悦楽毒

かえさん小説堂

悦楽毒

 精進料理というものはまるで食えたものじゃない。


 という言葉を耳にした。


 味は微量ほども感じられぬし、青臭く、野草を直に食ろうているのと変わりない。噛む度に歯に繊維が侵食するような鋭い食感、茎の軋む音や、湿っぽい舌ざわり、それらのひどい有様といったら、言葉にせずとも容易に想像できる。と。


 私にはこれが普通であったから、どうにも不思議でならなかった。


 寺にいる若い僧たちは、普段、平気な顔をして真剣な面持ちで、粥を舐めるように食している。少しも音を立ててはならぬという教えの通り、急ぐことなく、上品に食している。しかしその内心がこれだったとは、にわかには信じがたいことである。


 先の言葉を聞いたのは、私が掃除を終えて、木陰の隅で雑巾を干していたときだった。


 おそらく彼らには私の姿は見えていなかったのだろう。砕けたような若者らしい口調でそう言っては、このように続けたのだ。


 寺の食事は不味い。世を捨てて出家してきた者たちが食らうものであるから当然のことと言われてしまえばその通りであるが、いくら僧となったところで中身は人だ。常として接種しなければならない物が苦汁であったら、顔をしかめるのは致し方のないことであろう。


 私は驚いて、つい呆けてしまっていた。だからその場で若い僧たちを咎めることもできずに、立ち去っていく彼らの背中を呆然として見ていることしかできなかった。随分と上手い嘘であったのだな、と、私は少し悲しく思った。


 彼らは近年まで俗世に浸かっていたからそう思うのだろうか。


 私は生まれながらにして寺に住んでいたから、俗世のことはあまりよく知らないでいた。幼い頃に、誰か知らない大人二人にここへ連れてこられたから、それより以前のことなど、記憶に残っていないのだ。


 泣きじゃくる私を置いて、どこかへ立ち去って行った二人である。


 彼らがどうして私をここへ置いたのかはよく知らなかったけれど、今も昔も、それが疑問に思うことはない。私はただ精進し、仏へ絶対的な忠誠さえ誓っていれば満足された人間であったから。そして私自身、満足する人間であったから。


 ところが、今の若い僧の話を聞いている限り、どうにもここは居心地が悪いものらしい。しかしどうだろうか。彼らは世を捨ててここに来たのである。自らの足で山を登り、自らの手で寺の門を叩いたのである。ということは、俗世というものは自らの手で捨ててしまっても構わないほどに、劣悪で非道なものだということではないか。


 私はずっと、この推察を信じていた。人は俗世の地獄に耐えかねて、ここへ逃げてくるのだと、半分盲目的にそう思っていた。あの二人が私をここへ持ってきたのも、そのせいであろうと片付けていた。


 住職の分際で俗世についてあれこれと考えを回すのはいけないことなのであろう。

しかし、あそこは私にとって未知の領域。どんな地獄であっても、それを身を以て知らなければ、そこに居る者たちを救うことも難しくなるというもの。




 聞くところによると、俗世では酒が多大な権力を握っているらしい。


 人は酒を目にすれば態度が変わる。一口煽れば人が変わる。一升かければ心が変わる。それ以上召すならば行く末が変わる、という。


 私の知る限り、酒は飲みすぎると毒である。酒は百薬の長というが、どのように優秀な薬とて、扱いを間違えればすぐに毒となる。


 それに、一口煽るだけで人を変えてしまうようなものが薬であるとは、荒療治にもほどがあると思う。それだけ、そのようなものが娯楽として存在する俗世は酷な場所であるのだろう。


 もう一つ、娯楽としてよく挙げられるのが、女である。尼寺に赴くことのない私には、女というものは一種の神話的生物であるのと同等であった。確か私を置いていった二人のうちの一人が、女であったかと思う。しかし頓として想像がつかぬ。


 女はよく働くそうだ。男よりも筋力がなく、権力もないのであるが、それでも男と同じくらいには働くことができるそうである。女は器用で、主に針仕事やら、炊事、洗濯、掃除など、生活において欠かせない仕事をする。


 ここまで聞くと私共と近しいようなものと思わせるが、女は場合によっては、自身の身体を商品として売り払うと聞く。


 見世棚に並んだ、汚らしく艶めかしいそれを男が選んでは、金と交換するのだという。


 女は傀儡に近いのであろうか。自らが嫁ぐ先も、女は自身では決めないらしい。それは人間と同じなのであろうか。もはや自分たちと同じ種族とも思えぬ。


 そして最も私が耳にするのは、賭博である。


 それが一番厄介で、一番人を悦ばせる娯楽であるらしい。賭博と一口に言っても、やり方は多くあるというが、どれも本質は変わらない。金を賭け、勝負に勝てば金が増えて帰ってくる。負ければそのまま、帰ってこない。


 それに没入する人の気持ちが分からないものである。なぜ負けるか勝つか分からないものに自らの大切なものを賭けることができるのか。負ければ失われるというのに、一度賭けてしまえば最後、勝つまでやり続けてしまうとのこと。


 私が先日に陰口を聞いた若い衆も、その賭博によって家を崩壊させてしまった者たちらしい。勝てるか分からない勝負はするものではない。ましてやそれが大切なものを失うかもしれないという危険が伴うのであれば尚更いけない。


 しかしそれを私が言えば、そのようなことは分かっている、と返ってくる。それでもやめることができないから困っているのだ、と言う。勝つかもしれないという希望が捨てられないからやり続けてしまうのだと言う。不可解な心理である。


