第四章 七
陽の光が積もっていた雪の残りをも溶かそうとしている。村よりも雪の量が少ないこの地では、冬の初め頃はよく積もっていたものの、降る日が減っていくうちに地面が顔を出し、緑が見えてくるようになった。
「私は人間の肉体に魂を宿しましたが、あなたはどうやってこの世に降りて来たのですか」
無憂はゆったりと歩く阿嵐の後ろをついて歩いていた。
「俺が権化するのはそう簡単なことではなかった。宇宙の統率者が六道に落ちるなど、法則に反する行為だったから、身動きが取れない状態でいた。だからこそ権化に必要な仮の姿を手に入れようとした。天人たちはそれに快く協力してくれたのだ」
しかしながら、仏の魂が収まる器をつくるのは困難なことだった。天人たちは知恵を振り絞り、工夫し、ひと針ひと針に命を注ぎ込むようにして人の形を編んでいった。
そうして、今の彼の姿が生まれた。
「残念なことに、天人の器でも俺の魂は収まりきらなかった。だから最後の手段として、力を最小限に押さえ、収縮させた魂をそれに宿らせたのだ」
境地に達した阿嵐の魂は、如何なるものであろうともいっさい煩悩を受け付けない。天道もあくまでも輪廻のひとつ。そこから生み出された器もまた、それに穢されたものにすぎなかった。
「力は半分ほどになってしまったが、これまた便利な体でな。人より体力は継続し、身軽で、傷が残らない。俺が刺客に狙われながらも生き延びたのは、特別な肉体があったおかげでもある」
赤ん坊の頃は毒のついた針を刺され、歩けるようになれば猛毒の虫を触らされた。それでも死ななかったのは、肉体そのものが邪悪なものを拒絶していたからだったのだ。
「では、私はあなたの欠片なのに、なぜ人の身に馴染んでいるのでしょう」
「収縮した魂を入れたように、欠片というのは小指ほどのささやかなものなのだ。このくらいであれば人の身に収まるだろうと思い、信じて投げた。だが、まさかそれが逆手に取られるとは思わなかったが」
阿嵐の力の一部を受け継いだ魂は、無事に無憂の体に宿ったものの、容易く怪鳥によって因果に縛られてしまった。ほんの小さな欠片に、それに抗えるような力はなかった。
「あの物怪は何のために呪いを作ったのでしょう」
やつは自ら穢れを撒き散らしたりはせず、人間を襲うこともなく、言葉巧みに取り引きを持ちかけ呪いを誘発させた。他の物怪にはない強い自我を有している珍しい部類である。
九尾や烏天狗、海坊主など、濃い穢れを吸収した物怪はそういった例が多く、ほとんどが天災を引き起こす力を持っていた。
「魂を不動のものにしたのは何かしらの意図があったはずだ。抜け出す余地を与えない作りをしていたからな。単に村を滅ぼしたかったのであればそんな回りくどいことはしないだろう。となれば、魂そのものを狙ったと考える方が自然だ」
何も縁のなかったはずの物怪が、何をきっかけに欠片の存在を見つけたのだろう。
「それではまるで、あなたの欠片であることを知っていたかのようではありませんか」
そう。そこが不可解な点だ。
何事もなければ、早くに覚醒し今より多くの人々を救えていたはずの無憂。呪いにより救済を妨げられ、欠片を探した阿嵐もろとも、多くの時間を消費することとなった。何の変哲もない魂を、わざわざ因果で縛り付ける必要はない。欠片に含まれる祓魔の力が世の中にどういった影響を与えるのか、やつは知っていたのだ。それはつまり、阿嵐の存在を知っていることに繋がる。
「俺は物怪の正体はわからないと言ったことがあるが、実はあらかた検討はついていたのだ。話が長くなるだろうから、あの時は伏せていたんだがな」
「……では、何の物怪か、ご存知なのですか」
阿嵐は肩越しに無憂を見た。
「鵺、という名を聞いたことはあるか」
如何なる鳥にも例えられぬ、奇形の物怪である。
その姿は文献によって異なり、一般的にキジに似ているとされるが、顔は猿、胴体は狸、尾は蛇と記されていることが多い。世を黒煙で覆い、落雷で人々を恐怖に陥れ、病を流行らせるという伝説が語り継がれている。
滝之雪家初代当主の手記に書かれていた物怪の容姿とも一致する。巨大な鳥脚、大きな翼。はっきりと断定はできなくとも、可能性は十分にあった。
