていた。半歩踏み込めば、彼女の鉄塊のような剣のリーチに入る。

 カルマイはそこから数歩後ろにさがったあと、大剣を片手に持ち替えた。


 脱力。両手を下げ、剣は右手に、地面にひきずるように持つ。自分の持ちうる筋力のすべてをスピードに変換する。

 

「様子が変わったな」

 そういうと、リコスはまた嬉しそうに笑った。


 カルマイの脳内では今、異常な自己暗示が掛けられていた。自分の肉体、全身には今、筋肉はない。骨と皮。否、骨もない。ペラペラの薄皮一枚。

 簡単に風に飛ばされ、代わりに、その風に乗ってどこまでも飛んでいく。

 決して捉えられない。掴もうとしても、決して掴めず、触れることすらできない。

 速さ。そして不規則さ。


 脳内での肉体改造が完了すると、カルマイの頬の筋肉は緩んだ。間抜けにぽかんと開いた口の端から、唾が地面に垂れる。


 一滴の唾が地面に点のような水たまりを作った直後、カルマイの姿は消えた。


 駆ける足は、その痕跡すら残さない。足が地面に触れ、沈み込む前に次の足が駆けるからだ。

 引きずられるように持たれた剣先が描く、ザリザりとした直線だけが地面に残った。


 その直線は途中で不規則に曲がる。直角に、斜めに、突然後方に、稀に五芒星のような図形を描くこともあったが、線には意思も目的もなかった。


 リコスは困惑していた。カルマイが消え、その姿は捉えられない。それなのに自分の傷だけが、全身に一方的に増え続ける。

 肩、背中、腹。獣化の進んだ硬い皮膚が傷を浅くしてくれたが、それでも出血は避けられない。


 実際カルマイは居た。リコスの半径五メートル以内に、偏在・・していた。


 カルマイの不規則な動きは、攻撃を避けることを目的としたものですらない。

 だから、手に持つ鉄塊のような大剣を適当に振り回せば、その身に届いたかもしれない。

 しかしそれは、とてつもなく確率の少ない賭けだった。


 面白いことを考えるものだ。リコスはにやりと笑った。眼を閉じ、剣をゆっくりと振り上げる。

 上段の構え。


 その間も傷は増え続ける。しかし焦りはなかった。極限の集中は、痛みに対する邪念を取り払う。命を失う恐怖すら、今はない。


 不規則に動くカルマイの気配が、自分の正面にくるのをジッと待っていた。

 まだか。まだ。まだ。今だ。高速で振られた剣の刀身が光ると、血しぶきが上がる。


 剣はカルマイの身を斜めに袈裟斬りした。しかし、カルマイは倒れなかった。


 その一撃は浅く、骨を断つまでには至らなかった。無意識に動く中で一瞬の殺意を感じ、カルマイが一歩下がったからだ。


「見事だ」


 血しぶきは、リコスのものだった。殺意を感じたカルマイは、下がると同時に、自分の持つ剣を、その方向に投げていた。

 一歩下がったことも、剣を投げたことも、肉体の限界を超えたカルマイが、殆ど直感に基づいてとった行動だったが、だからこそ功を奏した。

 投げられた剣は、リコスの肩と首の間に突き刺さっている。深く貫通し、刀身の半分ほどが反対側に突き出ている。


 致命傷。


 リコスは自分の大剣を地面に突き刺した。もう戦意はない。傷口からは血が吹き出し続けていた。

 むんと力を入れ、傷口に刺さったカルマイの剣を引き抜くと、勢いはさらに増す。それでも二本の足で立ち続け、剣を眺めた。


「いい剣だな」

 手が痺れ、地面に落としそうになると、カルマイの方に投げ渡した。


 カルマイもふらふらとしていたが、投げられた剣をしっかりとキャッチした。


「そして、いい剣士だ。この歳でこれだ。これからもっと高みに上っていくだろう。しかし」

 リコスが突然黙ったため、カルマイは続きを促すように師の顔を見つめた。


「その強さが朽ちていくとき、お前はそれに耐えられるか」


 かつてのカルマイなら、この問いに簡単に「耐えられる」と答えただろう。ただ、今実際にこの身に宿る力と、それが絶え、朽ちていくことを想像すると、とてつもなく重い問いになった。


「分からない」

 カルマイは言った。


「今はそれでいい。だが同じ轍は踏むなよ」

 リコスは優しく笑うと、立ったまま絶命した。

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