商業主義に踊らされていると自覚した上で踊るのは人生をうまくやるコツのひとつ

ナツメ

オランジェットの食べ比べ

「バレンタインの記憶がない」

 と彼女が呟いた。感じのいいチョコレート専門店の店内で。

 客は僕と彼女のふたりきりで、繁忙期を終えた店員さんは柔らかい笑みを絶やさずに僕らの動向を伺っている。

 記憶がないって、つい先週土曜に一緒に高島屋までチョコ買いに行ったじゃないか。そこでオランジェット――僕の好きなやつ――を買ってくれて家に帰って一緒に食べた。バレンタイン当日は平日だったから、仕事終わりにスタバに行って期間限定のフォンダンショコラフラペチーノ飲み納めをした。あれめちゃくちゃ美味しかったので定番化してほしい。

 そんなことを矢継ぎ早に思ったが、口には出さなかった。たぶん、彼女の言っていることはそういうことではない。さすがに付き合いが長いのでわかる。もっと言えば、ここからちょっと面白い話になりそうな予感もしている。だけど、うっすらとジャズが流れる以外に意味を持つ音がないこの狭い店内で、二人の店員さんに見守られながらするには僕らのそういう話はいささかヘビーだ。

 だから僕は彼女のそれを、その場では独り言として処理することにした。彼女もそれ以上特に何も言わず、店員さんに「このオランジェット一箱ください」と普通に注文していた。ここのはレモンとオレンジの二種類がセットになっているらしい。楽しみだ。


 ものの五分程度の滞在で店を出た。数日前までは一歩外に出ると寒さに肩を竦めていたが、昨日も今日もずいぶん暖かい。コートが少し暑いくらいだ。まあ、ここから彼女の家まで歩いて五分なので、わざわざ脱ぐこともない。

「普段はぜんぜん恩恵感じてないけど、こういうときにオシャレタウンに住んでて良かったと思うね」

 右手に持ったチョコレートドリンクを吸い、左手はごく当たり前に僕の右手を握りながら彼女が言う。

「わざわざ人でごった返す百貨店の催事場でチョコを買うなど愚民のやることよ」

 たしかに今の店はバレンタインの催事に出店するような店だけども。

「いや、行ったじゃんこないだ。その愚民の祭典に」

「だって東京に店舗ないやつだったからしょうがないじゃん」

「都合の良いことを……」

 僕がわざとらしくため息をついて見せると、彼女はそれは嬉しそうにうひひ、と笑った。

「それで、バレンタインの記憶がないってなに? あるじゃない、記憶」

「ああ、ちゃうねん」

 エセ関西弁だ。

「バレンタインのエピソード? 胸キュンエピソードみたいなやつが一個も思い出せないなって。毎年一緒にチョコ買いに行って一緒に家で食べてるでしょ。だからその、としてはあるんだけど、バレンタインめいた何かってのが、ない」

