第二章 一
ややこ……や……ながら……
……こ……れ……き……
さくら……ね……は……まわる
また夢を見た。起きてしばらくしたら忘れてしまうような、朧気の夢だ。
白露は身を起こすと、枕元に置いていた小皿を覗き込んだ。水に浮かべた椿は、ひとひらの花弁を離し、ゆっくりと回っている。
こんなに綺麗だというのに、何だか酷く哀愁めいていた。
「今回は見送りだったけど、千朗は暇そうだったよ」
「大事に至らなくてよかったな」
この日は士優が町へ降りる日だった。身支度をして東門に向かうと、荷車に大きな荷物を積み上げ、みながそろって出発の準備をしていた。朝から活気のある声で溢れ、人々の元気な姿に寒さを少しだけ忘れられた。
「白露、そんな薄着でいると風邪をひくぞ」
兄弟が井戸の近くで駄弁っているのを認め、白露は小走りで駆け寄る。
「おはよ〜」
「おはようございます。士優兄さま、もう出られるのですか」
「そろそろな。こんな状況でも行かなければならないのが心苦しいところだが、村にとっての重要な務めだから、そういうわけにはいかない」
「まあでも、日が暮れる頃には帰るんでしょう?一日くらい大丈夫だよ、兄上」
「白露のことをよく見てやってくれ。頼んだぞ」
「ああ、また母親みたいなこと言ってる。わかってるからお土産よろしくね」
兄の心配をよそに、賢優はいつもと変わらない態度で彼の肩を叩く。年が五つも離れた二人だったが、そんな年齢差をみじんも感じない気安いやり取りが、彼らの関係をよく表している。
「お務め、上手くいくよう祈っております」
「ありがとう白露。……俺が言うのもなんだが、物怪には気をつけるように。昨日のように急に現れることがあるかもしれないから、くれぐれも油断するなよ」
「はい。改めてみなに警戒しておくよう伝えておきます」
いっぱいになった荷車を数人で引き、門を潜って行く。
袋をたすき掛けして結んだ士優は、手を振って最後に外へ出た。
「気をつけてねー」
門が閉められるまで見送った二人は、さてと屋敷へ足を向ける。
「白露、実は不安だったりしたの?」
何気なく意表を突かれた白露は、心が追いつかず妙な間を作った。
「……どうしてですか」
「見送りなんてしたことないじゃん。朝は苦手だろうに。兄上も意外そうにしてただろ?」
そうだっただろうか、と直前の出来事を思い返すも、寝起きのせいで頭が上手く働かなかった。
「起きられないのを知っていたのですか」
「たまに深く眠る時があるから、そういう時は起こしに行くんだってこずえが言ってた」
賢優はお互い会わない間も、こうして人づてに兄妹の話を聞いて気にかけていたのだろうか。兄の様子をよく見て隙をついては甘え、妹は放置しているようでよく目をかけてくれている。器用な真ん中っ子である。
白露はふと思った。舞を完璧に踊ることを第一に考え、ここにいる皆を守るために生きてきた自分は、人生のうちどれだけ兄たちを気にかけてやれただろうか。役目に捕われすぎて、近くにいる人たちを蔑ろにしてしまっていたのかもしれない。
自分はこれまでどんな風に生きてきたのか。
「おれも今日、何もすることがないからさ、久々に一緒に遊ばない?ずっと難しいこと考えてたって疲れるだけだよ」
思い出せない。
「……はい」
……思い出せない?
