ブルーサファイア

あべせい

ブルーサファイア



「あなた、なにチンタラチンタラ走っているのよ。この車、アウディでしょ。目の前のは国産よ。アウディが国産のおシリについていって、どうすンの。早く、追い越しなさいよ!」

 片側一車線の国道。真っ赤なアウディが国産のミニバンに阻まれて、スピードが出せないようす。

 フロントガラスに雨粒が当たっている。霧雨だろうが、視界が悪い。そのうえフロントガラスは、ホコリをかぶったように汚れている。

「あなた、ウインドウをきれいにしたら。ハネムーンのために買ったばかりのアウディでしょ。いくら雨でも、出かける前に手入れくらいしておきなさいよ!」

「わかった。いまやる」

 フロントガラスにウオッシャー液が細く噴き出す。しかし、どうも勢いがない。

「おかしい。ふつうはもっと強く出るよな」

 アウディが車道脇に停止した。

 運転席の夫が、車から降りてボンネットを開け、エンジンルームを覗いた。右奥に見えるウインドウウォッシャー液用の小さなポリタンクには、青いウォッシャー液が規定量入っている。

 運転席に戻る夫。

「液は充分に入っていたよ」

「あなた、買うとき、チェックしなかったの?」

「ブレーキやアクセル、ランプ類はチェックするが、ふつうウオッシャー液までやらない」

「ダメね。自分のお金を出さないから、そんないい加減なことができるのよ。もォいいから、早く出して、早く!」

 アウディが発進する。

「(小さく)中古って、こんなものか」

「なによ。中古でも、新車同然だって言ったのは、だれよ。5百万もしたンでしょ。だれから買ったのか知らないけれど。遅れた分、取り戻さなくちゃ。前を行く、あの国産。抜いてよ。どんどん追い越して!」

「追い越せ、って言っても、ここは追越し禁止区間だ」

 なるほど、センターラインが黄色く塗られている。

「追越し禁止!? だから、どうしたの。パトカーなンかいないじゃない。早くゥー!」

「しかし、そうはいってもな……」

 追い越し禁止は無視したくない。

「また、後ろから国産!」

 黒いヴィッツが追いぬいて行った。

「抜かれたァー! どういうこと。このアウディ、どこで買ったきたのよ!」

「おい、いま抜いて行った黒いヴィッツ、どっかで見たことないか。うちのマンションの近くで。よく見かける気がする……」

「なに寝惚けたことを言ってンのよ。もッ、やってらンない。りこん、リコン、離婚よォー!」

 運転席の夫は、いきなり乱暴なハンドル操作で、再びアウディを脇に急停止させた。もう我慢ならないという顔をしている。

「おい、おまえはいつから、そんなキャラになったンだ! おれたち、結婚して、半年だろッ。その前に3ヵ月同棲して、もうやっていける、って自信がついたから、結婚したンだったよな」

 しかし、助手席の妻も負けていない。

「あなたこそ、いつからこんなヘボ運転するようになったの。アウディが欲しいと言ったのは、あなたよ。わたしは国産でいいと言ったのに!」

「それは……おまえが高級車に乗りたい、って言うから、外車ディーラーに頼んだンだろうが……」

「他人(ひと)のせいにするンじゃないわよ。わたしの親が金を出すとわかってから、あなたはガラッと変わった。年収400万しかない男が、500万のアウディを買って、うれしいわけ? それも中古をね」

「そういう言い方はないだろう。おれが、おまえの親に、金を出してください、って頼んだか。お金の心配はご無用です、ってわざわざお義父さんに言ったンだ。それを……」

「あなた、本当に、その程度のバカなの。信じらンない。娘が高級車が欲しいと言っているのを知って、うちの親が黙っていられる? あなたは元々、車は走ればいいという、つまらない考えの持ち主だった。時計も、正確な時間さえわかれば、安ものでけっこうと言っていた。それは、お金を出すのが惜しいからなンでしょ。あなたのそういうセコイところが、わたしは嫌いなの」

