十二話
今日も何事もなく、平穏無事に終わった。公務から解放され、私は私室へ戻る。この後はもう何の予定もなく、あとは寝るだけだ。控えていた侍女達の手を借りて寝衣に着替え、結った髪も下ろして独りの時間を過ごす。すぐにベッドで横になってもよかったが、疲れているのに頭の中だけはせわしく動き続けている。こう冴えていては寝付けなさそうだ。窓際へ行き、その縁に腰を下ろして夜景を眺めた。と言っても眼下に点々とかがり火の光があるだけで、ほとんどは真っ暗で何も見えない。今夜は雲が多いのか星の一つも見当たらない。それでもせわしい頭を静めるために、静寂の満ちた暗闇を眺め続けた。
するとコンコンと扉を叩く音と、ティラと呼ぶ声に私は振り向いた。入って来たのはスヴェンだった。彼も仕事を終えて私服姿になっていた。
「まだ寝ていなかったのかい?」
「ええ。何だか頭が冴えていて」
スヴェンはこちらへ来ると、私と向かい合う位置で同じように窓の縁に腰を下ろした。
「ここから何を見ていたんだ?」
窓の外を見渡すスヴェンに私は笑みを返した。
「何も。あなたは何か見える?」
「見えるわけがない。だから聞いたんだよ」
互いの顔を見合わせ、くすりと笑った。
「……何か見ていたんじゃないのなら、考え事でもしていたのかい?」
「ええ……そう」
私は空の闇を見つめながら言った。
「何だか、獣人族のことがよくわからなくなってしまって」
ファウスタと話してから数日が経っている。彼女をどう処するべきか、私はその意見を聞くために臣下達と言葉を交わしたが、その大半はイーロと同じように始末するべきだという声だった。やはり獣人を恐れたり、敵がい心を抱く者は多い。その一方で私のようにファウスタを普通の獣人と見なさず、殺す必要はないと考える者もいたが、それはほんの一部に過ぎず、臣下達の意見をまとめると、始末するほうへ大きく傾いていると言えた。公務をしていてもこの問題が頭を離れず、こうして寝付けないほど冴えてしまっている原因は、まさにこれなのだと思う。
「例の、捕らえた獣人のことかい?」
私は頷いた。
「彼女は人間になりたくて人間と暮らし、人間の言葉まで覚えていた。私が知る獣人とはまったくかけ離れた印象だったわ」
「そうらしいね。人間を襲う様子がまるでなかったとか」
「あんな獣人がいるとは、正直思いもしていなかった。私達と仲良くしたがる者がいるだなんて……」
「獣人を切る手が鈍りそうか?」
「それは、ないと思う。その時は向こうから襲って来るわけで、そんな相手にためらっていたら、こちらの命がいくつあっても足りないもの。彼女も、いっそのこと暴れてくれれば、これほど悩むこともなかったのだけれどね」
「皆はどう言っている?」
「多くは始末すべきだという意見よ。イーロいわく、スパイかもしれないと」
「ふっ、スパイか……君もそう思うのかい?」
「私はそうは思えない。違うと断言出来る自信もないけれど」
「怪しさは感じないが、まったくの無害か、その確証は持てない、と?」
「他人の心なんて誰も読めない。イーロは彼女の話はすべて嘘だと言うけれど、調査で裏付けが取れている部分だけは真実だった。けれど、どういう気持ちや考えで行動したのか、それは本人にしか知りようがないことよ」
「疑いがあるのなら、切ってしまえばいい」
「疑いというほど、疑っているわけではないの。彼女は獣人だから、すべてを信用出来る相手とは言いづらいけれど……でも切れと言われると、気持ちは二の足を踏んでしまって……」
「結局のところ、君は切りたくないのだろう? ならば解放すればいい」
簡単に言うスヴェンを私は見つめた。
「そう単純に決められないから、こうして悩んでいるのでしょう。……あなたの意見はどうなの? 獣人は全員始末すべきか、それとも悪さをしていない者は見逃すべきか」
聞くと、スヴェンは笑みを見せた。
「私の意見を聞いたって無意味だ」
「そんなことはないわ。臣下達からも同じように意見を――」
「その意見は始末すべきというほうが多いのだろう? 私が意見を言ったところでその結果は変わらない」
「でも、一つの参考として聞いても――」
言葉をさえぎるように、スヴェンは首を横に振った。