 ここまでが、私が人伝に聞いてみたことである。これらが俗世の娯楽。俗世を生きるために得る悦楽。どうしてこうも汚らわしいのか。


 毒を毒だと分かっていて食すようなものである。毒だと分からず誤って食してしまうのならまだしも、彼らはずっと、それが毒であると正しく認識しながら溺れているのである。


 そのような者が、この世は地獄だの金がないだのと言うと、途端に救済する気もなくなってしまう。なぜなら彼らは、犬よりも頭が弱いのだから。犬は毒を毒と分かっていて食すことはない。良い物を食う。悪い物を避ける。この二つの簡単なことができないのだから。




 そう思っていた。




 甘く見ていた。俗世の人間すべてが、そのように頭の弱いものたちばかりではないと、少し考えればわかりそうなものであった。無知であった。


 あれは恐ろしいものだった。人の手には負えないものであった。同時に、人にとって強く必要になるものであった。




 酒という物は強い毒の一つだ。まず一口煽ってみれば、刺激の強い匂いが鼻孔を貫く。舌がしびれるような感覚を我慢しながら喉奥へと追いやれば、しびれは消えていずれそれが腹の下へとたまっていく。それと同時に、頭がふらふらと、朦朧としてくるのである。


 最初はその刺激が苦痛であった。しかし身体がそれに順応してくるにつれ、次第にそれが得も言われぬ快楽へと変わっていくのがわかった。


 鼓動が早くなる度に、一種の眠気のような心地よい霞がかかり、張り詰めた気持ちを落ち着かせていく。頭の片隅で誰かが、おかしいぞと言っているが、その忠告も意味をなさないものとなっていた。


 気分が陽気になって、どんなものも矮小なものに見え、罪だとか悪だとか、そのようなものもどうだっていいように思えた。一番寛容になることができた。


 私はそのまま眠り、目が覚めるまで、自らの倫理観の境界線をあやふやにしたままにしておいた。毒牙にかかる心地良さを、頭の片隅に残しながら。




 女は魔性なものだった。人の本能を引き出す天才であった。


 女はあれだけの武器を隠し持っているというのに、控えめで、男を立てようと常に念頭に置いているというのであろうか。そうだとしたら、それはなによりも恐ろしいものである。


 商品として並んでいるものもそうであるし、町中で歩いているものもそうである。どうしたって女はあの柔和で穏やかな顔を取り付けては、自らの美を飾り、男を引き付けるだけの能力があるようだ。


 茶屋の看板娘とて、遊郭の花魁とて、果ては縁側で走り回っている幼子でさえそうであった。女は器量と誘惑の才能があった。そしてそれに乗ったとき、男は女に敗北するのであった。


 また、女はとても美しい。同じ人間であるというのに、こうも違う容姿をしていると、同じ種族であるということが疑われてならない。


 女はどのようなときだって美しいものである。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花という言葉の通り、どの角度で見たところで、女は女であった。死に絶えるときだってそうだった。その命を鷲掴みにしたときだってそうであった。痛めつけたときだって、その美が失われることはなかった。細い腕に絡まるようにつけられた刺青だって、犯罪者の証というよりかは、真白な肌を彩る装飾のように見せた。


 彼女らは命を失うその瞬間でさえも、美しさを忘れなかった。耽美なる生き物であった。




 鉄火場は好奇心の渦巻く地獄だった。失ったときの喪失感は絶望を尽くし、得たときの幸福感は何にも代えがたい喜びであった。


 負けた者が悔しさのあまり、勝者に対して殴り掛かることも少なくはなかった。イカサマをしていると言いがかりをつけて争うこともあった。


 私はそれを見るのが面白くて仕方がなかった。自らが勝つことも面白いが、人が争い喧騒をあげる様はもっと面白い。惰性と愚が渦巻くその空間では、言いがかりをつけられることだって愉快に感じた。殴りかかられても、それが負け犬の遠吠えのようにしか見えなかったから、どんなことが起こっても寛容になることができた。


 その時の私は、仏よりも寛大であった。


 しかし負ければ、地獄に堕とされたかのようだった。先ほどまで笑ってみていた者の隣に突き落とされたような錯覚があった。だから負けた時は尚更、這い上がるために金を使った。多少強引な手を使うこともあった。その地獄を出し抜くためならば、寺の仏具だって内密に売り払うことも容易かった。



 

 私は思う。毒とは甘美なるものなのだと。人が毒を毒と認識したまま食らうのは、その毒が何にも代えがたい幸福をもたらすものだからであると。たとえその身を滅ぼしたとしても、得ずにはいられないからであると。


 実際、私が犯してきた俗世の娯楽は、どれも精進を妨げ、天に上るに至るまでには邪魔なものばかりであった。しかしどれも甘美であり、手を引くために多大なる労力と心労を要した。


 酒をはじめとし、女に賭博、果ては殺人に強盗まで、この世で得られるすべての悦楽が毒であった。しかし同時に崇高なものであった。




 そして私は思ったのだ。人を殺めるのも、人が争うのも面白いのであれば、自分が死ぬときは、どんなに愉快であろうか、と。


 人を侵す毒が快楽であるならば、命を奪うまでの強い毒なら、どれだけの悦楽が得られるだろうか。


 私が手にした「これ」は、腕のいい医者を脅して作らせたものである。


 これを飲めば確実に死ぬ。五臓六腑すべてを侵し、全身に毒を浴びて死ぬ。


 私は震えが止まらなかった。こいつを口にした瞬間、どれだけの苦しみと悦楽があるのか。そう考えると、口の端が吊り上がるのを止めることができなかった。


 すっかり悪行に染まった私の魂は、確実に地獄に堕とされるであろう。しかしその地獄でさえも、私を蝕む毒となるのだ。愉快で、面白くて、たまらない。


 私は毒を舐めた。舌を這うしびれと強い匂いを感じながら、愉快な眠りについた。


 圧巻であった。……。

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