第5話  奇妙な男との再会と、


 次の朝――彼のいた島を訪れ、奇妙な男と出会った翌日――、ホテルの部屋で目が覚めた。

 男と出会った夜、あれからは何も分からなかった。彼や私をなぜ知っているのか問い詰め、それはもちろんブンガクですので、と、かみ合わない答えが返る。それを繰り返した後、なぜだか気がつくと、男がいなくなっていた、気がする。どこにも隠れるような場所はなかったのに。おそらく私は疲れきっていて、記憶があいまいになっていた、のだと思う。


 正直何だったのか、よく分からなかった。男の言葉が真実なのかどうか以前に、何を言っているのか分からなかった。ただ、口にしたことさえない私の中の言葉を、男が喋ったのは確かだった。『空白を埋める言葉』。

 本当に、何なのか分からなかった。ただの妙な夢、というのが一番ありそうだと思った。そうであればいい、とも。


 身支度をしてチェックアウトし、車で移動する。予定は何も考えていないが、ともかく朝食を摂ろうと思った。

 コンビニやスーパー、ドラッグストアのチェーン店。ある程度の大きさを持った店――島だからといってドラッグストアも小さいということはなく、地方都市で見かけるような大型店舗だ――が並ぶ一角にファミリーレストランのチェーン店を見つける。旅行とはいえ、特に変わったものを食べようという気もなかったのでそこに入る。二十四時間営業のはずのチェーン店はなぜか、朝七時から夜一時までの営業と記されていた。


 店員を除けば店内には人の姿が見えなかった。今日最初の客になったかと思ったが、禁煙席に案内されて、そうでもないことがすぐに分かった。

 こちらに背を向けて席にかけ、ステーキセットの薄い肉を相手に、熱心にナイフを動かす男。波打つというか、縮れた黒髪。しわの寄った黒いスーツ。テーブルに置かれたシルクハットと、黒い本。

 昨日の、ブンガクと名乗った男だった。


「おや、お早うございますな。ま、どうぞこちらへ」

 男は私の方を振り向き、脂にまみれたナイフで自分の前の席を指した。フォークに刺した肉を口にやり、忙しげにあごを動かす。


 私は男の前には座らず、背中向かいの席を取った。ため息をついて言う。

「初めて知りましたけど。食事をするんですね、文学って」

 男は気にした風もなく肉を切る。

「えぇえぇ、なにせ。生き物ですからな、ブンガクは。とかく腹の減るものでして」

 肉を平らげ、ライスをかき込み、テーブルのボタンを押して店員を呼ぶ。

「モンブランとフルーツロール、それに抹茶パフェを。それと、後ろの彼女の注文を」


 わざわざそう言われるのは不愉快だったが。テーブルの上にあった、朝定食のメニューに目を走らせる。私が口を開くより早く、男が言う。

「『焼き鮭朝定食』を。ドリンクバーなどは……ああ、『いらない』ので? ……だそうです店員さん、彼女は。ああ、伝票は別々でお願いいたしますよ」

 また、だった。またしても男は、私の思考を読んでいた。


 視線やわずかな反応から、朝定食を頼もうとすることやドリンクバーを頼まないことぐらいは推理できるだろうが。メニュー表なんてそう大きなものでもない、視線を見たところでどの定食にするかなんて分かるとは思えない。

 それに何より昨日の言葉――『見つかるとよろしいですな。空白を埋める言葉』。


 何なのか、何なのかはまったく分からないが。間違いなくおかしな存在だった、この男は。そう今、コーンスープを最後の一滴まで飲もうとして、背を反らしてカップを垂直に傾けている男は。


 その男はカップを置いて口を拭った。背を向けたまま無言。

 私が口を開こうとしたとき、男は言った。

「さてさて。どういったご予定ですかな、本日は」

 私は頭をかき、鼻でため息をつき、放り出すように言う。

「読んだら、どうです。さっきみたいに」

 理解できないし認めたくもないが。男は本当に、私の心を読めるらしかった。そう考えるのが妥当とは分かっているのだが、不愉快で、半ばやけにそう言った。


「と、申されましても。読めませんな、書かれていないことは、心に。まぁ、ということは……何も決めていらっしゃらないと、そういうことで」

 そのとおりだった。


 男は肩をすくめてみせる。

「いやはや、なんとも。ま、それも妥当でしょうかな。観光なんぞしたところで、お探しのものが見つかるとも思えませんで。詳しいところは道々決めればよろしいでしょう。わたくしもお供しましょうほどに」

 思わず男の目を見た。そういえば昨日も、お供するだとか言っていた。


 私の顔が引きつるのを知ってか知らずか――知らないはずはない――、男は笑った。芝居がかった動きで腕を上げる。

「さてさてと。どうなりますかな今回の、この物語の道行きは。悲劇か喜劇かそれとも何かか、お探しのもの見つかるか。はてさていったいこの文学、いかに書くのか書かれるのか、このブンガクめにも読めませぬ。続きは後のお楽しみ、と。ンフフ」


 男はコーヒーカップを手に取り、口につけた後言う。

「悲劇は、ご免こうむりたいですな。フフ……ま、差し当たっては。美食記などでもよろしいのでは」

 カップを持ったまま男が指差す方に、店員が定食を運んできていた。近づきにくそうな足取りで。

 私は男から顔をそむけ、店員に笑いかける。店員から返ってきた笑顔はひどくぎこちなかった。きっと私も、同じ表情をしている。


 定食は普通の味で、別に美食記にはならなかった。私がレジへ清算に立つと、当然といった顔で男もついてくる。

 男はパフェのクリームがついた唇を拭く。シルクハットを頭に載せながら言った。

「ご心配なく、ブンガクとていささかの蓄えはございまして。たかろうなんてつもりは皆目ございませんで。おごるつもりも同様ですがな」


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