「そうじゃない。おれは、そんなさもしいことで言っているンじゃない。車は移動の手段だろう。速い遅いはあるかもしれない。乗り心地に問題があるかも知れない。しかし、車は、故障せずに目的地まで安全確実に到達できればいい。そういう意味で、車は走ればいい、と考えている。時計だって、金や宝石類で装飾していなくても、正確な時刻を教えてくれることがいちばん大切だと思っている。それだけだ」

「そんなひとが、どうしてアウディが欲しいと言ったわけ?」

「それは……」

 夫は口籠る。アウディはアメリカの映画で、女にモテまくる主人公が、乗りまわしていた車だ。夫はそのとき、一度はこんなタフでカッコいい車を運転したいと思った。しかし、アウディは、安くて300万、高い車種だと2000万円以上する。夫の収入じゃ、とても手が出ない。だから、出会った外車ディーラーに、中古でも、新車同然の輝きをもつアウディを探させた。

「それは、って? どうしたの? あなた、都合が悪くなると、いつもそうしてダンマリね。あなたの、そういうところが、わたしは嫌いなの!」

 おれは、どうして、こいつと結婚したンだ。どこに惚れて、一緒になろうと思ったンだろう……。夫は妻と出会った頃を思い出す。

「おまえが運転しろ」

「いいわよ!」

 妻は口をヘの字にして、シートベルトを外す。

 夫が助手席に移り、妻が険しい顔でハンドルを握った。険悪な空気をそのままに、アウディは老舗温泉ホテルに向かった。


 夫・門咲元夫(かどさきもとお)と妻・左矢(さや)の出会いは、1年前のちょうどさくらの咲く、この頃だった。

 役所に勤める元夫のところに、宅配業者として配達に来たのが、左矢だった。彼女は宅配便大手の会社に中途採用された新人、担当したのが、元夫の役所があるエリアだった。

 左矢は、長身でスリムだが、見かけによらず、がっしりしていてパワーがある。大学では福祉や介護を学び、卒業後は老人介護施設に就職した。

 しかし、人間関係のトラブルに巻き込まれて2年で退職。その後は、父が自営でやっている宅配下請けを将来引き継ぐため、いまの運送会社に、配達のノウハウを学ぼうと転職した。

 元夫は真面目だけが取り柄の平凡な男だった。大卒後、役所に勤務して6年、住民課をふりだしに、道路整備課、健康保険課と移り、去年の4月に1階の福祉課に配属されたばかりだった。

 この日、左矢が段ボール3箱を載せた台車を押して、元夫の福祉課を訪れた。

「こちらでよろしいでしょうか?」

 左矢はそう言い、返事を待たずに、福祉課のカウンターの上に1個目の段ボールを上げた。

 すると、そばにいた年配の女性が「ダメダメ。門咲クン、教えてあげて。廊下の壁に沿って置くように」と、元夫に指示した。

 パソコンを操作していた元夫は、カウンターを出ると、「こっちです」と言い、左矢に代わってカウンターの上から段ボールを台車に戻し、さらにその台車を押して廊下を進んだ。