「君がこれほど悩んでいるのは、多くの意見を聞きすぎたからだ。問題が王国にとって重要なことなら、慎重に悩んでもいいかもしれない。だがこれは獣人一人をどうするかというだけのことだ。直接話を聞いたのならば、君は君の心に従った判断を下せばいい。周りの意見に振り回されることはない」
何だか正しいことを言われたようだけれど――
「つまりは、私が思うように決めろと……?」
「君は女王なんだ。君の決めたことに誰も文句などないよ」
スヴェンはにこりと笑って見せた――私の心こそが判断に迷っているのだが。
「女王だなんて持ち上げて……ずるいわね。余計な問題には首を突っ込みたくない?」
「そんなふうに聞こえたのなら謝るよ。でも君は王国の頂点なんだ。意見を聞くのは悪いことじゃないが、自身の心の声も聞くべきだと思うね」
頭の判断ではなく、心の声か……。
「そうね……じっくり聞いてみるわ」
「考え事は一段落させて……頭の冴えのほうはどう? まだ眠れそうにないかい?」
私の眠気はどこかへ飛んで行ったままでいる。困ったものだ……。
「話に付き合ってくれてありがとう。スヴェンは先に休んでいいわよ。私はもう少し夜景を眺めているから」
これにスヴェンは笑った。
「ふふっ、何も見えない夜景をかい? じゃあ私も付き合うよ。ワインでも飲みながらね」
そう言って窓から離れた時だった。
「陛下、お休みのところを申し訳ございません。緊急の知らせをお伝えに参りました」
ゴンゴンと普段より強めに叩かれた扉の音と声に、スヴェンは一瞬足を止めるが、すぐさま扉へ向かった。
「……どうした」
開けると兵士が少し息の上がった様子で立っていた。
「あ、スヴェン様もおられましたか。陛下は……?」
「あちらでお聞きだ。緊急の知らせとは?」
「はっ、つい先ほど歩哨から報告があり、城下南の平原に獣人が現れたと――」
「獣人が……!」
私は思わず立ち上がり、扉の兵士の元へ行った。
「数は?」
「暗くて不明ですが、十から二十くらいではと」
襲撃が途絶えた以前の数くらいだ。また再開したのか。
「スヴェン、私はすぐに準備をするわ。あなたも――」
「お、お待ちください陛下」
部屋から出ようとした私を兵士は呼び止めた。
「……何? 急がなければ――」
「その獣人を率いている者がおりまして……」
「……え?」
聞き慣れない説明に、私は目で問う。
「それが、人間、らしいのです」
息を呑み、私はスヴェンを見た。スヴェンも同じように驚きを見せている。
「その者は戦う意思はないと、国王と話がしたいと呼びかけているらしく……」
戦わず、話がしたい――それだけで思い浮かんだ可能性が高まった。
「洞窟内にいた、あの男性だわ」
「獣人を率いているということは、やはり、やつらの側に付いているのか……」
スヴェンは苦々しい顔で呟く。
「それは、話を聞いてみないとわからないわ」
見開いた目が私を見た。
「ティラ、まさか呼びかけに応じる気か?」
「あちらから来てくれたのよ? この機会を逃す手はないわ」
「しかし罠だったらどうする。王と話したいなど、また君をさらうつもりかもしれない」
「だとしたら、これほどあからさまに警戒される行動を取るものかしら。私は呼びかけの言葉に、騙す意図はないと思っているわ」
「何を甘いことを……応じるべきじゃない」
「大丈夫よ。向こうに気を許すことはしない。率いている者の言動に怪しさを感じれば、その時点で話は打ち切るわ」
「だがあまりに危険だ。取り返しの付かないことにも――」
私は手を突き出し、スヴェンの言葉を止めた。
「応じると決めたの。私の決めたことに、誰も文句はないのでしょう?」
うっと表情を歪めたスヴェンだったが、私の頑なな決定に折れたのか、すぐに真剣な顔に戻して言った。
「……仕方がないな。ならばこちらは出来得る限りの態勢を整えよう」
「お願い。私も急いで準備をするわ。……軍には私が行くと伝えてちょうだい」
「り、了解いたしました」
うろたえた様子で兵士は駆け足で廊下を去って行く――待ち望んでいた再会の機会が、こんな形で訪れるとは。確かに罠ではないとは言い切れない。けれど私はあの老人から獣人族について話を聞き出さなければいけないのだ。長い戦いを終わらせるためにも……!
