25-1
曜さん指導の下、あたしはローリングを少しずつだが確実にものにしていた。始めにボールなしで空中で回転する感覚を掴み、次にボールありでアタックの練習を積み重ねる。曜さんは一つ一つの動作を言語で説明してくれるから理解がしやすかった。ゴールデンウィークに入る直前には曜さんから、
「ギリギリ及第点」
と言ってもらえた。それまでは、
「全然だめ」
しか言われなかったから進歩している。
今年のゴールデンウィークは水曜から日曜までで最終日以外、毎日練習があり目まぐるしく日々は進んでいった。そんな中、和食さんの実力が伸び悩んでいるのが気がかりだった。曜さんに言われたことは素直にやってはいるが、いまいち上達の兆しが見えないし、本人もそれほど気にしていないようだ。あたしは自分のことで手一杯で具体的にどうすればいいのか分からない。
ゴールデンウィークが明け、次の金曜日、あたしたちは朝の六時に学校の駐車場に集まった。
「全員いるね。じゃあ荷物とか車に積んで」
みんな眠そうな顔をしているなか、曜さんはいつもと変わらず元気だ。
「だらしない若者だなあ」
そんなあたしたちの様子を見て笑うのは、これまたあたしがよく知る元気なお姉ちゃんだ。
「すみません、阿河さん。こんな朝早くからわざわざ」
曜さんがお姉ちゃんに丁寧に頭を下げると、お姉ちゃんは笑って、
「大丈夫ですよ。私も一回くらいは試合を見てみたかったんで」
あたしたちはこれから二泊三日で合宿のために大阪へ行く。曜さんの伝手で大阪にある実業団のチームと試合させてもらえることになったのだ。ただ、曜さんの車は軽で荷物とあたしたち全員を乗せるのはむりだということで、お姉ちゃんに白羽の矢が立った。あたしが予想した通り、お姉ちゃんは二つ返事で了承してくれた。
「ねえ、本当に費用は全部部費で賄えてるの?」
曜さんの車とお姉ちゃんの車に荷物を積み終えると千屋さんがそう聞いてきた。
「うん、余裕余裕」
「本当に?」
千屋さんが疑わしそうな視線を向けてきた。
「本当だって。あたしだって引き算くらいできますぅ」
「……全部任せてたからなにも言えないけど」
部長としての仕事は全部あたしがやっている。千屋さんは選手として集中していたほうがチームのためだ。といっても部費の管理や極たまに生徒会に出す書類以外なにもないから大した負担ではないのだが。
「じゃあ行くよ。阿河さん、改めてよろしくお願いします」
「任せてください」
曜さんが再度頭を下げ、お姉ちゃんは自信満々に応えた。お姉ちゃんは仕事の関係でよく運転するらしいから、たぶん大丈夫だろうとは思っている。
曜さんの車に千屋さんと北原さん、お姉ちゃんの車にあたしと和食さんが乗り込み、大阪へ向け出発した。
出発して早々に後部座席の和食さんは寝始めた。あたしも寝ようかと思ったがお姉ちゃんのことを考えると、どうかと思い起きていることにした。というより、お姉ちゃんが横で元気にしゃべるから寝られない。
「みんな仕事や学校があるのに、私たちは大阪。わくわくするよね」
「遊びに行くわけじゃないし。お姉ちゃん仕事は?」
「社会人にはね、学生と違って有給っていうものがあるの。働かなくていい権利」
あたしたちの合宿に同行するのがそんなに嬉しいのか、昨日から楽しそうだ。そこに一撃を加えたくて、
「休みはあたしたちのほうが長いけどね」
と言うと、お姉ちゃんは遠い目をした。
「どうしてそういうことを言うの」
車は首都高に入った。道は空いていて、先を行く曜さんの車は次々と車を追い越し、あっという間に見えなくなった。一方のお姉ちゃんは意外なことに安全運転を心がけているのかゆっくりだ。あたしはてっきり闘争心に火がつき、スピードを上げるものと思っていた。