 左矢は「わたしがやります」と言って後を追ったが、元夫は聞かない。

 何度か曲がり、突き当たりのドアに「倉庫」と表示のある廊下に出たところで、元夫が振り返った。

 突き当たりのためか、辺りに人の姿はない。

「あなた、左矢さん?」

「エッ!?」

 左矢は自分の胸につけたIDカードを見て、納得した。「伊奈左矢」とある。

「ぼくのお袋と名前が一緒だから」

「そうなンですか」

「去年亡くなったンだけれど、美人だった」

「それは……」

 ご愁傷さまと言うべきなのだろうか。左矢は戸惑った。しかし、ここでそんな時間をかけてはいられない。配達はまだこれからだ。

「忙しいよね。ごめんなさい。段ボールはここに並べます……」

 元夫はそう言って、台車から段ボール1個を降ろして廊下の壁に沿って置いた。左矢は慌てて、元夫に従って残りの段ボール2個をそこに並べた。

「ここにサインをお願いします」

 左矢は伝票を取り出し、元夫にボールペンを添えて手渡す。

 元夫は「いいよ。自分のがあるから」と言い、ポケットからボールペンを引きぬき、壁に伝票を当ててサインした。

 そのとき、彼は「門咲元夫」とフルネームを書いた。しかも、その字が手早く書いたのに、目が覚めるような美しい文字だった。

 2人は、その10日後にも同じような形で短い会話をした。

「左矢さんでしたね。きょうはこちらにお願いします」

「門咲さん。どうしていつも手伝ってくださるンですか?」

「左矢さんといると、若いころのお袋と話しているような気がする。だから、あなたには、これ以上いやな思いをさせたくないンです」

「それ、ジョークでしょ?」

「少し、だけ。ほんの少し」

 数分のやりとりだったが、2人は心の底から、打ち解けることができた。

 左矢はハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリー似の美人。元夫はブラッド・ピットとはいかないが、おとなしい感じの優男だった。

 左矢が、次に役所の福祉課を訪れたのは、その1ヵ月後だった。前回同様の形で2人きりになったとき、門咲はこう言った。

「左矢さん。ぼくと背比べしていただけませんか?」

「背比べですか?」

「はい」

「ここで?」

「靴を脱いで……」

 元夫を好ましく思っていた左矢は、倉庫前の廊下の壁を背に、元夫の横に並んで立ち、背中を壁にぴったりとくっ付けた。

「左矢さん。窓越しに見えるもので、あなたの目の高さにあるものを教えてください」

 廊下の壁の反対側は大きなガラス窓になっていて、隣のマンションのベランダがよく見える。

 左矢は言われた通り、目を凝らして前方を見た。

「エーッと、わたしの目の高さだと、ちょうど、マンションのベランダの手すり、手すりに……いま止まっている小鳥、あれはセキレイみたい……そのセキレイの瞳が、そうです」

「そう。やはり。ぼくの目の高さだと、ちょうどあのベランダの手すりなンだ。左矢さんは、ぼくより3センチ以上、背が高いンですね」

 事実、あとで調べると、左矢は174センチの長身、元夫はそれより3センチ低かった。左矢は、それまで女性として背が高いことをあまり意識することはなかった。ただ長身だけに、太ることを極端に嫌った。

 スリムはいいが、太っちょで長身は、大女と言われかねない。父が、よく笑いながら、「『大女』というのは『大男』と同じ差別語で、相手に対する侮辱だから」と話したことが、いまだに忘れられない。

「左矢さん」

 元夫が、背比べしたまま話す。

「なんですか?」

 左矢は、完全に仕事を忘れている。

「こんどの日曜日も、ぼくと背比べしていただけませんか?」

「エッ」

 デートの誘いだ。左矢に断る理由はなかった。

 こうして左矢と元夫のつきあいが始まった。当時左矢には、もう一人、盛野遊路(もりのゆうじ)という恋人がいた。

 大学時代からの腐れ縁のような間柄で、体の関係はなかったものの、モーターショーやロックシンガーのライブなど、ことあるごとに付き合わされた。

 しかし、左矢は、遊路とのつきあいがだらだらと長くなるにつれ、いつしか心の中で、手は握らせても、それ以上のことは絶対に許さないと心に決めていた。

 遊路は大学卒業後、広告代理店に就職したが、肌に合わないといってすぐにやめ、お金になるからと、フルコミッション(完全歩合給)のセールスをやっていた。扱うものはさまさまだが、高額な商品ほど実入りがいいからと、主に宝石類や外車、高級家具の販売会社に出入していた。

 元夫とのつきあいが始まると、左矢は遊路の誘いを断るようになった。仕事が忙しいというのが口実だった。ところが、元夫とつきあいだして3ヵ月ほどたった頃、遊路が突然、左矢の職場に来た。

