九話
私は執務の手を休め、暖かい陽光が入る窓の外を眺めた。白い雲の浮かぶ青い空。そこを鳥の群れが通り過ぎて行く。その下には多くの緑があり、目に鮮やかな景色が広がっている。その奥には断崖のある険しい山々が見える。羽人族の住まう地ルカトゥナだ。その南にフレンニング王国は建国され、立地的にも肉体的にも羽人族を守る剣と盾になっている。
だが、捕らわれた私が帰城してから、その役割は事実上休止状態になっている。理由は簡単だ。獣人が襲撃をしてこなくなったからだ。それも、ただの一度も。以前は毎日のように襲いに現れていたのが、不思議なことにぱったりとなくなり、王国周辺はすっかり穏やかな空気に変わってしまった。それはもちろん喜ばしいことなのだが、戦いを余儀なくされていた兵士やルギル隊などは予想外の待機状態で逆に憂さが溜まったようで、それを晴らすために連日練兵場へ通っているらしい。彼らにとっては獣人を撃退することが日常の一つで、それが出来なくなり、生活の調子が少し変わってしまったのだろう。だが獣人が現れないのは何よりだ。この王国は建国時から戦い続けている。兵達にも戦いのない時間に慣れてもらわなければ。
とは言うものの、私もこの状況には落ち着かないものがある。戦いに出ない日は公務をしなければならないわけで、体を動かしているほうが性に合う私には、毎日机に向かう時間を過ごすことは結構な重労働に感じる。こんな日々がいつまで続くのかと思うと、稽古で憂さ晴らしをする兵達の気持ちがよくわかってくる。しかし女王である限り公務は果たすべき仕事だ。落ち着かないと言えどもやらなければいけない。平和な時間にわがままな苦情など言ってはならないのだから。
個人的なことの他に、もう一つ落ち着かないことがある。まさに襲撃のない状況そのものだ。こんなことは今までにないのではないだろうか。獣人が数日間現れないことはあっても、数週間、一ヶ月近く現れないのは初めてだと思う。この獣人族の沈黙に、私はどうも不安を感じているのだ。なぜ襲撃をやめたのか? それが途絶えたのは私が帰城してからで、それが関係しているのではとも思えてくる。嵐の前の静けさ――そんな言葉が浮かぶ。獣人族はさらに何かをたくらみ、そのため襲撃を中止して準備を進めているのではないだろうか。そう考えると私は落ち着けなくなる。そして急かされる気分になるのだ。獣人に何かされる前に、こちらから出来ることがあるのでは。穏やかな時間に浸って待っているだけで、果たしていいものか……。この些細ではあるけれど、近い将来大きく膨らむかもしれない不安を私は払拭したい。そのためにはどうすべきなのか。頭には未だにあの老人の言動が引っ掛かり続けている。おそらく私の心は接触したがっているのだろう。しかしそうするための安全な術はなく、老人が裏切り者でない保証もない。あの者にもう一度会い、話が聞ければ、何か状況が変わるような気がするのだが……。
コンコンと扉を叩く音がして、私は窓から目を移した。
「どうぞ」
声をかけると扉は開き、そして案の定スヴェンが入って来た。
「手は進んでいるかな」
そう言ってこちらへ近付くと机の上をのぞく。
「もうほとんど終わったわ。あとはこれに目を通して署名するだけよ」
ぽつんと残った新条令案の書類を示して私は言った。スヴェンはその横に重ねられた署名済みの書類を手に取り、一つ一つ確認しながら満足そうに頷く。
「……そのようだね。近頃は仕事が早くなったんじゃないか?」
「早くなったわけではなく、それしかやっていないからよ。暇と見るや大量の書類を持って来る誰かさんがいるから」
上目遣いにねめつければ、スヴェンは悪びれもしない笑顔を浮かべた。
「君は女王だからね。その時間は有効に使ってもらわないと」
「有効に使わせるにしても、いつも同じようなことをさせられれば正直嫌気も差してくるわ。たまには城下の視察とか、違う公務はないの?」
