反射代名詞
菅原 或サ
常日病
驚いた。月のこんな姿が存在したなんて。
私が初めて明るい月の姿を見たのは12歳、小学校6年生の理科の時間だった。教科書で見た月を、はじめは何か理解できなかった。説明書きの欄に<かけていない月。満月。>と書かれているのを見ても理解できなかった。「だって、月がこんな明るいわけないじゃない」。そう思った。誰かがからかっているんだと思った。でもネタバラシもなければ、誰一人として疑問を口にしなかったから、友達には聞けなかった。その写真は、私の心を掴んだまま離さなかった。授業の後、帰りのホームルームが終わると同時に、私はカバンを掴んで教室を出た。途中の階段で何度か足を滑らせそうになりながらも玄関に着くと、下駄箱の上の段に中靴を放り込み、慌てて靴を履いた。急いだせいか、まだ玄関にはだれの姿もみあたらなかった。通学路を走って家に向かった。2月の冷たい風が、頬を切りながら流れていく。赤信号がやけに長い気がした。まるで私が真実を知るのを拒んでいるようだった。家に着くや否や2階の自室へと向う。そして机の上の携帯を手に取った。激しい息切れで手を震わせて、何度か打ち間違えながらも、検索欄に(満月 動画)と打ち込む。そして一番上に出てきた動画を再生した。jaxaの『日の入りから日の出までの月の動き』という動画だ。ダイジェストになっている1分ほどの短い動画。ただ月が登って沈むだけの動画。震える手で恐る恐る再生ボタンを押す。その瞬間、私の周りから音が消えた。完璧な静寂が訪れた。
携帯の液晶越しでも、彼の輝きは、私を動けなくした。太陽が姿を消し、名残惜しそうに残っていたオレンジ色の光が消えて、完全な夜が訪れると同時に、彼は英雄への階段を登り切った。たとえ一番星でも、彼の輝きに叶うものはいなかった。夜の空は間違いなく彼の独壇場であり、ステージだった。彼は昼間とは別人のように明るく、自信にあふれた輝きを放ち、世界を支配していた。
動画が終わってしまうと私は何回も何回も再生ボタンを押した。どのくらい彼の姿に見入っていたのだろう。10分な気もしたし1時間な気もした。時計を見ることも思いつかないほど、初めて見る彼の姿に魅了されていた。しかし、驚きと憧れは、次第に深く暗い悲しみとなって、私を襲ってきた。そうだった。私はこんなにも美しい彼の勇姿を直接この目で見ることはできないんだ。どれだけ動画の画質を上げようと、それは彼の姿の模倣に過ぎないんだ。『私は彼の本当の姿を知らない』。その事実が、どうしようもないほど強く私の胸を締め付けた。
私が見る彼は、いつも寒々とした色をしていた。心許ない姿で、空の隅に膝を抱えてうずくまっていた。なぜなら太陽の光が強すぎるから。誰も彼のことを、気にも留めない。ベランダに放置されたままの観葉植物や、飛んでいってしまった風船のように、目に入ったとしてもすぐに意識の外にこぼれ落ちてしまう。そんなものがなくても、世界は活動を続ける。1秒の間に4人が生まれ2人が死ぬ。7時に一斉にアラームが鳴り、満員電車は疲れた顔のサラリーマンを運んでゆく。そこに、彼は含まれない。
ところで、そんなに夜の月が見たいと思うなら、日が沈むのを待って、窓を開けるなり、駐車場に出てみるなりして、空を見渡せばいいと思うかもしれない。確かに、曇りでない限り彼の姿が見えるだろう。しかし、それはできない。正確には『私には』できない。
「ありがとう」
誰の声かはわからない。しかしその声は、私を、春の期待感と気だるさを含んだ懐かしい気持ちにする。その声の響きが終わると同時に私の意識は、途方もなく深い眠りの底へ沈んでいく。そして、太陽が再び地平線の上に顔を出すまで、決して浮かんでくることはない。
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