 職場といっても、宅配荷物の集配センターだから、一般のお客が依頼の荷物をもってやってくることが珍しくない。時刻は午後2時過ぎ。

 遊路は受付カウンターに荷物を置くなり、

「伊奈左矢を呼んでください。わたしは家族です」

 と言った。

 たまたま、宅配する荷物を取りに戻っていた左矢は、突然の呼び出しに驚きながらも受付カウンターに行った。

 遊路は左矢を見ると、大声で叫んだ。

「左矢、おれから逃げるつもりか。逃げようたって、逃がさないからな!」

 左矢は元カレの豹変ぶりに恐怖を感じた。そんな男とは思っていなかったからだ。

「わたし、別に逃げるつもりはありません。逃げる必要はないから」

 左矢は、しばらく沈黙したあと、ようやくそう言い返した。

 しかし、遊路には通じない。職場の上司が間に入ってくれたおかげで、その場はどうにか治まったが、左矢は険しい表情で去っていった元カレの顔が、目に焼きついて消えない。

 左矢は元夫に電話で相談した。悪くすれば、遊路は夜になって左矢のアパートに押しかけてくるかも知れない。左矢には、かも知れないというより、確実なものに思えて仕方がなかった。

 その頃すでに深い仲になっていた元夫は、すぐに彼のマンションに来るように勧めた。遊路は左矢の実家は知っているが、元夫の存在を知らないはずだ。遊路の追求を振り切るには、いまの職場をやめることも必要になった。