「そういう仕事がお望みなら予定を組むことも可能だが、でもその前に溜まった執務を片付けるのが先だよ。下の者達は皆、君の決定を待っているんだから」
そう言われては何も言い返せない。臣下達を待たせている罪悪感は私にも少しはある……。
「さあ、残りのものも頼むよ」
「……ええ」
促され、私は渋々書類に手を伸ばすが、思わず溜息が漏れた。
「少し無理をさせすぎたかな。それとも新条例案が気に入らないかい?」
溜息の意味を間違って受け取ったスヴェンに、私はすぐにかぶりを振った。
「そうではないわ。ちょっと、違うことを考えていたから」
「違うこと?」
「獣人が現れないこの状況が、どこか……不安に思えて」
「なぜ不安だと?」
「だって、これまで毎日のように襲撃を受けていたのに、それが突然途絶えるだなんて、あまりに極端すぎる。獣人族が何かたくらんでいるかもしれないと思うと、私は何も手を打たなくていいのかと不安で……」
「なるほどね」
そう言うとスヴェンは私を見て微笑んだ。
「これまで真面目に剣を振るってきた君らしい考えだ。でも獣人に襲われなくなったことも少しは喜んでもいいんじゃないかな」
「私には民を守る責任があるわ。もし獣人に奇襲でもされたら――」
「何も警戒心を解けとは言っていない。軍の者達もティラと同じ懸念を持って、いざという時の態勢に抜かりはないよ」
「ジェンセンも、同じように考えているの?」
「静かな獣人族は不気味だと言っていた。だから兵達には気を緩めるなと檄を飛ばして回っているらしいよ。でもその一方で家族と過ごす時間が増えたと喜びもしていた。襲撃報告があれば、たとえ家にいても城へ行かなければならないからね」
スヴェンは机に手を置き、私を見つめる。
「つまり、気持ちのめりはりだよ。警戒は怠るべきじゃないが、だからと言って四六時中不安を抱いていたら精神的にまいってしまう。王国は君一人で守っているわけじゃないんだ。今何をすべきかは軍と話しつつ、その合間に自分の時間を満喫するくらいの気持ちを持っても、誰も咎めはしないよ」
「そうかも、しれないけれど……」
でもやはり気になってしまうのだ。
「……そんなに不安を消せないのかい?」
「こんな状況は初めてだもの。こちらが攻め入ってもいないのに、獣人族が動かなくなるなんて……」
スヴェンは顎に手を当て、考えながら言う。
「君を逃がしてしまったことで、内部で引き締めでも行われているのかもしれない。あるいは、意見の違いで二分しているのなら、その争いが起こっていたり……とにかく、新たな作戦を練っているんじゃなく、単なる内輪揉めの可能性だって考えられる」
確かに、襲撃が途絶えたのは私が帰城してからで、逃げられたことは獣人族にとって口惜しく、反省すべきことだったろう。意見の相違があるのなら、それで揉めて動きを鈍らせたとも考えられる。だがしかし――
「一ヶ月近くも、内輪揉めなんて続くものかしら……」
これにスヴェンは肩をすくめた。
「獣人族の常識や習慣など、人間の私達が知るはずもない。その逆もそうだ。知らないものはただ推測する他ない」
私達が持つ獣人族に関する情報はあまりに少なく、ほぼ知らないと言ってもいいかもしれない。昔、調査をする試みはあったのだが、襲撃でそれどころではなくなったのだろう。それ以降、獣人族は撃退するだけの対象となった。だが今はその得られなかった情報が欲しい。一体どのような思考を持ち、どのように行動を決めているのか……。けれどそれを調べることなど可能なのか? 内部に入り込まなければそんな調査など不可能な気もするが――ああ、すでに内部に入り込んでいる者がいるではないか。あの老人……逃げようとしなかったあの者ならば、少なくとも私達よりも獣人族について知っている可能性があるのでは。
「……何を考え中だ?」
思考で黙っていた私にスヴェンが首をかしげて聞いてきた。
