平行世界線物語(虚鏡ver)

虚鏡

テーマ「布団とショッピング」

 朝。

トイレから戻ってきた俺が見たのは、自分の布団に眠っている知らない誰かの姿だった。

 六畳の洋室。床に散らばった服と、本。無造作にラックにかけられた洗濯物の饐えた匂い。カーテンの隙間から差し込む朝日が一本、部屋の中央を割いている。

 光熱費の節約のために、エアコンは使っていない。そのせいで部屋はひどく寒い。はだしの足は、すでに感覚を失い始めている。

 知らない誰かの頭を見下ろしながら、俺は足をすり合わせた。起床するには早く、二度寝するのに絶好の時間。しかし俺の寝床は知らない誰かに占領されている。

 夢見が悪かったせいか、俺の頭はまだちゃんと働いていない。もやがかった頭を掻いた後、知らない誰かから乱暴に布団を剥いだ。

 俺が着ているものと同じネイビーのスウェットを、知らない誰かも着ていた。俺は放心したように立ち尽くした。

 知らない誰かは寒そうに身じろぎすると、目を開いた。その目が俺を映す。

「誰だ、お前……」

 俺は力なく呟いた。

 知らない誰かは、ゆっくりと半身を起こした。

「寒いんだけど」

 そう言って知らない誰かは剥がされた布団を手繰り寄せ、頭から被ろうとする。その腕を、俺は掴んだ。

「お前、誰だよ。なんで俺の部屋にいる?」

 知らない誰かは、俺の顔を鬱陶しそうに見た。まるで、俺がこの部屋の異物であるかのように。

 腕を掴む手に、力がこもる。もう指先が冷たくなっている。吐く息が白い。

「お前に関係ない」

 知らない誰かはそっけなく言った。その冷たさに、俺はかすかにいら立つ。

「関係ないってなんだよ。ここは、俺の部屋だぞ」

 凄んでみたが、知らない誰かは眉をひそめて見せただけだった。

「ここに誰が住んでいようが誰も気にしない。お前が住もうが、俺が住もうが、他の奴らにはどうだっていいことだ」

「そういうことじゃないだろ」

「そういうことなんだよ」

「……もういい。警察を呼ぶ」

 こたつの上に放られたスマホを手に取る。その手を、知らない誰かが掴んだ。

 俺は反射的に動きを止める。

 知らない誰かの手は、ぞっとするほど冷たかった。

「なあ、知ってるか」

「止めろ、放せ」

「布団の温かさって、人の体温だろ。だからさ、そいつの生きている鼓動が温かさってことなんだよ」

「なんだよ、気持ちわりぃんだよっ」

「なら死んだ奴の布団って、どうだと思う?」

 知らない誰かが笑う。ぎちぎちと、虫の羽音のような笑い声が、部屋に響く。

 体の底から襲ってくる怖気が、俺を震わせた。

 こいつ、人間なのか?

 自分がこう思ったことに、俺は戸惑った。体の芯から震えるこの怖気に、鳥肌が立つ。なぜ俺はこんなことを考えるんだ?

「死ぬとさ、寒くても何もできないんだよ」

 知らない誰かは俺の背後で続ける。

「厚着したって温かくなんないし、ずっと眠ってるから二度寝もできない。いいよな二度寝。気持ちいいよなあ」

「何言って」

「でも、それっていっつも起きなきゃいけないからなんだよな。起きる必要がない日の二度寝って、気持ち良くないんだよな」

「……」

「お前さ」

 そう言うと、知らない誰かは俺の目の前に迫ってきた。知らない誰かの目は異様に黒くて、俺はたじろぐ。その目を正面から見てしまった俺はすぐに気が付いた。ああ、そうか。こいつの瞳孔は開いているのだ。

「二度寝してどうする?もう一回寝てどうせ昼に起きるんだろ。それでだらだらスマホいじって、飯食って寝るんだ」

「……」

「お前、そんなんで楽しいか?」

「……お前が何言いたいのか、さっぱりわからないんだけど」

「あっそ。なら言うけど、お前生きてる意味ある?」

 知らない誰かの口が三日月を描く。青紫の唇がなんだかグロテスクだった。

「大学が休みなのをいいことに、起きるのは昼過ぎ、寝るのは深夜。バイトもせずに一日中スマホいじって、白米に醤油ぶっかけたまずい飯ばっか食って、服は寝巻のまま。大学でだって友達っていえない連中とクソ面白くないこと話すだけ。お前さあ、生きてる意味ある?」