スヴェンと別れた私は寝衣から鎧に着替え、久しぶりのルギルを手に、集まった兵達の元へ向かった。皆も獣人と対峙するのは数ヶ月ぶりだ。その表情は引き締まっている。
「陛下、準備は完了しております」
ルギル隊の一人が報告に来た。私は彼らを見回し、出陣の号令を出して城を出発した。目的地は城下の南に広がる平原。三十分も歩けばすぐに着いてしまう距離だ。そしてほどなくして私達は到着し、先に警戒に当たっていた隊と合流した。
「ご苦労様。あちらの様子はどう?」
漆黒の夜空の下、私は遠くに見える松明を掲げた集団の影を眺めながら聞いた。
「現在まで、特に変わった動きはありません」
隊の隊長が険しい表情で言う。
「獣人を率いているという人間も、変わらずにいるの?」
「はい。時折、国王と話がしたいと呼びかけてきては、その返事はまだかと催促もしてきます」
「相当私と話がしたいようね」
「我々の準備は出来ております。突撃の号令はいつでも――」
「今回は戦いに来たのではないわ」
「……は?」
きょとんとする隊長に振り向き、私は言った。
「向こうにいる人間に、話を聞きに行きます。なので皆はしばらく待機していて」
「へ、陛下、ご無礼を承知で申し上げますが……お気は確かなのですか?」
これにじろりとねめつけると、隊長は慌てて顔を伏せた。
「そう思うのも無理はないとわかっているわ。けれど、私はどうしても話を聞きたいの。獣人に混じっている、あの者からね」
「ティラ!」
大声で呼ぶ声に、私は視線を巡らせた。すると隊長の後ろから羽を広げて飛ぶように迫って来るイーロの姿があった。
「イーロ、またこんなところまで来たの?」
「聞いたぞ。向こうの人間と話すって。本気か?」
「ええ。ずっとそうしたいと思っていたことよ。向こうも要望しているのだから、ちょうどいいでしょう?」
「何がいいんだよ! また捕まりたいのか」
「向こうは私と話したいと言っているだけよ」
「裏切り者の言葉を、そのまま素直に聞く馬鹿がいるかよ! ティラは女王なんだぞ。今度こそ殺されでもしたらどうするんだよ!」
「心配してくれるのはありがたいけれど、私には以前の経験があるわ。その轍を踏むようなことはしない」
「注意してればいいってもんじゃない。裏切り者と話して何の意味がある。嘘を吹き込まれてあいつらにもてあそばれるだけだ」
「内容が真実か嘘かは私が決めることよ。聞いてもいない段階で決め付けないで」
「話なんか無駄だ! 無駄な上に危険なことを――」
「イーロ!」
怒鳴ると、イーロは驚いた表情で言葉を止めた。こうでもしないと勢いが止められなかった。
「……あなたは城へ戻っていて。ここにいても何もすることはないでしょう?」
不満げな目がこちらを見つめる。
「邪魔だって、言いたいのか」
「率直に言えば、今わね……。何かあっても兵達が守ってくれるわ。私は、話を聞きたいの。誰にどう言われようとも」
奥歯を噛み締め、困惑なのか苛立ちなのか、言うことを聞かない私への感情を、イーロは伏せた顔に滲ませていた。邪魔というのはさすがに言い過ぎただろうか。しかしはっきり意志を見せなければ、イーロはずっと引き止めようとしただろう。
「……わかったよ。戻ればいいんだろう」
心残りな表情と口調で言い、イーロは私も見ずに踵を返すと、羽を広げて勢いよく去って行ってしまった。これで変にへそを曲げなければいいが。
「さあ……では、話を聞きに行って来るわ」
「陛下、本当にそのようなことを……?」
不安でたまらないという隊長の顔が見てくる。
「ええ。だからあなた達は万が一のために備えて待機していて。私が指示するまで、剣を抜いては駄目よ」
「お一人で行かれるおつもりですか? それではあまりに無防備です。兵は必ずお連れください」
そう強く言われると、確かにそうかもしれない。
「ルギル兵の二人に付いて来てもらうわ。私にもルギルはあるし、それで心配はないでしょう」
「う……はい……」
返事はしたものの、隊長に納得した感は微塵もない。それでも今は無理にわかってもらうしかない。
私はルギル隊の中から二人に付き添いを頼み、松明の明かりが揺れる平原へと出た。背後から大勢の兵達が見守る視線を感じながら、固まっている獣人達の影に静かに歩み寄って行く。