お姉ちゃんは出発してからこのかた上機嫌にしゃべり続けている。
「セパタクロー、というよりかは彩夏の試合見るの楽しみだなあ」
あたしはお姉ちゃんが試合を見に来ることを固く禁じていた。身内に見られるのがなんとなく気恥ずかしかったからだ。お姉ちゃんはいつも不満そうにしていたが、あたしの気持ちを優先してくれた。
「お姉ちゃん、有給まで使ってこんなことしてていいの? 自分のために使ったら。ありがたいんだけどさ」
ラクロス選手として現役時代のお姉ちゃんは土日は必ずと言っていいほど、家にいなかった。ただ、引退してからは仕事を除いてほとんど家にいるようだ。
「ん? だからこうして自分のために使ってるじゃん」
「自分というか、あたしたちのためじゃん。友達や恋人と遊びに行くとかないの?」
お姉ちゃんはまた遠い目になり、乾いた笑いを漏らした。
気がつくと名古屋だった。どうやらお姉ちゃんのおしゃべりを子守歌に、ずっと寝ていたらしい。意識が覚醒するにつれ、お姉ちゃんと和食さんの会話が聞こえてきた。お姉ちゃんも和食さんも初対面でも物怖じせず話せるのはすごいと思う。
「あ、起きましたね」
「彩夏も寝ちゃうから退屈だったよ。今のうちから起きな」
あたしは大きく伸びをし、唸った。
「なんの話してたの?」
「私の現役時代の武勇伝。和食さんはちゃんと聞いてくれるから嬉しいよ」
あたしだって最初はちゃんと聞いていたが、何度も話されて、少しずつ受け流すようになっていた。和食さんは初めて聞く話ばかりで、きっとこの手の話が好きだろうし、さぞ会話が弾んだであろう。
「着いたら観光する時間とかありますかね」
和食さんの呑気な考えにあたしは小さく笑った。
「まさか。この後ご飯食べるくらいの時間はあるけど、それからすぐに実業団の人たちとみっちり試合。明日も明後日も、って曜さんが言ってたでしょ」
「せっかく大阪まで行くのに、それでいいんですか?」
和食さんは明らかに不満そうだが、あたしにはどうすることもできない。そもそもあたしにそういう考えが浮かばなかった。
「どうせ疲れてそれどころじゃなくなるって」
お姉ちゃんが加勢すると和食さんは不満そうながらも納得したようだ。
「それはそれとして、どうして合宿が今週なんですかね」
それはあたしも気になっていた。先週のゴールデンウィークのほうがなにかと都合いいはずだ。
「それは向こうの都合もあるからね」
お姉ちゃんからはさっきまでの楽しそうな様子が消え失せ、昔を懐かしむような目をしていた。
「実業団なんて聞こえはいいけど、しょせんは社会人、仕事が忙しければ競技に割く時間は減るの。ゴールデンウィークみたいな大型連休は、練習に集中できる数少ない機会なわけ。これも休めれば、の話だけどね。曜さんはその辺よく知っているだろうし、配慮したんだろうね」
お姉ちゃんの実感が籠もった熱く重い言葉にしばしあたしも和食さんも言葉を失った。
正午過ぎに大阪に到着し、曜さんの車と合流してご飯を食べた。その後すぐに合宿会場へ移動し、練習を開始した。合宿会場と言っても専用の施設があるわけではなく、区立体育館を借り、宿泊は近場のホテルだ。
区立体育館の入り口をくぐるなり、和食さんはこの待遇に、
「実業団ってもっといい施設とか設備を使ってるのかと思ってました」
と言うと、やはりお姉ちゃんは昔を懐古するように、
「マイナースポーツだし、そういうものだよ」
練習会場にはあたしたちしかいない。実業団の人たちは仕事だから当然この場にはいない。お姉ちゃんは暇なのか、体育館の隅で靴下のままリフティングを始めた。なにも教えていないのに平然と十回くらいはやってのけてしまうから、運動神経はやはりずば抜けている。