 こうして左矢と元夫の同棲が始まった。同時に、左矢は元夫の紹介で、再び老人介護施設に就職した。

 左矢の両親は同棲を早く切り上げ、結婚するように娘を説得した。3ヵ月後、2人はめでたく結婚。しかし、互いの仕事の都合で、ハネムーンはしていなかった。

 この日、2人がアウディに乗って信州の温泉地に向かったのは、遅ればせのハネムーンだった。

 しかし、好事魔多し。到着した老舗旅館で、とんでもないものが2人を待ち受けていた。

 元夫が旅館のフロントに行き、予約している旨を告げると、フロントの女性が「お手紙が届いております」と言って、1通の封書を差し出す。

 元夫はチェックインをすませ、その封書を持って、左矢が待つロビーに行った。封書の表には、「伊奈左矢様」とあり、差出人の名前はなかった。

 左矢も元夫も、差出人の見当はついた。遊路以外に考えられない。

 左矢は元夫に見せるようにして封を切り、封書の中身を取り出した。

「アッ」

 2人は封筒から出てきたものを見て、同時に声を発した。

 一枚の写真だった。写っているのは、2人が乗ってきたアウディのバックショット。しかも、写真の写り具合から、走行中のものであることは明らかだ。

「この写真の角度から見て、おれたちのアウディを追いこしていったヴィッツ、あれだ」

「そうだったかしら……」

「あのとき、近くでよく見かける車だと思ったンだが、おまえの元カレ、遊路とかいう男の車だったンだ」

「わたしたちのマンションが知られている、ってことなの?」

「そう考えたほうがいい」

 遊路は左矢をストーカーしている。セールスマンだけに、口は達者だ。

 この老舗ホテルの所在は、左矢の両親から巧みに聞き出したのだろう。ここに泊まることは危険だ。かといって、いまからほかの宿が見つかるのか。

「ちょっと待って。電話してみる」

 左矢はスマホでダイヤルする。

「おれもホテルを探すよ。出張で使ったホテルが近くにあるから、聞いてみる」

 元夫も携帯をいじる。


 5分後、アウディは再び、国道をひた走る。

 運転するのは左矢。来るときとは大違いの静かな走行だ。ヒステリックな左矢は影を潜めている。

「父も母も、ヘンな電話はなかったと言っていたわ」

「遊路はおれたちの宿泊先をどうして知ったンだ?」

「わからない……」

 左矢も元夫も、元カレの動きを無気味に感じ始めていた。

「アッ!」

 2人は同時に声をあげた。

「遊路とかいう男の顔写真、どこかに残ってないか」

 元夫は遊路に会ったことがない。左矢は元夫に指摘され、スマホを操作する。

「見るのも気味悪いから、削除したわ。だから、残ってない……」

「待て。そうだ!」

 元夫はアウディを脇に止め、ダッシュボードを開ける。

「契約書があったはずだ……これ、これだ……ヤツだ」

 アウディの売買契約書だった。

 販売担当者の欄に、「盛野遊路」と斜めに走るカナ釘流の文字が記されている。

「どうして、このことをもっと早く、話してくれなかったの」

「ごめん」

「バカ、バカ、バカ、バカ、バカッ……」

 左矢が拳で元夫の胸を叩きながら、泣き出した。

「つい最近だよ。遊路って名前をおまえから聞いたのは。おれがうかつだった」

 遊路が元夫の勤務先を訪れたのは、1ヵ月ほど前のこと。職員食堂でお昼を食べているときだった。そこは役所に来る一般の人も利用できる。

 遊路が、料理ののったトレイを持って元夫がいるテーブルに来て、真向かいに腰掛けた。

「こんにちは。門咲さんですよね?」

「はァ?……」

 元夫はいきなり、見ず知らずの人間に話しかけられて怪しんだ。

 遊路は、何食わぬ顔で、

「私、外車を専門に扱っているディーラーですが、門咲さんはアウディを探しておられますね」

 元夫は、前の週の日曜、外車専門の中古車販売店に出かけて、料金を中心に年式、走行距離、排気量など、予算に見合うアウディについていろいろ尋ねていた。

「私はあの会社に出入りしているフリーのセールスマンです。フルコミッションで営業している関係で、私の取り分さえ減らせば、店頭価格より、うーんと安く提供できます。失礼だと存じましたが、あなたの職場まで押しかけた次第です」

 ここまでは遊路のことばにウソはない。

 しかし、彼が、元夫が訪ねた中古販売店と完全歩合給の営業マンとして契約したのは、元夫が店から帰ったあと。しかし、世間知らずの元夫は、遊路の話を信じた。安く手に入るということばに、強く引かれたのだ。

 役所勤めの貧乏人の小倅として育った元夫の最大の欠点だ。

 元夫の父は公務員だったが、ギャンブルが好きで休みの日には競馬競輪に通って、いつもピーピーしていた。当然、家計は苦しい。元夫の金銭感覚はそういう家庭環境で培われた。

 お金はできるだけ使いたくない。欲しいものは、出来るだけ安く買う。

 元夫は初めて会った遊路を信用してしまった。そして、店頭価格が5百万以上する中古のアウディを、税込みぴったりの5百万円で購入した。もっとも、そのアウディは展示されていた車ではなかった。遊路が親しくしている顧客から直に売却を頼まれたアウディで、店頭で売られている同程度の車に比べると、百万円近く安く手に入れたことになる。

 お金は、左矢の父が出した。「ときどきに乗せて欲しいから」という理由だけで。

 しかし、左矢の父はまだ一度も乗ろうとしていない。

 左矢は思い出した。

「あの男は、セールスの腕だけはいいの。いろんな販売会社に出入りして、いろんなセールスをやっていると言っていた。車だけじゃない。不動産以外、なんでもやっているそうよ。宝石、高級家具、医療機器なんかも。あなた、後をつけられたのよ。アウディのお店に行くときに。絶対そうよ」

 元夫は愕然とした。この機会に金銭感覚を改めよう。そんなことより、いまはこのアウディが信用できなくなったということだ。左矢も同じ考えに至った。左矢が小さな声で言った。

「あなた、この車に盗聴器があるのよ。GPSが付いているかも知れない……」

 左矢のことばで、2人は無言になった。そして2人で車内を懸命に捜索した。

 30分後、車内ミラーの裏側から、キャラメル大の盗聴器が見つかった。車体の下を調べたが、幸いGPSなどの位置追跡装置は見つからなかった。

 左矢の考えはこうだ。盗聴器はこのままにしておく。そして、遊路に聴かれていることを意識して、会話する。盗聴する必要から、遊路はアウディの近くにいるに違いない。辺りは田園地帯だから、電波の流れはよいとしても、半径1キロ以内にはいるはずだ。

