第一章 五


 屋敷にそれを知らせに来た組合の一人に話を聞くと、訓練中、林の方に不審な影を見つけ、千朗という者が先日の老人かもしれないと疑い山に入って行った。すると叫び声が聞こえ駆けつけると、そこには奇形の化け物がいたのだという。

 白露は扇を手に急いで向かった。村の外へ出るまでにはかなりの距離がある。走ったところで間に合うのかどうか……。考えるよりも先に、必死で足を動かした。

「お気をつけください、滑りやすくなっておりますゆえ」

 林に入ると、五歩進んだ先は崖になっており、木に手をつきながら横へ進んだ。この下にある川の向こう側へと降りて行くらしい。

 川は滝の前後に流れているものとは違い、幅が狭く比較的流れは緩やかだった。しかしこんなところまでおびき寄せられるとは、どんな物怪だろうと、白露は鼓動を早める。

 時おり祈祷巡りに加わり、物怪を退治することはあっても、やはり直接奴らに立ち向かうのはいつだって覚悟のいることだった。

 やっとの思いで崖を降り、川を渡ろうと向こう岸を見ると、白露は息を詰まらせた。

「賢優!何をしてる、早く離れろ!」

 大声を上げ、白露よりも先に士優が川へ飛び込んだ。崖のへこんだところには、肩幅の大きな男が地面に倒れ、それを守るようにして刀を構える賢優の姿があった。

 そして彼の目の前には、見上げるほど大きく真っ黒な物怪がいた。動物の四肢を伸ばしたような長い手足と首。頭は人間と猿の中間で、落窪んだ目を広げた寒気のする形相と、細いねずみの尻尾が背後で不気味に揺れている。

 川に足を踏み入れながら白露は扇を開いた。枝分かれして蠢く黒い手が賢優へと伸びる。垂直に持ち上げ、それに向かって勢いよく空を切った。

 軌道に沿ってできた白い筋が、一直線に放たれる。士優が抜刀しようとしたところに鋭い風が通り過ぎ、物怪の腕を吹き飛ばした。

 不気味な鳴き声が木の葉をざわめかせる。落ちた腕が浄化されながら霧となって消えた。

「大丈夫か」

「兄上、千朗が足をやられた」

「大胆なやつだよお前は。早く他の者と一緒に連れて逃げろ」

 そうこうしているうちに、物怪は大口を開けて兄弟に迫る。覇気を込めて士優は刀を振った。すると真っ二つに口が割れ、横に首が倒れる。やはり祓いきれない、と思った瞬間、横から飛び出した賢優が追撃を食らわせる。ぼとりと首が落ち、士優は今度こそと刀を構えた。

「賢優兄さま!」

 気づいた時には、下から迫っていた物怪の手が、賢優の体を払っていた。

 完全な死角を狙われた士優は、反射的に手を切るも、もう間に合わないことを悟った。

 宙に放り投げられた体は、半回転しながら川へと落下していく。

 踵を返し、白露は兄の下へ滑りこもうと飛び込む。

 きらりと、空の真ん中で何かが光った。

 瞬間、強く水面が打たれ、激しく水飛沫が上がった。

 頭から水を被った白露は、慌てて手をついて上半身を起こす。

「これはこれは、なんとも不思議な巡り合わせだな」

 見上げるとそこには、美麗な絵巻物から抜けて出たような、浮世の者とは思えない男が立っていた。

「立てるか、小僧」

 落ちる運命だったはずの賢優は、その男に抱えられ命拾いしていた。

 兄を下ろすと、今度は白露の方に手を差し伸べる。

 呆気にとられたままその手を掴むと、軽々と水の中から立ち上がらせてくれた。

「近くまで来ておいて良かった。まさかこのような事態に遭遇するとは夢にも思わなかったがな」

 青白く輝く癖のある髪、そこに異国情緒のある布を巻いて後ろに垂らし、片耳、首、腕には見慣れない形の装飾が重ねられている。小袖に長羽織りという独特な装いでありながら、なぜだかそれが絶妙な調和をもたらしていた。