 あったっけ? と言われて、僕は記憶を遡る。

「あー……あ、付き合いたての頃、手作りチョコくれたじゃない。箱まで自作して、凝ったやつ。忘れてた?」

「いや、覚えてる。ティファニーブルーの厚紙探しに世界堂行ったもん」

「あるじゃん」

「いやあ、あれはどっちかっていうとで、それをあげた時にどうとか、そういうのが全く……」

 ずず、と早くもカップの中身を飲み干した彼女の横顔を見ながら、僕は言わんとすることをなんとなく理解する。

「その文脈でいうバレンタインの胸キュンエピソードって、付き合う前のやつなんじゃないの? 僕ら付き合ったの夏だからそういうのないんじゃない」

 彼女はぱっとこちらを見て、元々丸い目をさらに丸くした。クリティカルな言語化気持ちいい、という顔だ。

「さすが、頭いいねえ」

 その言い方はまあ、客観的にはバカにしてるんだけど、僕らの間ではよくやるやつだ。

「バレンタイン胸キュンエピソード欲しいの?」

「いや、むしろそういうのないってのが、いいなあ、最高に性癖だなと思って」

 ――誤用の方の。という言葉が被った。

「ハッピーアイスクリーム」

 すかさず言うと「あ! 負けた!」と悔しがるフリをしてくれる。

「ないのが性癖とは?」

「愛は生活であって欲しいのだよ」

「お、ポエム」

 ポエムを馬鹿にするない、わたしより少女漫画好きのくせに、と口を尖らせる。ここでいう少女漫画とは萩尾望都のことだ。僕が彼女に布教した。

「ドラマチックなこととかロマンチックなことに価値を感じる季節はとうに過ぎたってことだいね。劇的であることに没入するにはわたしはあまりに誠実に生活をやっている。なんか恥ずかしくなっちゃうよ」

 彼女が抽象的なことを饒舌に語っているのを聞くのが僕は好きだ。そしてその話の内容はほとんどの場合共感できる。それまで思ってもみなかったことだとしても。

「きみ、プラセボ効かないタイプだもんね。吊り橋効果はお呼びじゃないってこと?」

 ちょっと違う気もするけどまあそんな感じ、と答える頃に家に着いた。


 手を洗っておのおの飲み物を入れて、待望のオランジェットを開封した。箔押しの立派な箱、四枚一八〇〇円のうちいくらがこの包装代なのだろうか。まあそんなのは詮無いことだ。

 ひとり二枚、レモンとオレンジ一枚ずつ、もきゅもきゅとすぐに食べ終わった。

「こないだのやつの方が僕は好きかな。オレンジの味がはっきりしてた」

「確かにオレンジはこないだのが良かったけど、わたしはレモン結構好きかも。苦味が強くてスパイス入りチョコと近い印象がある。去年のとはどっちが美味しかった?」

 などと話しているうちに、ふいに彼女の言ったことが理解できた。

「ああ、ってこういうことか」

「そう!」

「僕らは食に真剣すぎる」

「飲み込みが早くて助かるよ」

 彼女の白い手がふわりと浮いて僕の後頭部を撫ぜる。ついでに頬にキスされた。

「ロマンチックじゃない方がいいみたいなこと言って、クリスマスもバレンタインも結構律儀にやるじゃんと思ったけど、よく考えるとあれもかこつけて美味しいもの食べてるだけだもんね」

「その時期になると美味しいケーキやらチョコやらの情報がいっぱい出てくるから食べたくなるのよ。それ以外の時期は忘れちゃうし」

 イベントにこだわりすぎず、かといって毛嫌いするでもなく、商戦であると理解した上で適度に乗っかる。これが人生エンジョイ勢のやり方でしょ――ペラペラ動く彼女の口は自動筆記ならぬ自動口述状態で、たぶんあんまり何も考えていない。楽しそうでなによりだ。

「なるほどね。イベントの特別さをも構成要素として取り込む僕らの盤石なよ、ってことか」

「お、ポエム」

「今のはポエムか?」

「ポエムだよ。そして生活は続く」

「松尾スズキだ」

 これは僕が彼女に布教された。

「まあ今年は結構買ったのでバレンタインはおしまいだな。来年は何買おうかね。こないだの美味しかったやつまた食べる?」

 そう言って彼女はスマホで「オランジェット 人気」と検索しはじめる。

 それを横目に、当たり前に来年も一緒にいる予定なんだなあ、としみじみ思う。ゴールデンウィークにかこつけて旅行に行き、誕生日にかこつけて美味しいご飯を食べる。そういうことをもう何年もしていて、これからも何年もするわけだ。そりゃ特別感は無くなっていく。忘れてもいく。忘れていいくらい日々の生活が満ちて、潤っている。そしていつかくたばる。

 それってなんか。

 ――たまんねえな。

「って言うと思った。ハッピーアイスクリーム!」

 今度は僕が負けた。

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