「左矢、そろそろホテルに行くか」

「ホテルの名前、まだ聞いてなかったわ」

「ホテル・ツゥエンティワンだ。21世紀に出来たンだろう。だから、そんなに古くはないはずだ」

「ツゥエンティワンね」

「シートベルトを締めて」

「あなた、その前に、キスして……」

「どうした?」

「なんだか、淋しい。お願い……」

「ここで? いま?」

 ここまでは、遊路を熱くするための、2人のお芝居だったが……。

「早く……」

「いいよ……」

 このあと、3分近く無言が続いた。

「ダメ、ダメダメ。それ以上は。あとは、ホテルに、つ、い、てから……」

「わかった。行くぞ」

 アウディは発進した。グングン加速していく。気持ちいいくらいに。


 遊路は車を運転しながら、盗聴器のレシーバを耳に当て、電波を拾っている。

 ホテル・ツゥエンティワンがウソであることはすぐに見当がついた。盗聴器がバレたのだ。しかし、サルの浅知恵で、盗聴器をそのままにしておいてくれたのが幸いした。おかげで時間はかかったが、アウディの所在を発見することができた。

 午後8時過ぎ、遊路の車が、ホテル・シルバーバレーの駐車場に入った。

 遊路は思う。なぜ、いままで抱かなかったのか。身近にいる女よりも、ほかの女がよく見えた。あの頃は、仕事先の女とばかり遊んでいた。

 左矢はいい女だが、刃傷沙汰をしてまで、どうこうしようとは思わない。いまは金だ。宝石のセールスをしていると、いろいろ余禄がある。宝石を買う連中は、金に不自由をしていない。お金持ちにはケチが多いが、大幅値引きをしているとわからせてやると、いろいろお返しがある。

 女性客の場合、体だけじゃない。おれは車のセールスもしているから、家に余っている車の処分をよく頼まれる。そんなときは、頼まれた車を中古車屋に売り、売った額から、いつもきっちり10万ははねる。

 アウディは、ブルーサファイアを売りたがっていた大金持ちが、サファイアと一緒に処分したいと申し出た車だ。サファイアは元々リングになっていたらしい。何かの事故でリングの枠から落ちてルース(裸石)になったのを嫌い、売り急いでいた。

 アウディは新車で買って半年足らずの車だったが、おれが300万で安く買いたたき、仕事に乗りまわしていた。ところが、その大金持ちは、おれから300万を受け取る前に都合よく心臓発作で死んだ。それだけじゃない。サファイアをおれに預けたまま、亡くなったため、おれはサファイアを返せずにいる。

 市場価格で500万円はするサファイアだ。もっとも、よくあるブルーサファイアだ。これが妖しい輝きを放つロイヤルブルーサファイアなら、2000万は下らない。どこかのバカにそうウソをついて買わせてやるか。

 しかし、500万円のアウディに500万円のサファイアを付けて、どうする。大金持ちが突然死したとき、預かったサファイアをどこに隠そうかと思案した。

 いつも乗りまわすアウディがいちぱんだと考えたのがまずかった。左矢の亭主にアウディを売るとき、サファイアのことをすっかり忘れていた。おれは、実際、あのとき、左矢がほかの男になびいたと知って、心底アタマに来た。なんとか、懲らしめたくて、アウディでしっかり儲けさせてもらおうと考えた。それに、アウディのスペアキーを持っていれば、やつらの邪魔をする機会もあるだろうと考え、売る前にスペアキーを作った。

 ところが、ただ同然で手に入れたアウディが500万に化けたことで有頂天になり、サファイアを車の中に隠したことをすっかり忘れてしまった。青いサファイアを隠すにはもってこいの場所だったが、つい失念していた。

