第16話 30年前の遺物は、やはり・・・

「私自身、あの2年間で少しでも変わろう、時代に合った方向に自分自身を持って行こうと努力しましたが、結果は御覧の通りでした。退職後にこそ、あの頃のことが糧となったのは確かですが、あの2年間は、本当に、針のむしろでした」

 山上元保母が、最後の2年間を振り返りつつ、紅茶をすする。


「確かに、ぼくが見ていても、義母はあの2年間、今までになく大変な状況に置かれていることが嫌と言うほどわかりましたよ。救いは、私たち夫婦にとっての子ども、義母にとっては孫たちの成長をじっくり見るようになったことでしょうか。それまでは家族のこともよつ葉園のことも同じようなペースで暮らしてきたようですが、あの頃からでしょうか、「仕事」と「家庭」の本質的な違いを義母が痛烈に意識し始めたのは・・・」

 娘婿もまた、その頃の義母である山上保母の様子を回想しつつ、紅茶を飲む。


 改めて、山上元保母は話し始めた。


・・・ ・・・ ・・・・・・・


 あれは確か昭和58年の秋頃でした。

 職員会議で、私は、ふと、昔のことを述べました。

 よつ葉園では、昭和30年頃、それこそ、大宮さんが大学生の頃でしたけど、年長の子どもに、年少の子らの良きリーダーになって欲しいという視点から、森川園長先生に、「全人会(ぜんじんかい)」というものを作ってみたらどうでしょうかと、私が発案しました。

 休職中でも、復職するときに備えて職員会議の日は来るようにと言われておりました。そんな頃のことです。この恵美がまだ生まれて間もない頃でした。


「ほう、山上先生、それはまたよろしいな。早速、どんな形でその「全人会」とやらを作って運営していくのか、あんたがまず構想をまとめて、次の職員会議で発表なさい。良かったら、さらに全職員で協議して、ぜひ、早期に実現しようではないか。ちょうどあんたは休職中で子育てにも忙しかろうが、幾分よつ葉園から離れた位置におるからこそ見えてくるものも、あるはずじゃ。わしは、あんたのその部分に期待しておるからな」

 森川先生は、そう言って私の提案を受け入れてくれました。

 その会の名前も、結果的に、私の述べたものが採用されました。


 いろいろありましたが、この会は、10年くらい機能しました。

 何か始めてもいつの間にやら有耶無耶、立消えになってしまいがちなよつ葉園のこの手のものにしては、随分長く機能したほうだと思います。

 あの頃の年長の子らは皆、私や児童指導員の唐橋修也先生の意図をうまくくみ取って、本当に、この施設の良きリーダーを務めてくれました。

 その頃の懐かしさのあまり、もう一度、各寮から代表者を募って、全人会を作ってみるというのはどうかと、提案しました。


 ですが、結果は、私にとってはつれないものでした。

 理想に向けて「一生懸命」になる尾沢康男君という児童指導員でさえも、私の提案には一定の理解を示してはくれましたが、この案には消極的でした。

 彼が新卒で就職してきた年に、その「全人会」というのを復活させようとしましたけど、半年経たぬ間に自然消滅してしまったことがありましたから・・・。


「今の中高生の子らは、この施設内の人間関係だけでどうにかなるような時代を生きていません。それが現実です。私個人としては寂しい話だと思いますけれども、実効性のないことに今さら力を入れても仕方ありません。そんなことで時間をとったところで、子どもたちのほうが「うやむや」にして葬るともなく葬るのは、4年前の津島町でのときの様子から見ても、火を見るよりも明らかです」


 男性職員の中では、私の意見にある程度寄り添ってくれていた彼でさえも、こんな回答をよこしてきました。

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