「うるせえ」

「ここでずっと腐ってるだけじゃん。何が楽しいんだよ?」

「うるせえ!黙れ!」

 手元にあったティッシュ箱を知らない誰かに投げつける。しかしそれは知らない誰かではなく、壁にぶつかって大きな音を立てた。

「楽しくないだろ?」

「うるせえ、気持ちわりぃんだよ、お前!」

「なあ、くれよ」

「……はあ?」

 知らない誰かの声のトーンがぐっと下がった。

「俺がお前の代わりに生きてやる」

「お前、意味わかんねえ」

「有意義にお前の命を使ってやるよ。生きてる奴は、生きてることに感謝しない。だからお前みたいにだらだら生きるわけだ。それなら俺がお前の代わりに生きてやるよ」

「意味わかんねえ。意味わかんねえんだよ!」

「意味わかんねえ?簡単だろ。お前はいつも通り眠って、目覚めないだけだ。いいだろ別に。お前が何か意味あることをしたことがあるか?食って寝てるだけじゃねえか。何が楽しい。嬉しくも悲しくも苦しくもない生活を続けて何になる?意味ねえじゃん」

「うるせえ、うるせえ。うるせえんだよ!」

 馬鹿みたいに同じことを繰り返す俺の顔を、知らない誰かは覗き込む。

その黒い瞳。

「知らん。わからん。わからないんだよ……」

「いいから、俺にくれ。俺がお前を救ってやる」

「……」

 なんでこうなったのか。

 一人暮らしに胸を躍らせ、大学での出会いに期待した。しかしその期待は裏切られ、詰まらない話に相槌を打つことがコミュニケーションであることを知る。馬鹿にならないと腐ってしまいそうで、笑顔を張り付けて薄い楽しさに身を浸す。結果として腐敗は加速していった。

 饐えた匂いの、雑然とした虚ろなこの部屋。俺の心を反映したこの部屋が憂鬱を重くしていく。

 床に散らばった服の間に覗く本。何が大切なのかわからないまま生きる日々に、何の意味があるのか。この日々を抜け出す術がわからない俺が送る人生がどんなものかなんて、考えなくてもわかる。

「俺はな、いきなり終わったんだ。強盗からブスッと刺されてそのまま死んだ。俺のことを何も知らない奴から、邪魔だからって殺されたんだよ。ひでえだろ?」

「そんなこと、俺に関係ない」

「いいから、どうするかお前は答えればいいんだ。俺にお前の人生をくれるか?」

「……」

「このまま惰性で人生続けるのか?それでお前は良いのか?」

「……」

 俺は、昔から妙なところで完璧主義になることがあった。例えば朝起きた時。顔を洗い、服を着替えて朝食を摂る。どれか一つでも抜けてしまうと一日がうまくいかない。最初が駄目だとすべてが駄目になる。

 これが一日の出来事ならばいい。ならば人生ならどうだ?今、惰性を覚えてしまった俺の生活は、立て直すことができずにいる。終わることのない日々の中で、どうやって取り返せばいいのだ。

「惰性」

 呟いた俺を見た知らない誰かは、歯が見えるほどの笑みを浮かべる。

「もう、取り戻せない。お前はずっと、このままだ」

 壊れた部屋に、残酷に沈んでいく言葉。

 そうだ、もう取り戻せない。崩れた生活をこのまま続けるしかない。俺に差し伸べられる手はなく、一人で腐るのを待つ。俺という存在なしで成り立つ、この部屋で。

「俺はいらないのか」

「ああ、いらない」

「そうか」

「ああ」

 ひどく嬉しそうに、知らない誰かは笑った。

 俺の体は、生きているのか死んでいるのかわからないほどに冷え切っている。

 もしかしたら、俺は死んでいたのかもしれない。惰性で続く生活を、俺は繰り返していただけなのかもしれない。

 本当の部屋の主は知らない誰かで、俺は幽霊で。

 幽霊で?

「……ふざけんなよ」

「なんだ、事実を受け入れるのが怖いか?」

「なんで、俺の人生をお前にやらなきゃならないんだよ」

 こぶしを握る。

「俺は、まだ生きたいんだよっ腐ったまま死にたくない、つまんねえ奴のまま、死にたくないんだよっ」

「なら、なんでお前はこんな生活を続ける?腐ることを選んだのは、お前だろうが」

「今からじゃ、遅いのか?」

「……今から?」

「今から生きたら、遅いのか?」

 冷たい風が、俺の頬を撫でる。

「それ知ってるの、お前だろ」

 はっと顔を上げる。

 知らない誰かはそこにいなかった。

「……」

 俺は立ち上がると、カーテンを開いた。日の光を浴びながら、部屋の中を見回す。さっきの出来事が眠っている間に見た夢に思えた。

 布団に近づこうとしたとき、何かを蹴とばす。それは、キャップをしないまま放置していた飲みかけのペットボトルだった。ペットボトルは布団の上に転がり、円を描いた。

 俺はそっと布団に触れる。

 死者の体温を感じた。

 この布団は実家から持ってきたもので、あちこちが切れて中身が見えていた。そろそろ、買い替える時期だろう。

 俺は顔を洗うと、外出するための服を探し始めた。


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