「やはり、洞窟にいた男性と会うべきだと思うの」
「その話はもう済んだはずだよ。接触するには兵を動かすしかなく、危険が伴う。実行するにもそれはまだ出来ないと」
「けれど、私は……もう一度話を聞きたい。気になるのよ。どうしても」
スヴェンは困惑の眼差しを向けてくる。
「いくら気になろうと、今は無理だ。状況が整うまで待つしかない」
「ではいつまで待てばいいの? あの男性がずっと無事でいるかはわからないわ。居場所が判明しているうちに――」
「ティラ」
静かな声で呼ばれ、私はスヴェンに顔を向けた。その表情には困惑と共に憂いも滲んでいた。
「イーロじゃないが、馬鹿な考えは起こさないでくれよ。君は女王なんだ。無謀な行動は慎んでほしい」
「ええ。私は女王なのよ。だから率先して動いて、獣人族の情報を集めたいの。この不穏な状況を打開し――」
「待ってくれ。……率先して動くって、まさか自ら行動するつもりかい?」
「可能ならばそうしたいわ」
「可能かどうかの問題じゃない。そんなことは私が許さない」
「あなたに許されなくても、私には獣人族の脅威を止める責務があるの。そのために動こうとして何が悪いと――」
スヴェンは言葉をさえぎるように、机に置かれた私の手を強く握り締めると、鋭く真剣な顔で言った。
「君は自分の立場をもっと理解すべきだ。王には危険など及んではならないんだよ。まして捕らわれるなんてことは、一度たりともあってはならないことだった」
「あれは、私の油断が招いたことよ。けれどもう二度と――」
「そうじゃないよ。君はあまりに外側に……獣人族ばかりに気を取られ、自分のことや王国内に意識を向けていない」
「獣人族は私達にとって最大の脅威よ。それを気にして何が悪いというの?」
「民を守る責任があると言いたいのだろうが、それは私も否定しないよ。しかし君はこの王国を守る責任もあるんだ。民と国、この二つを守るために必要なものがある。わかるかい?」
突然聞かれ、私はすぐに答えが浮かばなかった。
「……すべてを統率する者、すなわち王だよ。王とはティラ、君のことだ。君なしでは民も国も守り切れないんだ。その命は絶対に失われてはいけないものなんだ」
「スヴェンは私に、剣を振らず城の中で大人しくしていろと言うの? それでは羽人族との約束はどうなるのよ。建国時から続いていることなのに……」
「羽人族との信頼関係を保ちたいのはわかるよ。だがそれと君の命とどちらが大事か……言うまでもなく、君の命に決まっている。……こんなこと、面と向かって言うつもりはなかったんだけどね。でも長年思っていたことだ。言わせてもらうよ。羽人族との約束があるとはいえ、王はやはり戦いに出るべきじゃない。軍の士気は上がるだろうが、それ以上に王は危険にさらされる。それは君が証明済みだ。王は国の絶対的要、不慮の死など起きたら国を混乱させるだけだ」
「私は死んでいないわ。ここに戻って来ている」
「それは獣人の不手際のおかげだ。本来、戦場で捕らわれた時点で、君は死んでいるのが普通だったはず。違うかい?」
その通りすぎて、ぐうの音も出ない……。
「命を失えば何も守れなくなる……君にはもっと、自分の命を大事にしてもらいたい。民と同じくらいにね」
「大事にしたら恐怖が湧いて、戦えなくなってしまいそう……」
「そうなれば私も、ティラが戦いに出るたびに心臓が引き絞られるほど案じる必要もなくなる」
思わず私はスヴェンを見つめた。
「未だに私を、そんなに心配して待っているの?」
これにスヴェンは薄く笑んだ。
「戦いに出て行く伴侶を、ただの務めと思って見送れると思うのかい? 私はルギルを握った君の背中を見て、毎回これが最後にならないよう祈っているよ。でないと不安でたまらないんだ。捕らわれたと知った時は、もう、呼吸も出来ないほどに絶句した……。私の気持ちもわかってほしい」