「私と話がしたいという者はどこか」
ある程度近付いたところで、私は呼びかけた。これに向こうはわずかにざわめくが、すぐにその中から一人の人影が出て来た。
「……話に、応じてくれるのか?」
現れたのは、獣人族の服をまとった細身で白髪の老人――やはり、あの洞窟内で出会った男性だった。
「また会えて嬉しいわ。私も、あなたとはもう一度話したかったの」
「また? ……はっ!」
老人は目を凝らして私を見ると、思い出したように声を上げた。
「あんたは……いや、あなたは、まさか、王国国王だったのか……?」
ひどく驚いた顔が見つめてくる。ということは、あの時点では私の素性を知らなかったのだろうか。
「その通りよ。あなたのご要望通り、王自らこうして話を聞きに来たわ」
「そうだったのか……何とありがたいことだ」
「それで、一体どのような話をしたいのかしら」
「その前に、まず……」
そう言うと老人は後ろに控えていた獣人達に手を振ると、さらに後方へ下がらせた。
「……何をしているの?」
「兵士がいると落ち着いて話せそうにない。後ろの者らを下がらせるから、あなたもその兵士を下がらせてはくれまいか」
私の左右に立つルギル兵を見ると、その顔は不審を感じ取っていた。
「陛下をこのような場でお一人にすることは出来ない。ゆえに断る」
「貴様の仲間を下がらせたと言っても、姿はまだそこにあるのだ。我らが離れるわけにはいかない」
これに老人は困惑しつつ言う。
「こちらに危害を加える気はまったくないのだが……国王陛下ならば疑い深くなるのもわかる」
老人は振り返ると、離れた獣人達にもう一度手を振った。すると松明を持った影は見る見る遠ざかり始め、ついには暗闇の中へ消えてしまった。
「……彼らは帰らせた。これで、心配するようなことはない」
私は少し驚いた。自分だけ残れば、逆に捕らえられる危険もあるというのに……この老人はそこまでの覚悟をして話をしたいのか。
「何を言っている。裏切り者の貴様から目を離すことなど――」
「わかったわ」
「! ……陛下、何を仰るのですか」
驚く二人を私は見据える。
「こちらの疑いを解消するために獣人達を下げてくれたのだから、私達も同じように下げるべきでしょう」
「し、しかし――」
「一対一で人間同士……大きな問題はないわ。それに私にはルギルもある。……この剣も、下がらせたほうがいいかしら?」
聞くと老人は、ゆるゆると首を横に振った。
「いいや。それは獣人を切るために作られたものだ。持ってようと私は構わない」
「……だそうよ。見たところ、この者は武器すら持っていないわ。ここへは互いに話をしに来たの。戦うためではないわ。その意志を明確に示さなければ落ち着いて進められないでしょう」
「理解してくれたようで、感謝する」
老人は小さく頭を下げた。
「へ、陛下……」
「落ち着いてというのなら、こんな真っ暗な平原のど真ん中での立ち話では落ち着かないわね。……簡易のもので構わないから、椅子と机、それと灯りを用意させて。さあ、急いで伝えに行って。話を始められないわ」
戸惑いを隠せない二人を強引に下がらせ、私と老人はしばし黙って待つ。そして五分後、天幕内で使われる机と椅子二脚を運んで来た兵士は、私の前にそれらを手早く並べ、最後に机の上に灯りのともったランプを置くと、自分のした行動に不安を見せながら大人しく下がって行った。これで、場は整った。
「座って」
「わざわざ、かたじけない」
老人に促し、私も座る。机を挟み、向かい合う位置で互いの顔を見る。ランプの柔らかな光が、深いしわの刻まれた影を揺らしながら照らし出す。
「あなたには、いろいろと聞きたいことがあるわ。こちらの質問にも、正直に話してくれるのかしら」
「そのつもりだ。私はこの機会に、獣人族の長年の想いを代弁したい。そのためにはすべてを正直に教える必要がある」
一度瞬きをすると、老人の黒い瞳は真剣な眼差しでこちらを見据えた。
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