三千世界の鵺を殺し、君と蕚で眠りたい。
犬童那々丸
第一章 一
や……こ……むれ……、きながら
……こや……、のね……き……ら
初雪が降ったその日、きんと冷えた空気が何枚も重ねた着物の隙間から入り、身を震わせながら
ぼんやりと陽の光が几帳の間から差し込んでいる。部屋はまだほの暗く日が出て間もない時刻のようだった。
寝返りを打って体を丸めていると、縁側の方から固く軽いものが当たる音がした。まるで歩いているかのような調子に、生き物かと思い、白露は身を起こす。
上の数枚を置いて着物を引きずり、襖を開け、さらに外側にある戸をそっと開く。顔を半分覗かせてみたが、動物らしき姿はどこにもない。代わりに目の前には真っ白に雪化粧された銀色の庭が広がっていた。
陽光が僅かに雪の表面を溶かし、砕いた宝石のように輝かせている。穢れのない柔らかな雪の上に、最初の足跡をつけられたらどんなにいいことか、とそんなことを想像していると、ぶるりと体がふるえ、限界になって戸を閉めようとした。
その際、低木に咲く椿の花が目に入った。重たげに雪を被った花の、赤と白の対比がなんと美しいこと。うっとりとそれらを眺めていると、重さに耐えかねた一つがぽたり、と地面に落ちてしまった。
それを見届けて、白露は中へ戻った。
この日は特別な恒例行事があった。月に二回の
起きてからしばらくすると、侍女たちがいそいそとあらゆる大きさの箱を持って部屋へ入ってきた。中身は冠や首飾り、鈴や帯紐、そして着物であった。薄い箱から青と白を基調としたそれが丁寧に取り出される。
「さ、白露さま、ご準備を」
冷たい床をひたひたと歩き、屏風の裏に回った。
西の領境の山の麓、大きな滝を中心としたその村は、小高い丘の上の屋敷に住む下級貴族、
白露はそこの三兄妹の末娘である。
おしろいをつけて紅をさし、綺麗に飾り立てられた白露は手を引かれて長い透廊を歩く。
両脇につき、後ろで裾を持つ侍女たちと共に上を目指す。早朝の張り詰めた空気がやはり肌に痛かった。厚く衣を重ねていても冬の寒さには適わない。侍女たちはそれに比べれば薄い装いだというのに、頑なに口を閉ざし、一切私語を吐こうとはしなかった。
舞台へ続く階段を前に、手を引いてくれていた侍女が扇を渡した。
そして全員が一斉に頭を下げる。ここを上がれば儀式が始まる。白露はどこかやるせない気持ちで見上げ、衣擦れの音を鳴らしながら登って行った。
上では楽士たちが楽器を構えて巫を待っている。舞台に雪が舞い込んでいたようだったが、端に寄せて払い落とされている。舞台の下では村人たちが集まり、白露を認めた途端、わっと控えめに歓喜して手のひらを合わせた。
皆が平和のために祈っている。これからやってくるであろう災いと困難から逃れるために。それらを退けられるかどうかは、全て白露の力にかかっていた。彼女一人が、この村の運命を背負っている。なぜなら、物怪という面妖な存在が人間の最大の脅威となっているこの時代、物怪を祓える存在は非常に限られていたからだ。
だからこそ白露は貴重な唯一の巫だった。そんな彼女に向けられた期待は、きっと村人の数以上に多く、祈りよりも重かったことだろう。のしかかる重圧を振り切り、少女は舞台の真ん中へと立った。
笛にそっと息が吹き込まれ、曲は緩やかに奏でられる。片手で軽く振ると扇が開き、長く垂れた紐がしゃらりと揺れた。二、三歩、前へ出る。
祈りに夢中になっていた人々も、はたと顔を上げた。
下に行くにつれて白から青へと変わる衣が、羽をまとっているかのように軽やかに翻る。川の流れを表した銀の刺繍は、動く度にささやかに反射し、輝いて、うねる髪とひとつになっている。白い息が扇の内側で吐かれ、空気に溶ける。回りながら白露は、遠くにそびえ立つ山並みを見た。
雪を被った景色は曇り空に浮かび、澄んでいてとても清らかだった。見た目だけではなく、清浄さにおいてもこれほど綺麗なものはない。対して白露の住むこの山は、穢れのせいで際限なく濁ってしまっている。どれだけ力を込めて舞い、清めていても、時が経てばまた穢れが発生し、物怪がやってくるようになる。祓うから消えるのではなく、穢れが溜まるから物怪が引き寄せられるのだ。
年をまたぐ毎に儀式の間隔は短くなっている。それは、穢れの進行が早まっているのか、山にいる物怪を祓いきれていないのか、己の力が弱いせいなのかわからない。しかし着実に危機が迫っているのは確かだった。これを知っているのは白露のみ。もしかすれば周りもうすうす勘づいているかもしれないが、いち早く察知していた彼女は、それでも手の尽くしようがなく、ただ舞い続けるしかない現状に虚しさを感じているのだった。
どうあがいても、自分の力に頼るしか術はないのだから。
「今朝のお務め、無事果たされましたことお喜び申し上げます」
部屋に戻り、重たい着物や装飾を全て取り払って一息つくと、白湯を運んで来たこずえが深々と頭を下げた。侍女である彼女は屋敷の中で最も白露と年齢が近く、幼い頃からよき話し相手として仕えてくれていた。親しい友人などいなかった白露にとっては、気楽に接することのできる有難い存在だった。
「ありがとう。ねえこずえ、お庭はもう見た?とても綺麗だったの」
「ええ、もちろん見ましたとも。あんなに積もるとは思ってもみませんでした。なので今朝は急いで舞台から雪を落として来たのです。おかげで手が悴んでしまいました」
お喋りなこずえはそれでも元気そうに笑っている。
「白露さまはあの気候の中、見事役目を果たされましたがお身体の具合はいかがですか?」
「私は平気よ。火桶を温めてくれていたし、もう何年もやっているから慣れているの」
白露は庭へと目を向けた。
「少し外を歩いてみようかしら。あの真っ白な地面に足跡をつけたら面白そうじゃない?」
「ええ、せっかくですので出られてはいかがかと。あまり長くいるとお身体に障りますから、少しだけですよ」
「そんなのつまらないわ。落ちた椿を集めて回りたいの」
出るまでにしばらく休んでいると、こずえはかつて父が贈ってくれた外套を用意してくれた。動物の皮で作られた高価な衣だ。山で暮らす下級貴族とは思えない一品である。万が一白露が風邪をひくことのないようにと、三年ほど前、特別に誂えてくれたものだった。
それを着て白露は庭へと出る。分厚く広がっていた雲はだんだんと西に流れていき、青い空が間から少しずつ見えてきていた。雲間の所々から差す淡い光は、薄衣のように美しい。
ふと、視界の端に白い何かが過ぎった。
あれはと目で追ってみると、すぐに木々の後ろに隠れて見えなくなってしまった。大きな鳥だったように思う。それも白く線の細い、鶴のような鳥。
何かの予兆だろうか。白露は胸の内側に久しく感じていなかった心の揺動を覚えた。冬は自分を憂鬱な気分にさせる。ひとつでも良いことが起きてくれれば、そんな気分も少しは晴れるというものだ。
柔らかな雪が、歩く度にぎゅっと音を立てて足跡を残していった。
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