21-1
暗い部屋で目が覚めた。枕元の時計のバックライトを点け時間を確認すると夜中の三時だった。変な時間に目覚めてしまったようだ。あたしともあろうものが、明日の最後の試合に緊張しているのだろうか。やることはやってきた。千屋さんも明賀先輩もいる。負けるわけがない。
そういえば、変な夢を見た。最後の最後で負けて、日本一を逃す夢だった。やけにリアルで不吉だった。あたしは本当にナーバスになっているようだ。
日付を見てあたしは固まった。試合は終わっている。夢じゃない。あれは、現実だ。
あの後どうしたのか記憶がない。気がついたら夜中の三時に自室のベッドで目が覚めた。みんなどんな顔をしていた? あたしはどんな顔をしていた? 相手はどんな顔をしていた? 相手は喜んでいた? あたしたちはそれをどう見ていた? どう受け止めた? 試合後あたしはみんなになんて言った? 千屋さんはなんて言った? 明賀先輩はなんて言った? 宮成先輩はなんて言った? 北原さんはなんて言った? どうだった、どうだった、どうだった、無数の疑問がとりとめもなく浮かんでは消えていく。あたしは、あたしは、あたしは……。
最後の試合に負けた。その純然たる現実だけがあたしの頭の中に居座り続けた。
眠れないまま朝の五時になった。日の光がカーテンの隙間を通ってあたしの顔を照らしてくる。煩わしいがあたしは動けないでいた。
むしゃくしゃし、頭を掻きむしっても負けた現実は消えなかった。吐き気にも似たようなものが込み上げてくるが、なにも出てきそうにない。出てくるのは涙と低い唸り声だけだ。掛け布団を強く握りしめても、顎が痛くなるまで歯ぎしりしても、あたしのふくらはぎを強く痛みつけても、時間は戻らない。
居間のほうでなにやら物音がしたような気がした。あたしは部屋をそっと出て、廊下から居間を覗くとお姉ちゃんが冷蔵庫を漁っていた。
「あれ、彩夏。早いじゃ……」
振り向いたお姉ちゃんが声をかけてきたが、あたしの顔を見るなり絶句したのが分かった。
「ひどい顔だ。こっち座りなよ」
お姉ちゃんが手招きし、あたしは素直に食卓の椅子に座った。しゃべるのも反抗する気力もなかった。
「彩夏、帰ってきてから飲まず食わずだよ。自分の状態分かってる?」
あたしは黙って小さく首を振った。
「こんな暑い日に飲まず食わずは本当に死ぬよ」
お姉ちゃんは冷蔵庫の中のスポーツドリンクをコップなみなみまで注ぎ、テーブルに置いた。さらに昨日の残り物なのか、こんもり盛られたそばとめんつゆも出てきた。
「私が食べようと思ってたけど、あげる。食べなさい」
あたしはまず飲み物を口にした。その瞬間自分がどれほど渇ききっていたのか自覚し、一気に飲んだ。お姉ちゃんは無言でまたコップになみなみとスポーツドリンクを注いだ。
そばも一口食べると空腹を自覚し、貪るように食べ、ものの数分で食べ終わった。
「まずは冷静にならないといけないよ」
お姉ちゃんは頬杖をつき、真剣な表情であたしを見つめてきた。
「帰ってきてからずーっと部屋に閉じこもってるから心配したよ」
「うん」
「負けたの?」
こういうときお姉ちゃんはオブラートに包むとか、優しく聞くようなことはしてくれない。でも今はそんな優しさはいらない。
あたしは小さく頷いた。水分を取り戻した体から再び涙が溢れてきて、視界が歪む。お姉ちゃんに見られたくなくてあたしは急いで俯いた。
「……悔しさなのか、苛立ちなのか、今の自分が分からない。どうにかしたいけど、自分じゃどうにもできない。あたしは一体どうしたらいいの。どうやったらこの気持ちが消えるの」
「教えてあげようか」
お姉ちゃんの言葉にあたしははっと顔を上げた。そこには優しくかつ真剣に微笑むお姉ちゃんがいた。
「私もラクロスの試合で負けたことはいっぱいあるからね。彩夏の気持ちはよく分かるし、こんなときどうすればいいのかもよく知っている」
「どうすればいいの」
あたしにはもうお姉ちゃんの言葉にすがるしかなかった。