「白露、眠いの?」
遡ればのぼるほど、記憶は海の底のように暗くなり、見えなくなっていく。覚えているはずのうんと小さな頃の記憶の断片や思い出。それがほとんど出てこない。兄妹三人で過ごした日々は決して少なくない。なのに……ここ数年のことを掘り返すのがやっとだった。
「……。うん……」
どうして、今まで気づかなかったのだろう。
「なんだ、士優はいないのか」
「うおわっ。若君さま?どうされましたか、何かご不便でも」
その後、白露が自室に戻ってしまい、何も無い一室でひたすら紙類を分けていた賢優は、突然の訪問者に心臓を縮ませた。
「いいや、中央とは違う朝餉の味に満足していたところだ。何より山菜が美味い。昨日の件で聞いておきたい事があったのだが、お前も忙しそうだな」
「ああ……父上に頼まれて整理しているだけなので、おれでよかったから代わりに聞きますよ。ええと、ここには畳がないので奥の部屋に……」
賢優が立ち上がろうとすると、阿嵐はゆったりと中に入ったかと思えば、散らばる紙類を踏まないよう壁際に腰を下ろした。
「ここで構わん。手を動かしながらでいいから聞いてくれ」
賢優はあんぐりと口を開けた。立ち振る舞いは確かに貴族のそれなのに、こうも作法に無頓着なのは中央貴族の中でも珍しいのではないだろうか。少なくとも賢優の想像では、貴人はみな優雅で気品に溢れていた。そして貴族としての矜恃を持ち合わせているため、常に気高くあろうとするのが上級貴族のあり方なのだと、そう信じて疑わなかった。
だからこそ阿嵐のとった行動は、賢優の常識を覆す衝撃的な瞬間だったのだ。
「ああやって物怪と戦うのはよくあることなのか」
「……恐ろしいことを仰いますね。ひと月に一度や二度、出てくるくらいですよ。特に儀式の直後は出にくくなるはずなのですが、たまにああやってひょっこりこちらへやって来るやつもいるのです」
阿嵐は相槌を打ちながら聞いた。敬語になれていない賢優だったが、かえってその緩さを阿嵐は好意的に受け取っていた。
同時に、やはり穢れの根源に引き寄せられている、と確信する。清浄な地だろうと構わず近づいていたのだとしたら、その身に影響を受けてでも一体化の本能に従っていたということになる。
穢れはより大きなものに引かれ肥大化していく。それが山に穢れが広まった理由のひとつでもあった。
「たいていの場合、おれと兄上が率いる組合で倒しているのですが、物怪はそこらの武器で切っても浄化されないので、正直兄に頼りっぱなしになっていたりもします。まあ、力技で追い返すことも多々あるのですがね。うちは体格のいい人たちがそろっているので。それでも強い奴が現れたら、白露に浄化してもらったりして……」
賢優は思い出したかのようにため息をついた。
「結局、白露がいないとおれたち何にもできないんですよ。ただでさえみんな期待ばかりを寄せていて、白露はそれによく応えてくれているんですが、自分を追い込みすぎているような気がして、その──……」
阿嵐と目が合い、我に返ったのか、照れくさそうに逸らして、
「申し訳ありません、話がずれましたね」
「非常に兄らしい姿でよかったぞ。士優とお前はよく妹を可愛がっているのだな」
「いやあ……はは、まあ」
こんな話をするつもりはなかったが、下手に家の者に聞かせられるものでもなかったからか、つい口から本音が出てしまっていた。
気恥ずかしく思いながらも、阿嵐の反応の悪い気はしない。
「とにかく、物怪は山をうろつくだけでなく、村のそばにも現れるということか」
「はい、そのように捉えていただければ」
次に阿嵐は、彼に村の内情を聞くべきか悩んだ。賢優は兄や妹とは違い、微々たる力しかない普通の人間である。家の立場的にも、彼がどこまで物事を把握しているのかわかりかねた。
「そういえば、鶴真が言っていたが、うちの
「ああ、とんでもございません。あれは千朗の早とちりというか、もともと気性が激しい性格なもので」
世間話のついでに何か掴めないだろうか、と阿嵐は思い至った。
「あの時、白露の君が表に出ていたのは珍しいことだったのか」
「急事だったので、そういう場合も白露が対応することになっています」
「村に一人となると、やはり気を抜いていられないだろうな」