 灰色がかった青い瞳が、白露を見つめる。

 はっとして現実に戻った白露は崖の方を振り向く。

 驚いたことに、物怪の胴体には短刀が突き刺さり、さらには二人の男が刀で物怪をあっという間に浄化していた。爛れた体が霧散していく。

 一人は若い黒袴の男、もう一人はご老体だったが、やけに筋肉質で背筋が伸びていた。

「終わったな。さて、風邪を引かれる前に送ってやろう」

 頭上では牛車が独りでに浮いて車輪を回している。

「……あなたは、どこの」

 遅れて体が震えだし、寒さの中白露は声を絞り出した。

五大御祓家ごだいみはらやがひとつ、東浪見とらみ阿嵐あらんだ」

 その神々しい古拙の微笑が、胸の奥にしまわれた彼女の記憶に、共鳴した。



「東浪見……?あの東浪見の若君でございますか?」

 屋敷についてすぐ広間へ向かった阿嵐は、同じように名乗り上げ、当主を絶句させた。

 五大御祓家ごだいみはらやとは、物怪の歴史に名を轟かす五つの有力貴族の総称である。対物怪に特化した全二十四家のうち、最も広大な霊地を持ち、朝廷の近衛としての権力を持ち合わせる由緒正しき家門。そんな天を仰ぐほど尊き貴人が、こんな片田舎にいるとはとても考えられなかった。侍女たちは大わらわでもてなしの準備をし、顔を強ばらせながらお茶を運んでいる。

「ああ、結構結構。お茶だけで十分だ。なに、そう構えることはない。少し話をするだけだからな」

 悠々と畳の上に座っている本人が宥めても、余計に困らせるだけだった。

 何かを思い出した賢優は、兄にこそこそと耳打ちする。無事に助けられた彼は、幸いなことに打ち身以外の大きな怪我はなかった。

「ねぇ、もしかしてあの方がのっぺらぼうの若君?」

 田舎ですら名が知れ渡っている東浪見だったが、その家門には長らく噂されている謎があった。それは嫡子の存在である。

 有力貴族から元服する長子が出てきた頃、東浪見の家でもいつ儀式が行われるだろうかと貴人たちはささやかに期待を向けていた。しかし子がいるはずの家からは全く音沙汰がなく、ついには邸宅に牛車が入ることすらなかったという。その後も誰も長子の顔を見たという者はおらず、いつからか存在そのものを疑われるようになった。そこからのっぺらぼうの若君というあだ名が生まれたのだ。

「たいへん失礼とは存じますが、本当にあの東浪見の継嗣なのでございますか」

「ああ、そうだとも。数年ぶりに俗世の者に会うからな。俺のことを誰も知らないのは承知している」

 阿嵐は懐から短刀を取り出し、当主に見えるように突き出した。

「うちの家紋だ。これならわかるだろう?」

「なんと……」

 当主は今度こそ言葉を失った。微笑を称えたまま阿嵐は話しを続ける。

「それでだな、霊地を求めてそこらを散策しているところに、おどろおどろしい山の気を感じたものだから降りてみると、ちょうど物怪に襲われている彼らを見つけたのだ。それで助けに参ったというわけだ」

「それはそれは……心から感謝申上げます」

「礼はそこにいる俺の側近に言ってくれ。物怪を倒してくれたのはそいつらだからな」

 下座には兄弟の他に阿嵐の従者が並んでいた。一人は黒髪を高く結い上げ、闇に紛れるほど黒い袴を着た、見た目は賢優と歳の近い少年である。もう一人は反対に年老いた姿をしているが、その目付きといい体格といい、仙人めいた寡黙な雰囲気の漂う男だった。士優は彼を見た時から渦巻いていた気持ちを賢優に吐露する。

