第3話 報復の誓い
あっという間に暗くなった森の中を、雪姫はあてもなく歩いていた。
車から飛び出した頃はまだぎりぎり青かった空は、もう群青から漆黒へと変わってしまっている。
方角がわからない。雪姫は星の位置から方角を知る方法など知らない。
それ以前に、今自分がどこにいるのかすらわからなければ、方角など知る意味があるのか?いや、一定方向に進むという意味では合っているのか?
お腹がすいた。でも食べ物なんか持っていない。
持っていた通学バッグはさっき逃げてきた車の中だ。バッグを掴む冷静さなど、あの時はなかった。
あの中にスマホも財布も、こっそり持っていた化粧ポーチも入っていた。
どこにも連絡が取れないし、明かりの一つもない中を、延々と歩くしかない。
体が気持ち悪い。
体には、まだあの男の感触が残っている。
実に不快だ。
自分の容姿がいいことは雪姫も自覚している。クラスの男子の視線を集めていることもわかっている。だが、あんなブ男に、生きるためとはいえ体に触れることを許してしまったことが苛立たしい。
幸い制服は全て身に纏っている。男の温もりが残っているような気がして不快極まりないが、気温の下がった森の中で一枚でも纏う衣服を減らすことの方が苦痛に思え、不快感を抑え込んだ。
靴も、車内で脱がされなかったため、今も履いている。裸足でこんな森の中を歩かずに済んでよかった。
「あ……」
雪姫は真っ暗の視界の中で、一筋の光を見た。
何の比喩でもない、人工の光だ。
雪姫はふらふらになりながら、光源に向かって歩いていく。
そこは、一軒の家屋だった。
ログハウスなどではなく、あまり造りがいいとも言えない微妙なボロさの、廃屋一歩手前に見えるものだったが、窓からは光が漏れ、人の話し声も聞こえる。
入るべきだろうか。
一瞬迷ったが、もうあの家に入れてもらうしか選択肢がないことに気づき、構わず玄関に向かう。
インターホンを押すと、家の中の話し声が止んだ。
十数秒すると、玄関のドアが開く。
中から現れたのは、スウェットを着た小太りの中年男性だった。年のころは四十代半ばといったところか。後退した前髪と、だらしなく肥えた体に見えるが、腕はそれなりに太く見える。
「どちらさん?」
怪訝な表情で、中年男性が尋ねた。
「あの、実は道に迷って、どうしたらいいかわからなくなって、やっと、灯りを見つけて、それで……」
どう説明すべきか迷いながらも、とにかく口元に手を当てて困っている状況であると説明する。
「ああ、そんな恰好でこんなとこにいたら大変だ。事情は後で聞くから、ひとまず中に入りな」
中年男性は、慌てて雪姫を家の中に招き入れた。
家の中には他に六人の中年男性がいた。
発泡酒の缶を手に、乾きものをテーブルの上に広げている。
「サブ、なんだった?」
「あれ、女の子?」
「どうしたよ、誰か嬢でも呼んだか?ハハハ」
最初は怪訝な視線と興味本位の視線を向けられたが、憔悴している様子の二回り年の離れた子供の姿に只事ではないと悟ったことに加え、みなアルコールが入っているせいもあり、「とりあえず座んなよ」「腹減ってないか」と雪姫に椅子を差し出してペットボトルのお茶を渡し、冷凍食品の唐揚げを温め始めた。
雪姫はゆっくりと事情を話し始めた。
母親に邪険にされていること。
その母が人を雇って自分を殺そうとしたこと。
そこから命からがら逃げてきたこと。
「それなら、まず警察じゃないか?」
雪姫の説明後、一人が口を開いた。
「確かにな」「俺たちじゃどうしようもない」
口々に同意の声が上がる。当然だろう。
だが、雪姫には懸念があった。
警察が何とかしてくれればいいが、母を殺人かその教唆で逮捕してくれるか?
殺人を依頼した証拠はあるか?母がそれを残しているか?
いや、逮捕されるにしても、自分が生きていると知ったら、再度殺そうとするのでは?それまでに、警察は動いてくれる?第一優先は身の安全の確保であって、母親が逮捕されるかどうかはその手段に過ぎない。自分を殺そうとした母に目にもの見せてやりたい気持ちはあるが、それも自身の安全確保があってこそだ。
「母は大病院の経営者です。いろんなところにパイプがあります。だから、警察も心配です……。もし、家に連れ戻されたら、今度こそ母に……」
とっさに、雪姫は嘘を吐いた。
本当にそんな大それたコネがあるかと言われれば、可能性は低い。ないと言い切る自信はないが、大病院の経営者であり、いくらかのコネクションがあることは事実だ。だから、完全に嘘を話しているわけではない。
「ならどうしたらいい?」
中年男性たちは対応について議論したが、結論は出ない。
結局、この日はもう遅いということで、雪姫を泊めることにした。
この家には余分な部屋がない。
一階にはリビングとダイニングキッチン、風呂とトイレがあり、二階には六畳の寝室が二部屋あり、布団を敷いて半数ずつ雑魚寝しているそうだ。
あの七人は、土木建築会社の社員で、この付近で長期の仕事があったため、この家を臨時の社員寮として使っているそうだ。日中は屋外で仕事をし、夜は酒盛りの毎日を送っているという。
雪姫は寝室代わりにリビングに予備の布団を敷いて寝ることにした。
(まずは、生活の基盤を作らないと……)
何しろ雪姫は一文無しだ。家に戻るわけにもいかないため、泊る場所と食事の確保は最優先事項になる。
だが、仮に明日街まで送ってもらっても、行くあてがない。友人宅も、その親が気を利かせて自宅に連絡を入れる可能性が高い。
しばらくは、ここに住まわせてもらうしかない。
だが、未成年を居座らせることをするだろうか?確か、犯罪になるはずだ。
(なら、先手を打つ)
雪姫は意を決し、布団から出た。
布団の中で眠っていた、雪姫を招き入れた男—――三郎は、違和感を覚えて目を覚ました。
布団の中に、雪姫が潜り込んできたのだ。
「な、なにして—――」
「し~」
雪姫は人差指を唇の前に立てて、「静かに」と制した。
「お礼、しに来ました」
「え?」
「あのまま放り出されていたら、死んでたかもしれないから」
雪姫が布団の中を下へ下へと移動する。
「こんなことしか、できないから」
掛け布団の下、衣類の擦れる音が耳につく。
「だから—――」
暖かくぬめった感触。
「おぅ」
思わず声が漏れる。
部屋で寝ている三人の中年男性が発する、大きないびきの中に混じるのは、布団の中の淫靡な音。
三郎は快楽の波に流されながら、一点に意識を集中した。
雪姫は布団の下で、口内に不快感を覚えながらも、歪んだ笑みを浮かべていた。
(これで、いい)
これで、ここから追い出されないための一手を打つことができた。
(待っていて、お母さま)
(わたしを殺そうとした報いを、受けさせてあげるから)
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