二〇時に練習が終わると同時に一人の女性が体育館に現れ、曜さんの元に駆け寄った。肩まである髪は茶色で緩くウェーブがかかっている。白いジャケットに黒いスカートと、仕事帰りのお姉ちゃんをよく見るから、一目で社会人だと分かった。身長は一六〇くらいで千屋さんより少し小さい。
「みんないったんこっち来て」
あたしたちは曜さんの呼びかけに応じ、曜さんともう一人を中心に半円を作った。
「こちらは関西生命チャイチャナのキャプテン
曜さんの快く、のところで海宝さんは少し顔を引きつらせたように見えた。曜さんのことだから多少強引にお願いしたのだろう。それに曜さん自身は偉大な選手だから逆らえなかったのではないか、と変なことを考えてしまった。
あたしたちがよろしくお願いします、とあいさつすると海宝さんも頭を下げあいさつをした。
「本当は定時で上がって練習に参加する予定だったんですけど、チームメイト全員残業で。土日は休みなので、明日からは試合できますのでよろしくお願いします」
社会人チームとしての大変さが少しだけ垣間見えた気がした。お姉ちゃんは微塵も見せなかったが、やはり大変だったのだろうと今さらながら考えが及んだ。
海宝さんが千屋さんに向き合うと、
「もしかして唯ちゃん? 大きくなったね」
と、親戚じみた感想を漏らした。
「……すみません、よく覚えていません」
千屋さんは必死に思いだそうとしているのか、少し上を向いている。
「ずいぶん昔に会ったきりだからね、しょうがないよ。でも、唯ちゃんの話はよく聞くよ。今の高校女子に怪物がいるって」
「それは、どうも……?」
名声やらに無関心な千屋さんは当惑するばかりなのか、その表情にあまり変化はない。それに、去年は優勝を逃しているから内心ではそんなものに意味はない、と毒づいているはずだ。
「素直に喜びなって。去年は残念だったかもしれないけど、先は長いからこれからだよ。それにきみたちが、脇目も振らず一つのことに集中できるのはこれから数年くらいだし、羨ましいよ」
海宝さんの纏う空気が少し変わった気がした。そう感じたのはあたしだけじゃないようで千屋さんの目が少し険しくなった。
「高校生はプロと違って一度きりの試合だから必死さが違う、なんてよく言うし、多くの人が頷くじゃん? 本当にそう思う? プロでもスター選手じゃない限り一試合一試合に人生かかっている人もいるでしょうし、実業団に至っては仕事と掛け持ちよ? 練習時間を捻出するのにどれだけ大変で、わずかな練習と数少ない試合にどれだけ必死か」
さっきまで丁寧にあいさつしていた海宝さんはそこにはもういなかった。代わりに闘志剥き出しで痺れるような人がいた。和食さんを除くあたしたち全員より小さいはずなのに、同等に見えてきた。
「正直に言うと私は仕事が全然だめ。パソコンの操作は遅いし、仕事に必要な知識は覚えられないし。学生のとき勉強しなかったってのもあるけど、本当に酷い有様なの。上司や同僚からは白い目で見られるし、後輩にも追い抜かれそう。それだけセパタクローをやってきてる。はっきり言って、若さと才能だけの君たちに負ける気がしない」
海宝さんはさっきまでの闘志はどこへやら、笑顔に戻り、再度あいさつをしてから体育館を後にした。
学生と実業団の覚悟の差。海宝さんはとんでもない爆弾を置いていったものだ。海宝さんに怯み、のまれそうになる自分自身を奮い立たせた。
千屋さんと北原さんを見ると、それすら叩きのめしてやる、とでも言いたげな不敵で頼もしい表情をしていた。
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