短編集

梨間キツツキ

君へ捧げる備忘録

 誰にも届かない手紙に記します。

 私は今日、推しに抱かれました。




 彼女は昔っから、底抜けに明るかった。

 誰にでも朗らかに話しかけ、交流の輪を作り出すのが上手かった。

 それこそ、僕みたいな根暗な変わり者にだって。

 当時の僕は恥ずかしいことに、一丁前に賢いつもりになって目に見えるもの全てを見下していた。休み時間はいつも机に突っ伏す僕をくすくす笑うクラスメイトはもれなく共感能力のない馬鹿に見えたし、そんなのと交流させようとしてくる教師達は理解力のない木偶の坊として映った。

 そんな奴らと僕は違うと、どんな人間も理解できると心の底から信じていた。

 そう、いわゆる厨二病だったんだ、僕は。

 一人称を『僕』に変えたのも、根っこの原因はそれだろう。

 当然、彼女のことも考えなしの阿呆だと認識していた。誰にでも愛想を振り撒くということは、それだけ他人の醜さを知らないからだと。人間の汚さを知っていれば、そんな素振りはできやしない、と。

 他人を知らなかったのは、知ろうとしなかったのは、僕の方だろうに。




 いつも通り机に突っ伏して寝息を立てる僕の肩を、彼女は無遠慮にポンポンと叩く。

 心底迷惑そうな僕の目つきにも怯まず、彼女はにこやかに言った。

「ねぇ、次の授業ってどうしても出たかったりする?」

 言ってる意味が分からなかった。

 どうしてこいつがそんなことをわざわざ僕に?

 なんて考えている間に、顔面を突き合わす彼女の顔が、僕の顔の真横にくる。

 鼓動を加速させる僕をよそに、声が広がらないように手でガードを張り、僕にしか聞こえないように彼女はボソッと呟いた。

「ね。次の授業、サボっちゃわない?」




「月が満ちる夜を生み出すのさ〜〜〜〜♫」

 わざわざ学校を抜け出し、教師を撒いてまでやってきたのはカラオケ。一曲でへばる僕とは対照的に、彼女はぶっ通しで歌いまくる。美麗な歌声と、全身を使った躍動。なるほど、何事にも全力な彼女らしい感情表現だ。やはり気に食わない。ふん、と鼻を鳴らして僕はグラスに挿さるストローを咥える。

「ね、どうだった? 今の、君から見て何点くらい?」

 前方のステージから降り、僕の隣に座る彼女。

 いい匂いが僕の鼻をくすぐる……いやそんなことはどうでもいい。質問に答えなければ。

「趣味でやっていくなら十二分に上手いと思う。流行曲も昔の曲も完璧に歌えてるし、パフォーマンスも盛り上げ上手のそれだし。友達でカラオケってときにこれできたら最強」

 常人なら飽きるほどのバンドを聴いてきた知識で、それっぽく答える。もちろんにわか知識だし、歌えないし楽器もできないので参考になるかは正直怪しいが。

 彼女は分かりやすくヘソを曲げた。唇を尖らせそっぽを向き、「ふぅ〜ん」とわざとらしく不満を表す。

 少し苛ついた。当時はひどく自尊心を傷つけられた気がしたのだ。自信の根本を虫に齧られたような感覚だ。

「……なんだよ、何か変なこと言ったか、僕」

「い〜や、別にぃ? 『趣味でやっていくなら』って物言いにちょ〜っとムカっとしてなんていませんけど〜?」

 不満以外の何者でもないその言い草に、こっちも腹を立てる。

 しかし、僕から仕掛けては僕が悪者になってしまう。それは一番癪なので、僕は彼女から先に怒らせようと舌戦を仕掛けてみた。

「なんだ、まさかプロでやっていく気でもあ……」

「え、分かっちゃった?」

 牽制攻撃の舌は斬り落とされた。

 呆然とする僕をよそに、彼女はにししと笑って手を擦り合わせる。

「いやぁ〜。私さぁ、昔から『歌が上手い』で有名でさぁ? 中学の修学旅行バスなんてもはやライブだったの! 凄かったよぉ。みんなたくさん褒めてくれて、凄い凄いって言ってくれてさ……」

 動揺を隠すように、グラスをズゴゴと鳴らす。聞き流そうと思った。

 そんな事は、次の言葉が許さなかった。

「……窮屈だったの、すごく」

 氷溶け水を吸う音が止まり、僕は続きを待つ。

「百人いる空間で百人全員が自分を肯定する状況って、ちょっと怖いんだよね。私を人間だって思ってもらえてないような、そんな気がしてさ」

 知らなかった、知ろうともしなかった彼女の一面。クラスの人気者の、誰にも理解されない苦悩。僕には一生実感が沸かないだろう、完全に違う世界の話だ。

 怖かった。ここで彼女の顔を見れば、自尊心の根本が完全に食いちぎられると確信した。

 目の前の薄くなったジュースと、それをさらに薄める氷に、僕は全身全霊で注目し続けた。

「……だからさ、私ね。君に初めて『プロじゃ通用しない』って言ってもらえて、ちょっと安心したんだ。あぁ、私ってその程度なんだ。私の目指す世界の天井が、そんなに低くなくてよかった、って」

