第3巡 茅ヶ谷巡の空気啜り
だけど否定をするということは、この人が言うカヤカヤダニとやらが自分を指している自覚もある。なんだか新種の
というか、これで自分ではない他人のことを示していたら、恥ずかしくて胸の中で死ねだのバカだのを連呼するハメになる。だからこの人には早く反応して欲しい。知らない人に返事をするのって、結構勇気がいるんだから。
「んー、いや! その顔、そのメガネ、その髪の結び方。写真で見たカヤカヤダニだ。嘘は良くないぞ?」
「……いつの、どこの写真か存じませんけど、メガネや髪は割と簡単に変わるものだと思うんですが? あと最近は顔だってお化粧でかなり弄れるみたいなので、そこまで当てにするのはどうかと」
「まあ、そう言われると弱いな。じゃあ九ノ瀬大学3年、理学部、性別は女、サークルはどこにも加入してなくて、学籍番号は……——」
「——それ以上は言わなくていいですっ。あなたが探している人物は自分で間違いないのでっ」
いつにもなく荒げた語勢で、自分は制止を促す。正直言って面倒だから他人のフリをしてやり過ごそうかなと思ったけど、あのまま放っておいたら自分の個人情報が白日の元に晒されてしまいそうで、余計に面倒を背負い込みそうだと感じた。それはシンプルに困る。
「やっぱりお前がカヤカヤダニか」
「いやだからカヤ……
「読み間違え……」
「はい——」
そう言いながら自分はポケットからメモ帳とペンを取り出して、適当に開いたページの中央下辺りに簡素に苗字を記して見せる。
「——こう書いて読み方は……
本当に良く間違えられる苗字。
ついでに名前の方も同様だ。
『巡』という一文字でメグリと読む。
メグルとかジュンとか、言われがちだ。
別にそこまでキラキラネームや、難読漢字ってわけじゃないのに、毎年のように自分の名前をクラス担任の先生が正しく読めるかどうかで、主に同級生の男の子のジュース一本が預かり知らぬところで賭けられたものだ。
「おーなるほど。よくよく考えればカヤカヤと繰り返すヤツじゃなくて、一ヶ月の真ん中とおんなじだな。あっと……茅ヶ谷?」
「はい。やっと誤解が解けましたね」
「はははっ、そうだな。でもなかなか楽しいすれ違いだったから、俺としては結果オーライだ——」
この人の楽しげな哄笑を前に、自分は失笑するしかない。
いきなり話し掛けられても迷惑と、すごく言いたいけど言えなくて。他人に注目されると食べにくいから早くどこかに立ち去って欲しいとも言えない。
自分も長らく友人と呼べる人が居ないことからブーメランになるかもしれないけど、いい加減、この空気を読んで貰えないかな?
「——あっ、俺は
「はあ……」
いや訊いてない。
あなたの名前、自分キイテナイ。
「つーことで茅ヶ谷」
「は、はい?」
なんだか良からぬ予感がする。
自分の勘はちょっとだけ当てになる。
少なくとも、この赤阪と名乗る人よりは。
「今日の講義はもうないよな? ほら3年だし、講義の数も少ないだろうから」
「まあ、そうですけど……」
「なら急で悪いが、茅ヶ谷さえ良ければ是非……食事の後、文化サークル棟の一階左最奥の部屋に来てくれ」
「えっ? いや、そんなの嫌——」
「——待ってるぞー」
自分が断るよりも先んじて、赤阪が満面の笑みと共に立ち去ってしまう。それはもう拒絶を予期したかのような軽快な所作だった……いやいや、感心してる場合じゃない。
文化サークル棟とのことだから、何かしらのサークル勧誘と受け取るのがセオリーだと思う。でもわざわざ就活も控えているかもしれない大学3年の自分を誘うサークルがあるとは普通考えづらい。となれば何かイベントなどのボランティアでも頼みたかったんだろうか? でもそれならここで話してくれた方が受けやすかったよね……あと確率的に低いだろうけど、仮にもし男女の出逢いが目的とかもあるのかな……もしかして。でも、自分ではきっと不都合だ。あんまり公にするような恋愛は嫌だし、誰かを紹介出来るコネクションもないし、自分で思って虚しいけどモテたりもしないし。それなら他の女の子のところへ行ったらいいのにって、突き放してしまいそうな案件だ。
まあどうであれ、この誘い方はただただ怖い。身の危険を感じるといえば大袈裟だけど、関わり合いたくはない。
「ん……いや待って……」
でもよくよく考えたら、赤阪と名乗る人の誘いは断る必要がない。ただ言われた通りにしないだけで、文化サークル棟に向かわないだけで良いのだから。一方的な約束はただの命令だ。意思に沿わない感情くらい、自分にもある。こう見えて結構意固地な性格を自負しているし、その程度わけない。
うん、家に直帰しよう。
その前に、初めての大学の学食を味わっておかないと。提供された料理を残したくはないし、どうやら美味しいらしいし、見た目からも密かに期待していたんだ。
自分は再び合掌し、右手に箸を持つ。
そのままメインディッシュの海老フライを掴んで離さず、やっと口に運ぶ。
「……冷めてる」
美味しくないわけじゃない。寧ろ自分が作ってきたときの解凍フライよりもふやけてなくてら遥かに食感が良い。だけどフライは、やはり揚げたてが一番。それが意図せぬ他人の介入のせいで、その温もりまで損なわれたのが多分、自分の味覚まで渋らせた。
置き場のない、些細な食べ物の恨み。
各種ミステリーの犯行動機にも食事のルーティーンを崩されたとか、味が気に食わなかったとかなんてものもあるし、こっそりと毒を仕込まれたりもする。舐めてもらうと痛い目をみるだろう。
この場合は、Aセットの呪いといったところだろうか。そして偶然にも赤阪をアルファベットにした頭文字はA。これが自分が創作した物語なら、有名なミステリー作品を参考にし、立ち去ってしまった赤阪さんとやらは真っ先に被害者になってしまっただろうなと密かに妄想で恨みを晴らす。
「ふ、なにそれ……」
あまりにもおかしな想像に微笑みつつ、自分はしなやかな物腰を取り戻すように味噌汁を啜る。こちらはちょうど猫舌に優しい温度で飲みやすくて、内心を穏やかにしてくれる。こんな食事を堪能出来る日にはやはり、ミステリアスはそぐわない。
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