 今夜は、どんなことがあっても、サファイアを取り戻す。

 目指すアウディの隣の駐車スペースは、幸い空いている。

 遊路の車は、アウディの隣に静かに停止した。遊路はスペアキーをアウディのカギ穴に差し込む。ドアを開き、ボンネットのロックを解除した。

 そのとき、ホテル11階の部屋の窓から、元夫が遊路のいる駐車場を見下ろしていた。

 元夫は高級外車にいたずらされないかと気になり、1時間おきに監視していた。ほかに駐車スペースはいっぱいあるのに、わざわざアウディの隣に駐車した車が元夫の目を引いた。

 おかしい。男が車から降りて、アウディのドアを開けたから、じっとしていられない。しかし、その人物が遊路とは思わなかった。駐車場が暗くてよく見えないのだ。

 元夫は携帯をとりだし、「110」とプッシュした。

「あなた、どうしたの?」

 左矢だ。

 左矢は元夫が返事するより早く、窓から下を見て叫ぶ。

「アレッ、あの男でしょ! もう、許さない!」

「エッ?」

 元夫は、左矢の反応の早さに戸惑うばかり。

「事故ですか、事件ですか?」

 110が応答している。

「待ってください。左矢、待て! 危険だ。ぼくも行くから! あのォ、事件です。車ドロボウです。早く来てください。ここはホテルシルバーバレーの駐車場です」

 元夫はそう言って携帯を切ると、左矢を追って駆け出した。


 遊路はアウディのボンネットを開け、何かを懸命に取り外そうとしている。しかし、レンチなしでは難しい。急いで、自分の車に戻り、車載道具の中からレンチを掴み、再びアウディのエンジンルームに取って返す。

 左矢が駆けつけた。左矢は右手にレンチを握り締めている遊路を見て、立ち止まる。

 左矢はホテルのバスローブを着ているだけだ。

 遊路は、手に持っているレンチを見て、慌てて後ろ手に隠した。

「左矢。おれは、キミに未練はあるが、キミをどうこうするつもりはない。この車に用があるだけだ。キミたちのマンションの駐車場は、ロックがしてあり入れなかった。キミたちが旅に出るこの機会を待っていた」

 元夫も駆けつける。

「ぼくの妻をどうするつもりだ」

 遊路は2人を見て、

「このアウディは500万で売ったが、取り忘れたものがある。それを取り戻しにきただけだ。邪魔はするな!」

「なに言ってンのよ!」

 左矢は遊路の狙いが自分たちにあるのではないとわかったためか、急に強くなった。

「ドロボウじゃないの。あなたのやっていることは!」

「そうなるのか……」

 元夫のことばを遮るように、白塗りの自転車が猛スピードでやってきて、アウディの前で急停止した。

 近くの交番勤務の警察官だ。彼は懐中電灯で遊路を照らす。

 左矢が叫ぶ。

「このひと、車ドロボウです。捕まえてェー!」

「間違いです。この車は元々おれの車で……」

 遊路は、警官に羽交い締めされたまま懸命に叫ぶ。

 続いて、パトカーが到着した。

 遊路は3人の警官に囲まれて抵抗することができず、現行犯逮捕された。

 パトカーに乗せられていく遊路を見て、元夫はつぶやく。

「あいつ、いったい、何を取り戻しに来たンだ」

 左矢がニヤッとして、バスローブのポケットから、大豆ほどの小さな石を取り出した。

「これ、みたい」

「なに?」

 その小石は青くキラキラとまばゆく光っている。

「あなた、アウディのウォッシャー液がうまく出ないと言っていたじゃない。だから、わたし、食事したあと、ウォッシャー液が入っているポリタンクを見たの」

「おれも見たよ。でも、気がつかなかった」

「そうしたら、これがタンクの下の穴をふさいでいた」

「なんだ。それ?」

「サファイアみたい」

「サファイア!?」

 元夫は、ブルーに輝く裸石を食い入るように見つめる。

「この前、テレビでやっていたけれど、この大きさだと、500万円はするみたい」

「500万!」

「そう。アウディがもう1台買えるわ」

「どうするつもりだ」

「わたしたちが買ったアウディの中にあったのよ。いけない?」

 左矢の瞳が、サファイアのように妖しく光った。

                 (了)

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