私はスヴェンが握る手を握り返した――知らなかった。公務のことばかりを考えていると思っていたスヴェンが、これほど私の身を心配してくれていたなんて。
「少しは剣を置いて、この王国の将来のことも考えないかい?」
「将来の平和のために、私は獣人族の――」
スヴェンはゆっくりと首を横に振ると言った。
「そういうことじゃない。私が言う将来とは、世継ぎのことだよ」
「世継ぎ……」
つまり、私達の子で、次の王となる存在……。
「周囲の者達は決して口に出すことはないが、私達にまだ子が出来ないことに気を揉んでいる空気があるのは、私でもさすがに感じている」
私の年齢は二十四歳……とっくに母親になっていてもいい歳だ。けれど獣人の撃退を優先し、私はそれを後回しにしてきた。民を守るのが私の役目だったから……。
「獣人を退けるのは兵士達にも出来る。だが王国を担う子を産むのは君にしか出来ないことだ。将来のために……それも大事な責務の一つだ」
「わかっているわ。世継ぎを産むのは王としての務め。忘れていたつもりはないけれど、でも、今の状況は不穏だわ。獣人族が次に何をしかけてくるか……」
「不穏ではあるが、平穏な状況でもある。君が剣を振る戦いは起きていないんだ」
「だからこそ気を抜いてはいけないのよ。城でのんきになんてしていられないわ」
これにスヴェンは眉根を寄せた。
「ティラ、君は獣人族を殲滅するまで、ずっと剣を手放さない気か? 王国の将来には目もくれずに」
「将来のことはもちろん大事よ。けれど世継ぎを作るのは今でなくても――」
「今でなければいつがいいと言うんだ? 再び獣人が現れた時か? 君がもう一度洞窟へ行った後か?」
「スヴェン……」
どこか苛立ちのあるスヴェンを私は見つめた。
「世継ぎの問題は早めに解決すべきだ。子が出来なければ城内で様々な異論が噴出するだろう。それによって皆の心が割れれば、獣人族へ対する団結力も削がれてしまう恐れがある。そんなことは君も起こしたくないだろう」
握られた手を離した私は一息吐いた。
「私のことを心配してくれているのだと思ったけれど……結局、そういう心配なのね」
「ティラ、そうじゃない」
スヴェンは詰め寄ると、私の肩に触れて向かい合った。
「私が何より望むことは、君が無事に生きていることだ。獣人族と世継ぎの問題は重要だが、私は内政を仕切る立場からその問題を言わざるを得ない。でも先ほど言ったように、私は君が戦いに出るべきじゃないと思うし、出させたくないとも思っている。それは君が女王で、私の愛する人だからだ。絶対に死なせてはならない人……戦闘が続いている間、私にはただただ恐怖しかないんだ。君をまだ失いたくない。世継ぎを産み、その子と城で穏やかな時間を過ごしていてもらいたい――それが、正直な私の気持ちだ」
私は真剣な表情を見つめた。スヴェンは宰相の役目を与えられている以上、個人的な感情は排してものを言わなければならない。おそらくスヴェンはそれと本心との間で葛藤していたのだろう。もう戦わないでくれと、ずっと私を引き止めたかったのかもしれない。そして、そう出来る理由や機会を探していたのだ。けれど、やはり私は――
「ティラ、君自らが動く必要はない。危険なことは考えないでくれ」
スヴェンは私をそっと抱き寄せ、耳元でそう言った。背中をひしと抱く手から、その強い望みが伝わるようだった。
「……世継ぎのことは、もう少しだけ、待って」
体を離すと、スヴェンはこちらを見つめて落胆の表情を浮かべた。
「そうか……ならば、もう少し待つことにするよ。無理には言えないからね」
「ごめんなさい……」
私は顔をそらし、そう言うしかなかった。状況に懸念を持ったままで決めることは出来ない。私にはまだ、やるべきことがあるような気がするから。
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