 彼女の声色に光が戻る。

 空元気でも意気消沈でもない、落ち着いた一息。

 続いた一言は、頑なだった僕を振り向かせるには十分だった。

「あーあ、君が私の隣でステージに立ってくれるならいいのにな〜」

「…………は?」

 多分、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたと思う。

「ね。私と一緒に、私の夢を追ってくれないかな?」

 急に何を言っているんだろうこの女は。無理に決まっているだろう、彼女ほどの人間が目指す、歌唱を伴う夢なんて一つしかない。こんな僕にそんなこと……。

「むっむむむりむりむり、僕にアイドルなんて……」

「ね、一緒になってよ! バンドマン!」



「「え?」」




 僕……いや、私はギターの練習を始めた。

 彼女に誘われてすぐ、親戚にボロ臭いギターをもらった。もちろん、高校から始めたギターなんてたかがしれている。私がずっと聴いてきたバンドのようには弾けるわけがないし、理想と現実のギャップに虎のような自尊心が張り裂けそうになる。それでも練習を続けるのは、彼女との週一でのスタジオ練習のため。いつか客の前で披露するわけでもない。学校の奴らに見せるわけでもない。そんな自己満足のためだけの練習が、私の擦れ切った価値観を癒してくれた。

 二年に上がって、三年になって、高校を卒業して、このままずっとこの練習が続けばいいな、って思ってたある日。

 彼女は言った。

「なんか、アーティストの事務所にスカウトされちゃった。バンド組まないかって」

 頭が真っ白になった。ギターアンプをいじる手は、行き場を失って固まった。ずっと隣にいてくれると思っていた彼女は、いつの間にか私よりも遥かにすごい存在になっていたらしい。

 否、初めからだ。あの日のカラオケの時点で、彼女は私なんかより凄かった。分かっていた。同じペースで練習していたら、彼女の方が早く完成するって。

 私みたいなのが、人気者のこの子を独占できてただけありがたいんだって。

 震える唇、揺れ動く喉を無理やり動かして、私は発声する。

「あ、あっ、そう。よかったじゃん。夢叶うよ、よかったね」

 作り笑いを浮かべる。無理だ、笑えてる気がしない。

「ほ、ほら。私なんかと練習するよりも、そっちのほうがいいよ。だってさ、プロだよ? 設備もじゅ、じゅうぶんだし、ほら、さ。なかまだって」

「馬鹿なこと言わないで!」

 滲む視界、下がる視点を無理やり上げられる。

 私の顔を掴んで目を合わせる彼女は、ぼろぼろと泣いていた。

「私は君が良かったの! 君なら私を見てくれるって思ったの! レコード屋さんで見かけた音源を聴く君の表情が、私を変えてくれた!」

 彼女の涙が、想いが私の頬に落ちる。

「求められたから歌うだけの私に、『その表情のために歌いたい』って、思わせてくれたの!だからさ、ほら……そんな君が、『私なんか』って、言わないで……」

 スタジオの中心で抱き合って、二人で泣きじゃくった。

 私はずっと彼女を見ていた。彼女を妬んで、憧れて、ずっと推していた。

 それは彼女も一緒だった。彼女も、私を見てくれていたんだ。ずっと、ずっと。

 私達は泣き続けた。

 スタジオの利用時間終了のランプが光るまで……光っても気づかず、係員が様子を見にくるまで、抱きしめ合って泣き続けた。

 体温を、涙の熱を、ずっと忘れないように。




 支払いも済ませて、二人で建物を出る。鼻の頭を赤くした彼女が、私の指を摘んで呟いた。

「終電、逃しちゃおっか」

 私は戸惑い、迷った。

 プロの道に進めば、彼女は時間なんてほとんど作れなくなる。そうなれば滅多に会えなくなる。そうなる前に、最後の思い出を作ろうとしているんだ。私もそうしたい。でも、そうなったら私達の関係はどうなってしまうのか。最後に変質させて終わるのだけは、嫌だ。

 頭を抱えて悩む私に、彼女はあの時と同じ尖らせた唇で、あの時と違う涙目で言った。

「……女の子同士じゃ、いや?」

 渦巻く思考は霧散した。

 そんな顔で終わらせることの方が、嫌だった。




 誰にも届かない手紙に記します。

 私は今日、推しに抱かれました。




 あれから私達は、一度も顔を合わせてはいない。

 通話も、月に一回すればいい方だ。

 と言っても、彼女からの報告はほとんどない。内容の七割は、私のことだ。

 彼女は人気バンドのボーカルとして、毎週各地に引っ張りだこ。好みはともかく、彼女の声を聞いたことのない人の方が少ないのではないだろうか。

 私としては、これほど嬉しいことはない。

 私の牙を剥くような自尊心を砕いてくれた彼女が、こんなにも自分の夢をありのままに叶えてくれていることが。

 生き生きとした歌声をイヤホンで聴きながら、今日も私はギターのチューニングをする。

 小さなスタジオで、今日もただ一人弾き語りをする。

 落書きだらけのホワイトボードには、彼女のサイン色紙が立てかけられていた。

 彼女の本名は誰にも教えない、私だけの宝物だ。

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