移動中に読む冬の短編集
虚鏡
第1話 テーマ「月」
凍てついた空気が、耳元でキリキリと鳴った。
昼間から降り続けていた雪は止み、空は雲一つない。風はなく、寒さが静かに体にしみていく。氷に覆われた路面は月の光が反射させている。その輝きに、僕は目を細めた。
今日の月は完全に満ちていた。金色の光は明るい街の光に飲まれることなく、静寂の住宅街に降り注ぐ。
「起きてる?」
白い息とともに独り言のような僕の言葉が、夜の空気に溶けていく。少しして、無理矢理起こされたように不機嫌そうな少女の声がかすかに聞こえた。
「なんだよ」
こちらをとがめるような口調に、僕は少し笑った。
「いや、特に用はないんだけど」
「なら起こすな」
「いいだろ。毎日会えるわけじゃないんだ」
「ふん。別にわざわざ会いたいと思ったこともない」
「僕は君に会いたかったのに」
僕がそう言うと、彼女は少し黙ってからふんっと鼻を鳴らした。
「君がそう言うなら、相手をしてやらなくもない」
「うん。ありがとう」
僕は自分の声が届くように彼女の方へと顔を向けた。自分の足元にある影の方へ。
彼女は、僕の影の中にいる。正確には、月光によってできた僕の影の中に。
月の光がある夜だけ、僕は彼女と話すことを許される。
「君、いいのか。受験があるんだろう」
「いいんだよ。ずっと机に向かっていても息が詰まるだけだから」
「ふうん」
「君はいつも何をしているんだ?影の中にいるのは退屈だろう」
彼女は大げさなほど大きなため息をついた。
「言っただろう。私は君の影に住んでいるんじゃなく、降りてきているだけなんだ。普段は別の場所で寝ているよ」
「寝てるだけって、退屈じゃないのか?」
「あのなあ、私を君ら人間と一緒にしないでくれ」
「なら君は何者なんだい?」
僕がそう言うと、彼女が小さく笑うのがわかった。
その笑い声は、隠しきれない呆れと侮蔑を含んでいた。
「人間はなんで相手に名前を求めるんだ?形がないと不安になるその心が理解できない」
「君はそんな人間を愚かだと思う?」
「ああ」
「なら、未来のために今を犠牲にして勉強する僕も、愚かだと思うか?」
「もちろん。あのなあ、君。人間なんて明日死ぬかもしれないんだぞ」
彼女の言葉は、どこか残酷な光を帯びて辺りに響いた。
風が吹く。髪を少し揺らす程度の風だったが、冷たいそれは僕の頬を切り裂いてしまいそうだった。
深い、深い闇。住宅街を抜け、目の前に広がるのは水面が光る川。夏になればバーベキューをする人々の目立つ河川敷は、雪に覆われ孤独に光る。
川にかかる橋の上で、僕は足を止めた。眼下を音もなく流れる川を見つめ、そっと呟く。
「なら、自分から終わりを迎えに行く人間はどうだ?」
「……愚かというより馬鹿だな。なぜ短い生を自ら縮める」
「……簡単だよ」
「ほう?」
「人間はずっと寝ていることができないからさ」
「……君、私を馬鹿にしているのかい」
彼女らしくない剣呑な声に、僕は思わず笑ってしまった。彼女はいつも僕の言葉を鼻で笑うことしかしないのだ。
僕は欄干に肘をつき、影に目を落とす。
「馬鹿にはしていない。ただね、人間は朝になったら起きなきゃいけないし、生きるためには動かなきゃいけない。ずっと眠って自分を守っていたくても、自然と目が覚める」
「ふうん」
「そのうち動かなきゃ不安になるんだ。そして、眠りを怠惰だと思うようになる」
「君は、眠りを怠惰だと思うか?」
「いいや」
「じゃあ、なんだと思う」
そこで彼女はにやりと笑った、ような気がした。
「救いさ」
「なぜだ?」
「考える、という行為は苦痛なんだよ。知るという行為も。眠ることは苦痛から逃げることでもあり、自分を救うことでもある」
「君にしては冴えているじゃないか」
「そうかな」
「私ほどではないが」
「嬉しいよ」
「そりゃよかったな」
「それで、君はいつまで逃げる気なんだ?」
「……」
沈黙が、耳元で鳴った。
「逃げる?」
怒ると思っていたのに、彼女の声は存外落ち着いたままだった。
「もう、高校生活も終わるよ」
「いきなり何を言っている?」
「気が付いていないと思っていたのか?」
「知らない」
苛立ちもなく、ただ淡々と乾いた口調だった。
「佐伯さんなんだろう」
「知らない」
「僕のこと、わかってるんだろ」
「……」
「君の席がいつまでも空なのは嫌だよ」
「……」
彼女が黙るのは、僕の言っていることが真実だからだ。
冬が恋しい季節に、彼女は眠った。赤信号の中飛び込んでいった彼女が、何を望んでいたのか、僕にはわからない。だがきっと、彼女は何もかも苦痛で退屈で、そんな現実から逃げたかったのだろう。
自ら生を縮める人間を、彼女は愚かだと言った。人間を愚かだとも。
もしかすると、彼女は人間であることに疲れていたのかもしれない。その疲れを癒すために眠っている。外にいる人間がどう思っているのかも知らずに、眠りたいときに眠り、いつまでも目覚めない。
彼女らしくて笑ってしまいそうだった。
「眠っていれば楽だけど、楽しくはないだろ。寝てるだけじゃ、月の美しさはわからない」
「……」
「それに、受験の地獄を君だけ味合わないのは不公平だ」
「……ははっ」
彼女の笑い声に、凍てついた空気が緩む。僕はかじかむ手をすり合わせながら、またゆっくりと歩きだした。
「君は、愚かであることが嫌にならないか」
ぽつり、と彼女が呟く。
僕は煌煌と輝く月を見上げた。
「嫌になるさ。でも」
「でも、なんだ」
「愚かであることが楽しいんだから、仕方ない」
「……ははっ、そうかよ」
住宅街の明かりが見える。
愚かでも苦しくても、目覚めたからには歩かなくてはいけない。それが僕たちの性分なのだから。
「月光もいいけど、やっぱり太陽の光が浴びるのには一番だ」
その言葉に答える彼女の声は聞こえなかった。
それは僕が街灯の下に入ったからかもしれないし、彼女が僕と話すのに飽きてしまったからかもしれない。でも僕は、彼女が明日太陽の光を浴びるために眠ったのだと、そう思った。
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