「おい、あのご老体……」

「あの時のだね」

 兄弟は横目に彼をじろじろと見ていたが、老人は素知らぬ顔で正面を向いていた。

「……あ。おれの方からも、助けていただきありがとうございます」

「うん。無事だったのは日頃の行いが良かったからだろう。今後も身を大事にするのだぞ」

「若君さま、これを」

 当主は侍女に持って来させた両手ほどの包みを、そっと脇から差し出す。

「……気持ちだけ受け取っておこう。それは村のために使っておけ」

 これだけでは足りなかったか、と当主は赤くなった。相手は今をときめく東浪見の長子。辺鄙な田舎の半年分の金子では満足できないということか。

「礼がしたいのであれば別の形で頼みたいのだが」

「は、な、なんでございましょう。私ができることであればなんでもお申し付けください」

 そこで阿嵐の微笑が、一瞬だけ不敵に変わった。

「ところで、あの娘が来てないな。まだ御髪を整えているのか」

 士優はどきりとした。阿嵐が白露を気にかけているのが、なんだか悪い予感がした。当主も同じ気持ちなのか、眉を寄せつつ平静を装う。

「まあ、だいぶ濡れてしまっていたからな。車で急いで届けたから平気だとは思うが……」

 士優の思考がぐるぐると渦巻く。山で会った老人が実は東浪見の従者で、老人は山や巫の存在に言及していた。そして従者とともに今日現れたあの若君。このことをさも偶然であったかのように語っていたが、果たして本当にそうだろうか。

 偶然はひとつ起こるとしても、二つ以上が同時に起こることはありえない。それはもはや偶然と言えるものではなくなる。

 彼の頭の中でおもむろに警鐘がなり始めた。

「終わり次第、こちらに向かわせましょう……」

 そうして阿嵐が村のあれこれを聞いて時間を潰していると、半刻が過ぎた頃に、白露は入室した。

 上品な白に藍を重ねた、一輪挿しのような愛らしい姿である。光沢のある上着は派手すぎず、落ち着いた色合いと相まって小綺麗にまとまり、頭に刺した淡い青の花飾りが、白い顔を華やかにさせた。

「改めて、私からもお礼申し上げます」

 正面に座るなり、白露は深々と頭を下げた。

「もう言葉は禅優殿からいただいている。お前の娘は律儀なのだな」

「恐縮でございます……」

 当主はすっかり萎縮してしまっていた。金子を受け取られなかったとなれば、一体どんな形で見返りを要求してくるのか、気が気でなかったのだ。

「白露と言ったか。君に聞いておきたいことがある」

 阿嵐は僅かに身を乗り出す。

「巫として村を守護しているそうだな。よほど優れた能力を持っているとみた」

「身に余る言葉でございます」

「君のような逸材がこんな狭き場所で一生を過ごすのはあまりにも惜しい。その力を、もっと多くの民のために使う気はないか」

「なんと」

 当主が声を上げるも、すかさず士優が言葉を述べた。

「おそれながら、白露はこの村で代えがたい唯一無二の巫でございます。村の存続は巫がいなくては成り立ちません。それだけは何卒、何卒ご容赦を!」

 必死に訴える様子を阿嵐は涼しげな目で見下ろす。

「たった一人しかいないとは妙だな。この兄弟は兄の方はそこそこの力を感じるが、弟のほうはさっぱりだ。巫というからには特殊な力は女のみに受け継がれる、ということだろう。一代に一人の継承とはなんと儚い」

 物語るように彼は言葉を紡ぐ。言外に手放す訳にはいかない、と強調した士優は、手に汗を握る思いで次の出方を窺った。

「それならば、俺が村を支援してやろうか」

 おずおずと当主が問いかける。

「……と、申しますと」

「この山……いや、この村にこびり付いた穢れの根本となるものを祓い清め、本来の霊地の姿を取り戻すのだ」

 立て続けに阿嵐は言う。

「そのために俺は三日ほどの逗留を希望したい。礼はそれだけで十分だ」

 その場に、彼の言葉を拒否できる者など、いるはずがなかった。

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