奴が金を無心してきた
ぬかてぃ、
前
「あのさあ、大変言いにくいんだけどさ。金、貸してくれない?」
三月十八日、二十時三十二分。居酒屋「あさやけ」にて。
このお願いは通算にして八度目になる。決まって値段の割には薄く作られたハイボールのジョッキを大きな音を立てながらテーブルに置き、消え入りそうなか細い声で、ちらりと見せるように言ってくる。どうせパチンコに生活費を突っ込んだのだろう。それも四度目だ。
支払ってやること自体は惚れた弱みみたいなものもあってやぶさかではないが、それにしたって多すぎる。過去七回も全てこの会計を私が支払っているし、それが帰ってきたのは記憶の中では一回だ。それも全額ではなかった。
「頼む。ピンチなんだ」
七度起きたピンチを反芻しながら鞄に手をやった。前回はどんな理由だったか。確か父親が三度目の危篤に入ったか。今度は母親か、いもしない架空の親戚が死ぬかもしれない。
皺が目立ち始めた手でほとんど空になったジョッキに手を掛けて飲む真似をする。そろそろ定職に就いて欲しいし、そんな同情をしてもらいたいという腹のなかが見える子供っぽいフリを見せるのもやめて欲しい。
若いなんて言葉、もう十年前から聞くことすらなくなっている年齢なんだから。
「いつ返すのさ」
「次の曲が売れたら返せる」
返すアテを聞くと毎度のごとく「次の曲が売れたら」だ。私達が付き合い初めてからギターのピックを持つことよりもパチンコのハンドルを握る回数の方が増えてからの男がなにをいうのか。もう売れる筋も見えないだろうに。
私は鞄のなかに入れた手を止めた。丁度財布が掌に収まっていた。
「あんたさ。それ何度目よ。大概にしてよ。私は金の沸いてくる魔法の泉じゃないんだけど」
流石に今回は手厳しく返した。
いい加減にして欲しい。我慢を重ねてきたが私にも限界というものがあるのだ。
「そりゃ分かってるけどさ」
「分かってたらもうちょい現実見えるじゃん
。あんたの仕事はなんなんだよ。パチンコ打つのが仕事っていいたいわけ」
「いや、次の曲は自信があるんだ」
「その自信も何度目だよ。もう四回目だぞその言葉。その自信の曲とやらをさ、一回でも書いて発表したのかよ。デモ音源最後に送ったのいつだよ。いい加減にしろよ」
「お前、本当に言葉遣いが悪くなったよな」
こいつ。
同姓であれば手を出しただろう言葉に耐えた。それこそ必死に。なんでこれほど言葉遣いが悪くなったと思っているんだ。馬鹿にしてるのか。
私は鞄から手を抜き、それを肩に掛けようとした。
「ちょっと、ちょっと待てよ」
「これで終わりにしましょ。私も若さゆえの過ちと処理するから。あんたもそうしてよ」
「そんな。俺はお前を愛してるのに」
「勝手に愛していたらいい。私はあんたに対して愛想がつきてんの。分かるかしら。ライブハウスであんたに惚れたのがある意味運のつきだったわ。まともな男と付き合ってなんなら結婚も出来たはずなのに」
「それは」
「あんたのせいで人生めちゃくちゃよ」
私は
なんの成長も出来ない男を相手するのも大概疲れた。金はあるんだからもっと若い男を選べるはずで、こんなもうアラフォーに片足突っ込んだ世間知らずを飼っている必要はないわけだ。
そろそろ引導を渡してやるべきだ。
私が立ち上がると奴の顔が青ざめていく。
こうならないと自分の立場が分からないのは救えない男だ。しかしこんな惨めな奴ほど断末魔は心地よいものを出すもの。
「今日は払ってやるよ。代わりにスマホから私の名前消しといてね。私も消すから」
「やめてくれ。やめて」
声がか細くなっていく。
それもそうだ。この男は私の行動を止めるための担保がなにもない。それどころか私がこいつに惚れている、と思い込んでいることを担保にして金を都合八度も借りているのだから、よほどお花畑の咲いている頭でも自分の状況は理解できているのだろう。
奴の額から脂汗が出ている。その汗を何故労働で流さなかったのか。一度でもきちんと流せばこのような惨めな事態に陥らなかったはずなのに。
「もういいから」
「許してくれ。真面目になるから」
「そういうのいいから。もう何度目よ」
「今度こそ。今度こそチャンスをくれ」
「もうノーチャンスなの分かってんのよ。本当に頭のなかすっからかんだな」
奴の声が震えている。
それを尻目に会計の前に立ち、不安そうな顔をしている店員にクレジットカードを出した。
奴は狼狽えながら立ち上がると、自分で頼んだフライドポテトの事など忘れたかのように私に近づき始めた。
「待ってくれ」
「お前はフライドポテトでも食ってろ。それが私の出す最後の奢りだ」
「頼む。許してくれ」
店員からレシートを貰うと財布に突っ込み、それを鞄に放り込むとそそくさと店を出た。
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