29

 今までで一番長いようで短かった夏休みも終わり、二学期が始まった。大会後の夏休みはずっと家でゴロゴロしていた。急にやることがなくなるというのは心身ともによろしくない。

 今日はあたしと千屋さんの引退記念パーティなるものが放課後開かれる。と言っても場所はいつもの住宅街のカフェだ。半年弱ぶりの訪問だ。

 北原さんと和食さんを先頭にカフェに入ると、相変わらずお客さんはいないし、店員さんは無口で、むしろ安心する。

 四人掛けのテーブルと椅子にあたしと千屋さんが隣り合い、あたしたちの対面に北原さんと和食さんが座った。曜さんは、

「若者だけで楽しんできな」

とだけ言って欠席した。

「まずは部長から一言ってことでいいですか?」

 一通り注文を終えると、北原さんがそう切り出した。

「ええっとそうだなあ」

 なにも考えていなかったあたしは少し慌てたが、今の率直な想いを言うことにした。

「自分の練習のことばっかり考えていたし、新入生も一人しか確保できなくて、いい部長だったとは思えないけど、そんなあたしについてきてくれてありがとう」

 北原さんと和食さんが拍手をし、北原さんが、

「じゃあ次は千屋先輩、一言」

と千屋さんに振ると、千屋さんはフリーズした。

 千屋さんがあたふたしているうちに、店員さんが無言で飲み物とケーキを次々とテーブルの上に置いていった。

 千屋さんの一言は曖昧になり、わいわいとケーキを食べ始めた。


 五時頃に解散し、駅で北原さんと和食さんと別れた。次の部長を北原さんに託し、あたしは完全に引退したことになる。

 あたしと千屋さんは一度学校へ戻るため一緒に歩いている。あたしはいつもの癖でロードバイクで登校してしまったためだ。

「千屋さんはなんで戻るの?」

「参考書とか諸々を持って帰るため。ずっと置きっぱなしにしてたし」

 あたしは、うげえと変な悲鳴を上げた。三年の二学期が始まったのに、あたしは本当にこの先のことをなにも考えていない。千屋さんはいろいろ考えているらしい。

「千屋さんは進路どうするの?」

「大学進学。明賀先輩に誘われたし、明賀先輩がいる大学を受ける。で、そこでセパタクローを続ける」

 やっぱりそうか。千屋さんはそう言うと思っていた。千屋さんが勝手に思い込んでいた曜さんの呪縛はもうない。千屋さんは自分の意思で、足で歩いて行く。

「阿河さんは? まさかなにも考えていないってことはないでしょ」

 そのまさか、だからあたしは閉口した。その様子に千屋さんが呆れたようにため息をついた。

「大学でセパタクローを続けると思っていたけど」

「それなあ。日本一になったから、その先の目標がねえ……」

 もし日本一になれていなかったら今頃はらわた煮えくりかえってしかたなかっただろうし、この先も続けていく、と高らかに宣言していたはずだ。でも、あたしたちは日本一になった。言うなら、あたしは満足してしまったのだ。

「唯は次の目標とかあるの?」

 あたしが聞くと千屋さんがあたしの顔をまじまじと見つめ、口を金魚のようにパクパクとさせた。

 この反応はなんだろう、と訝しがっていると、

「あ、彩夏に勝つこと……」

と小さく呟いた。

「……なんで急に、名前?」

 顔を真っ赤にした千屋さんにあたしが戸惑っていると、千屋さんのローキックが飛んできた。

 あたしは慌てて膝を折り曲げるように高くジャンプして回避した。千屋さんの蹴りは空を切り、制服のスカートが千屋さんの動きに合わせふわりと回転し、元の位置に納まった。

「千屋さんの蹴りはしゃれにならないって」

「あが、あや、あやわさんが……!」

 こんなにあたふたした千屋さんは初めて見る。新鮮で面白く、未だにこんな発見があるのかと感動した。

「彩夏がいきなり名前で呼んできたんじゃん!」

「あたし!?」

 この慌てようの引き金はあたしだったのか。あたしはいつの間にか下の名前で呼んでいたようだ。完全に無意識だった。

「えっと、で、この先の目標は?」

 とりあえず、あたしは話を元に戻すことにした。あたしもなんだか照れくさい。

「彩夏に勝つこと」

 あたしの名前は辛うじて聞き取れたくらいには小声だった。それよりあたしに勝つ、とはどういうことだろうか。

「すでに勝ってると思うけど」

「一年生のとき、一回だけブロックされた。八八回は勝ったけど」

 一年生の最初にそんなこともあった。それにしても、よく覚えていたものだ。何事にも負けたくない、という執念すら感じる。あたしは小さく笑った。

 あのときは本当に嫌いだった。傲慢で無愛想で、でも実力は確かで。

 ふと、あたしがセパタクローを始めた理由を思い出した。あたしは千屋さんに、いや唯に勝ちたかったんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。去年の試合で負けたときお姉ちゃんは、

「時間が経って忘れられるのは一流以下」

みたいなことを言っていた。するとあたしは一流以下で、超一流にはなれないのかもしれない。それでも……。

「たった今あたしの目標が決まった。大学生の間に唯に勝つ。唯に勝てれば本当に日本一でしょ」

「彩夏にそれができるとは思えないけど」

 唯が不敵な笑みを浮かべ、あたしは負けじと睨めつけた。

 やがて唯の表情が柔らかくなり、あたしも自然と笑みがこぼれた。

 学校に到着し、あたしは駐輪場へ、唯は校舎へ向かうために別れた。

「じゃあまた」

 あたしがそう言うと唯は頷いた。

 あたしは唯の背中を少し見送ってからロードバイクに乗って走り出した。

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