「部屋で暴れる。壁に穴を開け、嵐が通り過ぎたかのようになるまで部屋を荒らす。徹底的に」
「それであたしの気持ち悪い感情は消えるの?」
「消えない」
「じゃあどうすれば……」
「今度は叫ぶ。もっと暴れる。疲れ果てて寝てしまうまでね」
「消える?」
「消えない」
「じゃあどうするの」
「今度は練習する。負けた試合を思い出し、あのときどうすればよかったのか、どうすれば勝てたのか、考えて考えて考え抜いて練習する」
「消える?」
「消えない。で、時間が経ってある程度するとようやく冷静になれる。すると……」
「消える?」
「消えない」
「ずっと消えないじゃん……」
お姉ちゃんが、その通り、とでも言いたげな様子で強く頷いた。
「今彩夏が抱えているものは消えないんだよ、そんなことじゃ。消す方法は一つ。負けた相手に勝つこと。それでようやく消える」
負けた相手に勝つこと……。次に勝ったとしても、明賀先輩と宮成先輩は……。
「いい、よく覚えておきな。今彩夏が抱えているものが時間で消えるのは一流以下だけ。超一流は次勝つまで一生消えないからね」
いつものトレーニングコースをロードバイクで二往復した。とにかく体を動かし続けたかった。部屋にいても気が滅入るだけだし、そのままどこかで頭が変になるのは目に見えていた。ただ、こうやって体を動かし続けていても、同じような状態になることは分かっている。最後の最後で負けたのは変わらないからだ。
まだ朝だというのに日差しが容赦なく襲ってくる。普段の練習着を着ていて、肌が露出している場所は顔だけだから全身日焼けすることはない。部屋着のまま出ようとした寸前でお姉ちゃんに着替えろとたしなめられた。
「体を動かすのはいいけど、自棄になっちゃいけない。事故や怪我だけはだめ。身なりを整えれば、精神も多少は整うから着替えていきな」
全身が痛い。寝不足と疲労が頭、首、腕、なにより足全体を苦しめている。普段のような速度で走れない。あたしは早々に息を切らし始めていた。
それでも、お姉ちゃんが言っていたように、今のあたしが抱えている気持ちは消えない。
あたしは無意識に学校への道を走っていた。足に力を込め走り続け、校門まで来てしまった。校舎に掛けられている大きな時計は朝の八時ちょうどを指していた。
駐輪場の柱にロードバイクを立てかけ、足は自然と体育館へ向かった。
体育館の入り口は閉じられていて、開けようとすると、ドン、ドン、となにやらボールを突くような音が聞こえてきた。こんな時間から練習している人がいるのだろうか、と扉を細く開けて覗き込んだ。
コートもなにも設営されていない体育館のど真ん中で千屋さんがボールを天井に向けて蹴っていた。ボールは天井に勢いよく当たり、真下へ落ちた。落ちてきたボールを千屋さんはより強く天井へ蹴り上げた。千屋さんがボールを蹴る音と、ボールが天井に当たる音が何度も響く。何度も何度も何度も。
「千屋さん」
あたしはそっと近づき声をかけたが、千屋さんはこちらを振り向くことなくボールを蹴り続けた。
普段なら無視されたことに腹を立てるが、千屋さんの気持ちを考えるとそんな気にならない。千屋さんの前に回り込むと、千屋さんの髪はぼさぼさで、目元には隈ができている。肌も唇も荒れている。どれだけこうしているのか分からないが、千屋さんの足下には大量の汗のしずくがこぼれ落ちている。
「もっと……」
千屋さんの様子にしばらく呆然としていたら千屋さんがぼそっと呟いた。
「もっと早く真剣にやればよかった」
千屋さんはボールを蹴り続けながら低く声を絞り出した。
「五ヶ月はむだにした。それだけの時間があれば……。それだけあれば絶対負けなかった」
五ヶ月。千屋さんが高校生になった四月から去年の夏の大会の八月までの期間だ。千屋さんはその期間を悔いている。
「真剣になるのが遅かった。どうしてもっと……。もっと……もっと……」
それきり千屋さんは無言でボールを蹴り続けた。
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