ネームレス
大塚
第1話
「
と言ってわたしたち学生の前に立った彼のその整った顔立ちを、今でも昨日のことのように思い出すことができる。清沢さんは売れない俳優で、事務所に所属はしているものの刑事ドラマのモブ役や、良くても序盤で殺されてしまう被害者役ばかり演じていて、日々の生活のために当たり前のようにアルバイトをしていると言っていた。今回、彼が我々映研の部室にやってきたのも、そのアルバイトの一環だ。新しい作品を撮ることになって、メインの
「……イケメン、だ、ね」
自己紹介をする清沢さんを見ながら、隣の席に座る
「え、なになに
「いや〜、好みっていうか……いや、好きかも、結構」
「えー、じゃあカントクに頼んで飲み会開いてもらおうよ! そんで連絡先交換! ねっ!」
学外に恋人がいる美波はこういう時本当に話が早い。ありがたい。大仰に拝むわたしに胸を叩いて見せた美波がカントク──
でも、次の瞬間。
清沢さんが、形の良い眉を下げて苦笑いを浮かべた、ように見えた。
飲み会は行われた。映研に所属している人間ほとんど全員が参加した。清沢さんも来た。でも、美波が言ってたみたいに連絡先交換には至らなかった。挨拶して「よろしくね」とかなんとか言われれて、それでおしまい。
少し違和感があった。
翌日から、台本の読み合わせが始まった。清沢さんはいたりいなかったり。いる時には(やっぱり事務所に所属してる人は違うなぁ)と思うようなオーラを放っていて、この人が売れてないなんて信じられない、わたしたちの撮る映画がSNSとかでバズって清沢さんが爆売れして──なんて妄想をしてしまう、そんな存在感が彼にはあった。制作補佐のわたしは何かと監督・原先輩の側にいて(これも美波の手引きによるものだ)清沢さんと言葉を交わす機会もあったはず、なのだけど……。
「どう?」
その日の帰り道、美波と、それに同期の
「うん……なんていうか、こう……」
まだ連絡先は交換できていない。というか挨拶以外にほとんど言葉を交わしていない。うまく言えないけど、手応えがない。
なんでだろう。清沢さん、恋人がいるのかな。それともわたしのことが全然好みじゃないだけ? それはそれで悲しいけど諦めが付く。でも、なんていうか、本当に手応えがないんだ。空気を相手に駆け引きを行っているような気さえする。
「俺、思ったんだけどさぁ」
山崎が不意に口を開く。もともとは映画の『え』の字にも興味がなかったくせに、美波に釣られて入部してきたお調子者。今は演技に夢中になってるけど、大学を卒業したらきっと全部忘れちゃうと思う。そういうタイプ。
「
瀬羽?
同期の名前だ。フルネームは確か
でもそういえばその瀬羽が、今回は頻繁に部室に出入りしている気がする。
ゾワッと鳥肌が立つのが分かった。
瀬羽。
あの子、もしかして、清沢さんと。
「俺瀬羽ちんと結構喋るから、ちょっと探り入れとこっか?」
普段なら山崎の申し出なんかに首を振ったりしないのに、その夜のわたしはおかしかった。お願い、聞き出して、と取り縋ってしまったのだ。
山崎の聞き込みは僅か1日で終わった。瀬羽の叔父が、舞台照明の会社の社長をしているのだという。彼女はそこでアルバイトをしていて、叔父の仕事先で清沢さんに出会った。というのも清沢さんは映像の仕事だけではなく、舞台にも出演しているのだという。瀬羽はごく最近清沢さんが出演した舞台で、照明オペレーターを務めていた。
ふたりは以前からの知り合いだったのだ。
読み合わせ期間を終え、映画作りの本番、撮影が始まった。瀬羽は毎日撮影現場に現れた。煙草を吸いながら明かりの角度を確かめ、撮影が始まるまではイヤホンを耳に突っ込んで寝ていた。清沢さんが来ている時もそうでない時も、彼女の態度は変わらなかった。
わたしは清沢さんと、挨拶以外碌に言葉を交わせていないというのに。
撮影は順調に進んだ。清沢さんというプロ──セミプロ?──の存在がわたしたち学生の起爆剤になったと言っても過言ではなかった。美波も、山崎も今まででいちばん良い演技をしている、と原先輩が言っていた。