それだけでなく、阿嵐は思い至った理由は権化前の出来事にあった。
「俺が人間道に降りるきっかけとなった歯車の異変だ」
六つに重なる六道の世界のうち、餓鬼道の入り口が著しく崩壊し、そこにあった魂が大量に流れ出るという、これまでになかった災害があった。
その時、宇宙を統べる仏の目に、あるものが映ったのだ。
「ほんの一瞬だけだが、真っ黒な巨大な鳥が歯車を横切った。どうやってあの生物が宇宙へ干渉したのかはわからないが、流れを止めているうちに、行方すら追えなくなってしまった」
餓鬼道の荒れ狂った魂は、軌道に沿って一部が人間道へと流れ込んだ。そしてその魂は、人やものが持つ穢れと合わさることで物怪へと変貌した。飢えた魂は欲望のままに地上を徘徊し始める。人や土地を侵し、喰らうことで飢えの苦しみを紛らわせ、引き換えに人間たちに不幸と苦しみをもたらした。負の連鎖により穢れは増殖し続け、物怪は次々と数を増やしていったのだ。
「物怪が人間の世界で生まれてしまったから、この時代が始まったのですね」
黒い鳥が、全ての元凶。
その鳥がさらに、無憂を足止めするために魂を呪った鵺だとしたら、六道を脅かそうとする奴の行動に筋は通る。
しかし今の段階で決めつけるには早い。奴の実態についての情報が明らかに足りていないのだから。
「この先は、実際に鵺を突き止めることでしか確証は得られない。奴は記録に残っているだけあって、大昔に災いをもたらしているが、逆にそれ以外に記されていることは何もない。地上にいる物怪を祓いながら、奴に関連するものを探して行くしかない」
阿嵐は不意に、無憂の手を引いた。曲線を描いた赤い橋に足を乗せる。彼の身につけている腕輪や耳飾りが、しゃらりと音を立てて揺れた。
「私はそれにお供すればいいのですね」
「ああ。だが俺たちの道のりはそれだけでは終わらない」
川に映る二つの影が揺らめく。
「君は一歩間違えればあっけなく死んでしまう人間だ。俺が試しにとこの世に落としてしまったから、脆い肉体のまま何度も転生させることになったが、そのせいで本来ありもしない縁が結ばれている。このまま何事もなく一生を終えたとしても、また同じ世に生まれ直してしまうだろう」
それでは呪いから解放した意味はないのだ。
「正しい輪廻の運びとなるには、肉体と縁を切り、天人に頼んで新たに肉体を編んでもらうのだ。そうすれば君も俺と同じようになれる」
使命を帯びた輪廻の旅は、ひとつの世界では終わらない。また別の時代、別の場所、別の世界で負の連鎖に巻き込まれた人々がいることを我々は忘れてはならない。
餓鬼道の魂は、たったひとつの世に落ちたものではなく、人間道に広く蔓延している災いなのだ。
一つ一つの世界に降り立ち、我々は全ての魂を導く義務がある。
今世は、そんな救済の旅の始まりに過ぎない。
「縁を、切る」
無憂はまだ、宇宙の広さを知らなかった。彼女は長い人生を繰り返しながらも、違う世界を生きたことがなかったのだから。この世を離れるのがどういうことか、想像すらできていない。
「肉体は君が死ぬ前に編んでもらわなければな。この国にある大社の中から、もっとも天道に通じやすい神を探し、お願いしてもらおう。その神ならきっと縁も切ってくれるはずだ」
だがその道のりは、長く果てしない。数多の物怪と邂逅しながらも、病気もせず、大きな怪我なく生き抜くことはできるだろうか。人生は、何があるかわからない。
「案ずるな。君を死に至らしめるものがあれば、全て取り除いてやろう。今世は不便なことばかりだろうが、必ず最期まで支えてやる。君の魂は、俺が正しく導くと約束するから」
この世で最後の生を、俺に委ねてくれないか。
どこからか流れてきた、梅の花びらが橋の下を通り抜けた。
その先に何が待っているのか、わからない。
けれど、進む他はない。
道はたった一つだけ。
歩むために生まれた魂だから。
「ええ。あなたを信じます」
冷たかった手が、彼の温度を通してぬるくあたたまった。
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