賢優はここで、ふと思い出したことがあった。
「あの、お聞きしたいことがあるのですが」
「何だ?」
「どうして巫が一人だということを知っていたのですか?」
おや、と阿嵐は意外そうに賢優をまじまじと見た。
「おれたちは確かに三兄妹ですが、一代に一人とは言いませんでしたし、もう一人妹がいる可能性だってありました。……若君さまは、何を見て巫が一人しか生まれないと思ったのでしょう」
彼らはしばし互いの思考を探るように視線を交わした。
なるほどこれは、兄とは別の方向で思慮深く冷静である。
兄は直感的な判断でいち早く言動に出る性格だが、この弟はそれを見て育ったからか、その逆に慎重派になっているようだ。
「物怪を祓う者たちというのは、その力があるだけで見える世界が違ってくる。普通の人間よりも第六感が鋭いからな。あらゆるものを感じ取れ、本来ないものも見える」
「ないもの……?」
「穢れの跡や清められた土地の境界なんかがいい例だな。特に穢れは跡だけでも気味の悪いものだ。実際に汚れてなどいなくてもどうしても汚く感じてしまうから、その影響で潔癖症になってしまう祓い屋は大勢いる。それだけ力が敏感に働いているということだ」
そういう人たちがいるおかげで、務めはきちんと果たされ結果的に広大な領土を管理できるのだ、と阿嵐は語る。
「兄が物怪に勘づいたり、白露が危険区域を目で測れたりするのもそういうことですか」
「そうだな」
阿嵐は腕を組んで壁に凭れる。
「つまり何が言いたいかというと、俺は白露の君以上か同等の強い気配がないことを、村には入ってすぐに感じ取っていた。いたらすぐにわかるだろうからな。それがないとなると、巫を継承できる者は今のところいない。だから一代に一人だと思ったのだ」
賢優の表情を観察した阿嵐は、くすりと笑って、
「腑に落ちないか?」
「い、いえ、そういうわけでは」
良くも悪くも、賢優はまだ若く純粋だ。あまり世間の関わり方を知らず生きてきたのだから、からかってしまうのも気が引ける。
「お前たちにとって俺が疑わしい客なのはわかっている。だがこのままだとお互い居心地の悪い思いをするだけだ。俺はこの村を知り、穢れの原因を突き止めるために居座っている。なんでも聞く代わりに、お前も好きなように尋ねろ」
不思議な貴族もいたものだ、と賢優は思った。
「……心遣い、感謝いたします」
では、と拳を握り、顔を引き締めて彼は言った。
「若君さまは、もうひとつ気づいたことがあるのではございませんか?」
阿嵐がそこまで鋭い感覚を持っているのなら。清浄と不浄を見分けられるのなら。
「……お前たちの、母君の存在か?」
もうとっくに原因となるものが何なのか、知っていてもおかしくない。
ごくりと唾を飲み込む。賢優は久しぶりに身内以外からその単語を耳にして、じわじわと足先が冷えていった。
「これは俺の推測にすぎないが、母君の姿がどこにもないことに違和感があった。最初の挨拶の時も、その日の夕餉も、全員がそろっていたのに母君の席は用意されていなかった。
だからこう思ったのだ、と阿嵐は、それまで穏やかだった表情を消した。
「もしかすると母君はとっくに亡くなってしまっているのかもしれない、とな」
賢優は無意識に指を絡めた。昔、父が言っていた言葉を思い出す。
知られては、ならない。
「下手に触れまいと避けていたが、今回の件に繋がりがある可能性を考えると、そういうわけにもいかなくなった。だが、誰に尋ねるのが適切なのか判断できなかった。初めて会う者が踏み込んでいい内容ではないからな」
「しかし、若君さまはそれが大元になり得るとお考えになられたのですね」
「ああ」
阿嵐はそれきり口を閉じた。その先を話すかどうかは賢優に委ねるということだ。
自分がその責任を負うべきか、賢優は寿命の縮まる思いで頭を回す。
「……兄上が帰るまで、お待ちいただくことはできないでしょうか」
「わかった、そうしよう」
阿嵐はいつもの柔和な笑みに戻り、邪魔したな、とあっさり部屋を出て行った。
とんでもないことになった。
賢優は顔を覆って一人、天井を仰いだ。
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