瀬羽は、仕事がある時以外は寝ていた。それか分厚い推理小説を読んでいた。
そうして、クランクアップ。予想していた以上にスケジュール通りに撮影が進み、監督が欲しがっていた雪のシーンも見事に撮り終えたお陰で、2月の上旬にはわたしたちの作業は完全に終了した。編集だとか他にも色々やることはあるけれど、現場組はこれでお仕事終了というわけだ。
2月。わたしは美波と共にデパートの催事売場に赴き、可愛らしい猫のイラストが描かれた缶入りのチョコレートを買っていた。クランクアップの前に。だってクランクアップしてしまったら、もう清沢さんには会えない。最後に顔を合わせる打ち上げの日にこのチョコレートを渡して、絶対に連絡先を聞き出すのだ。
打ち上げの席に、もちろん清沢さんは来てくれた。何せ準主役、いや、全体を通して見れば主役と称しても良いような役柄をこなしてくれたのである。今回の撮影のヒーローにして救世主、それが清沢さんだ。学生皆が清沢さんとお喋りをしたがる中、わたしは美波の手引きで清沢さんの真横の席を死守していた。お酒を注ぐのもわたし、料理を取り分けるのもわたし、追加のドリンクを頼む際にメニューを差し出すのもわたし! 清沢さんとも、結構お喋りできたと思う。やっぱりすごく好みの顔をした男の人で、今まで彼氏がいたことが一度もないわたしにとって清沢さんは運命の人なんだって思った。
一次会で帰るという清沢さんに、わたしはチョコレートの入った袋を差し出した。清沢さんは少し驚いたような顔をして「ありがとう。そっか、バレンタインか」と笑った。優しい笑顔だった。メッセージカードにはわたしの連絡先を添えてある。タクシーに乗って帰路に着く清沢さんに、わたしはいつまでも手を振り続けた。
その後。待てど暮らせど、清沢さんから連絡は来なかった。メッセージカードに気付かなかったのだろうか。それともやっぱり……恋人がいるのだろうか。意気消沈するわたしを美波も山崎も懸命に慰めてくれた。清沢さん。今どこで何をしているんだろう。
「
瀬羽がわたしに声をかけて来たのは、翌月、3月のことだった。彼女とはクランクアップ以降一度も言葉を交わしていなかった。そもそも学部も全然違うし。黒髪に黒いジャケットにブラックデニム、それに真っ赤なスニーカーを履いた瀬羽が、無造作に茶封筒を差し出してくる。
「タツさんの舞台のチケット。チョコのお礼やって」
「……え?」
タツさん。
一瞬、誰のことだか分からなかった。分かった瞬間、背中が冷や汗でぐっしょりと濡れた。
「え……なんで……瀬羽さん、が」
「え? いや別に、うちの叔父さん照明の会社やっとって……タツさんが出る舞台の明かりを叔父さんが……」
そんなことを聞きたいんじゃない。
「瀬羽さん、て、さ、清沢さんと仲良いの……?」
「は?」
イヤホンを耳に嵌めようとする手を止めた瀬羽は、薄い眉を顰めてひどく困惑したような顔をした。
「全然?」
その場で悲鳴を上げなかった自分のことを、正直今でも褒めてやりたいと思う。
結局わたしは清沢さんの舞台を見に行かなかった。茶封筒の中には招待券が一枚と、「チョコありがとう」と書かれた手書きのメモが添えられていただけで、わたしの名前はどこにもなかった。つまり、そういうことだったのだ。
なぜ今こんなことを思い出しているのかというと、清沢さんが結婚したというニュースを見かけたからだ。ネットの芸能ニュース。お相手は清沢さんよりかなり年上の人気舞台俳優。別に今更傷付いたりしないけど。そのはずなんだけど。どうしてか清沢さんではなく、わたしにチケットを手渡したその瞬間「任務完了」みたいな顔をして両耳にイヤホンを嵌め、喫煙所に向かって歩いて行った瀬羽新の姿ばかり思い出してしまって、ひどく息苦しい。
おしまい
ネームレス 大塚 @bnnnnnz
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