第29話 デイ・イン・ザ・ライフ【Strobe 2】

 アラームの音で目が覚めた。時計を見れば朝の8時、いつもより遅い起床。そもそも、このアラームは自分の使っている端末の音ではない。寝ぼけた頭の中、それはまずい、と警告が響く。知らないベッド、知らない掛け布団、知らない壁、知らないカーテン、知らない天井。右横を見なかったのは、現実を確定させたくなかったから、か、とゆっくりと右横を向く。白い髪の女性が静かに寝息を立てていた。規則正しい、穏やかな呼吸、聞いていると二度寝の誘惑にかられる。が、ここで寝てしまうと、チェックアウトでばたつくのは目に見えている。そっとベッドから離れようとして彼は動きを止める。そう、チェックアウトだ。告白したあと、二人で彼女に居酒屋で展示の話で盛り上がり、バーを梯子して、気づいたら終電を逃していた。空き室のあるビジネスホテルに飛び込んだ。そのあとは――


「おはよう」


 背後から声が来た。


「おはよう、ございます」


 なんとか声が出た。乱れていた浴衣を慌てて直して、


「別に気にしなくてもいいでしょう?」

「気にしますよ、いろいろと」

「そう」


 寝起きの気だるさの中、どこか楽しむ色を感じてどきっとする。


「ちょっとシャワー浴びてきます」

「ええ、ごゆっくりどうぞ」


 衣擦れの音を聞きながらユニットバスに滑り込む。浴衣を脱ぎ捨てて、シャワーの操作方法を確認して、カーテンを閉めると、熱い湯をたっぷり浴びる。眠っている間に身体を冷やしていたらしい。熱が浸透していくのがとても心地よい。軽く浴びるつもりだったが、結局は頭も体も洗って、髭も剃った。ヘアオイルを毛先につけるように塗ってから、ドライヤーで髪を乾かす。冷風に切り替えて形を整えて、


「やりすぎたか」


 だいぶ、待たせてしまった、と慌てて浴衣を羽織って、部屋に戻る。


「似合っているわよ」


 髪をなびかせて彼女が横を通り抜けていく。


「そうそう、先に着替えてて」


 浴室から姿をのぞかせる彼女は畳んだ服を抱いている。そうか、風呂で着替えればよかった、と思いながら、彼は着替える。朝食の時間はすでに過ぎてしまっていた。チェックアウトしてどこかに入るのが賢明か。端末を開いていて、何かないか探してみる。ホットサンドの評判のいい喫茶店を発見した。予備案にファミレスもあるから食べ損ねる事態は避けられそうだ。そんなことを考えている間に彼女が着替えてでてきた。


「お待たせ」

「一息ついたら出ましょう。近くにホットサンドのおいしいお店を見つけたんです」

「そのお店、好きなお店よ」


 実際、彼女の行きつけだったようで店主は顔を見ると、


「いらっしゃい」


 と愛想のない挨拶をした。彼女は気にせず、窓際のテーブル席に座り、彼を手招きした。初めての場所で困惑を覚えつつ、彼女の前に座る。朝の陽ざしが感じられるいい場所だ。


「おすすめは、ハムとチーズのホットサンドとオニオンリング、コーヒーのセットよ」

「あ、いいですね。それにしようかな」

「ひとりで来る時はここで本読んだりゆっくりしているの」


 メニューに目を通す彼女を見ながら、ひとりで来た時もこの席に座っているのだろうか。本を読みながらたまに外の風景を見たり、コーヒーを静かに飲んだりするのだろうか。


「まだ、寝ぼけてる?」

「あ、朝ごはん食べたら目が覚めると思います。……そういえば、コーヒー苦手でしたよね」

「苦いコーヒーはダメなの。だから、今まで紅茶だったのだけど、相談したら苦味の少ない銘柄を仕入れてくれたのよ」


 ちらっと店主のほうを見る。どうしても、無愛想という単語が頭をよぎってしまうのだが、食で満足させることに全力を注いでいるのかもしれない。


「ふふ。では、注文しましょうか」


 よく通る声で店主を呼びかけると、店主はカウンターから注文は、と聞き返してくる。そんな接客ありなのか、と彼は一瞬固まるが彼女は慣れた調子で二人分の注文をした。


「こういう感じだからひとりで来やすいのよ」


 彼女は悪戯っぽく笑う。しばらくすると、店主は左腕と左手に皿を乗せてやってきた。チーズとハムとパンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。店主はそっと、皿をテーブルの上におくと、静かに去っていった。


「コーヒーは食後ね」

「胃によくないですしね」

「若いのに気にするの?」

「若いから気にするんですよ――いただきます」


 かぶりつくと、サクッとしたパンがあり、その中から熱いチーズが出てきた。思わず火傷しそうになって、少し口を離して、息を吹きかける。その様子を見て彼女は微笑んで、端のほうから少しずつ啄むように食べ始めた。今さら食べ方を変えるのも何だか格好悪い気がしたので火傷しない程度にかぶりつく。チーズとハムに混じってケチャップの甘さが加わる。幸せな味だ、と彼はゆっくりと飲み込んで、オニオンリングをつまむ。中までかりっとあげられていて、さくさくとした食感が楽しい。食べるのに夢中になりすぎて喋ることすら忘れていた、と彼が気づいて前を見る。ちょうど、彼女も食べ終えたところで、紙ナプキンを唇にあてていた。


「おいしかったでしょう?」

「ええ、すごく」

「食の好みが近いようでよかったわ」


 そんなことを話していると店主がコーヒーを持ってきた。香りがいいのは挽き立てだからだろうか。


「あと、これはサービスな」


 小さなバニラアイスの入ったカップが2つ。


「ありがとう」

「お得意様が増えそうだからな」


 相変わらず表情は変えないまま、店主は去っていった。


「こういうこともあるからいいのよね」

「サプライズがあることですか?」

「ええ。同じ日々が続くと退屈でしょう?」


 彼女は両手でマグカップをもって、ゆっくりと一口コーヒーを飲んで微笑む。彼もぎこちなく微笑み返す。


「次はどこにしましょうか」

「自然公園はどうかしら?」


 彼はマップ検索のためにポケットから端末を取り出して、自然公園と入力してテーブルの上においた。そして、バニラアイスをスプーンひと匙。口の中でアイスが溶け、バニラの香りが広がるのを堪能してから、コーヒーを啜る。優しい甘さと爽やかな酸味が混ざり合う。

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