第13話 茶会

 秋の茶会の日がやってきた。当日を迎えるまで、夏帆がどれだけ苦労したかわからない。やらねばならなかったことはお茶のお稽古だけではない。茶室の予約、お茶と茶器の選定、準備、日程調整に、出席者への連絡。多忙につぐ多忙さに加え、中谷さんともどれだけ言い争いになったかわからない。

『だからあれほど抹茶の購入は……』と中谷。

『だから?だからなんです、言い方があるでしょう!』

『その言い方こそパワハラに当たりますけど。もう本当に要領が悪いのだから!こんなんじゃろくな大人になりませんよ!勉強だけできて、仕事はさっぱりなのね!』

 このような押し問答が毎日続き、夏帆の心は疲弊していた。誰か新しい人を雇ったら、とリサにも言われたが、どうやら規定でそれはできないと中谷に説明された。こんな茶会などやめてしまえ、と何度思ったかわからない。


 茶会に招待したのは、各寮の寮長だった。その中でも、白虎寮は渡辺香菜、玄武寮は花森美咲、そして青龍寮は竹内直人であったため、やりとり1つとっても大変気まずかった。書面を書き、サインをして、送付する。その返答を待つ。

 返答が来てからはさらに大変だ。まず書面を開けるのに時間がかかる。何か批判的なことが書かれていることを想像し、胸が苦しくなる。腹を括って、えいっと勢いで開けてみると、案外普通の返答が書かれている。快く参加したいと皆言ってくれていた。


 当日、皆、和服を着て、茶室へ現われた。渡辺は白い着物、花森は黒い着物、そして竹内は青の着物で現われた。

 茶室には、炭で書かれた枯山水の掛け軸がかけられている。庭は和式庭園となっており、風が吹き抜けて気持ちがいい。

 ふるまった菓子は、桔梗を表した練り菓子。その後、なれないながらも習った通りにお茶をふるまった。皆、慣れた手つきで、お茶をいただいていた。一つ一つの作法をこなすたびに、心の深いところに到達をするようで、穏やかになる。皮肉にも久しぶりに一息つける瞬間だった。


「掛川の」と渡辺香菜が言った。「いつも茶会は京より取り寄せていると聞きます。今回は掛川のものですね」

 夏帆は当てられたことに驚いていることをばれまいと必死に平静を装った。

「ええそうです」と夏帆。

「私、出身が掛川なもので」と香菜は言った。「和菓子は桔梗。明智光秀の旗印」

「ご存じですか、明智光秀を」

「ええもちろん。歴史は趣味ですから」

 渡辺香菜はそう言っているが、このところ夏帆が人間界の歴史を調べていたことに気がついていたのだろう。

「それは知りませんでした。彼は……」

「裏切り者、と言われています。でもそれは本当なのか。教科書に書いてある歴史が全てとは限りません」と香菜は言うと不適な笑みを浮かべた。「掛川は山内一豊の領土。2人に共通する点で言えば、奥様を愛し、側室を持たなかったことですね。そして、主君を裏切った」

「山内一豊は、関ヶ原において、家を守るために家康側についたまでのこと」と夏帆。

 鹿おどしの音が鳴り、静寂に包まれた。

「他の国と比べて、日本は不思議だと思います」と夏帆。「陰陽道で人間界の中枢に貢献しながらも、明治維新で人間界を追い出され、今に至っている。でもそれがなければ同時に私たちは存在しなかったかもしれないのですから。このところよく考えていたのです。なぜ、我々魔法界にこれだけ人間界の文化が入っているというのに、人間界は我々の存在をまるで知らないのか。なぜ、明治時代に、政府から排除されたはずの土御門家は、そして竹内春仁は海外政府の要人エリックアーカートと出会えたのか。日本に領域があっさりと作られ、全国の魔法使いが付き従ったのはなぜか。不思議な気がしてなりません。運命的な出会いといえばそうかもしれませんが、まるでよくできた物語のよう」

「物語であるとしたら、伏線は回収されなくてはなりません」と美咲は言った。

 似た言葉をどこかで聞いたことがある、と夏帆は思った。

「ええ、私には知らないことが多すぎる。その謎を全て最後には明かしてもらわないと読者に申し訳ない」と夏帆。

「さて、また何か謎に近づいたということでしょうか」と香菜はもったいぶるなとでも言いたそうに言った。

「この学校に下級悪魔の出入りが確認されました。よってその対策方法を考えました。防御呪文は作成済みです。しかし、あまりに強力で、範囲も広く、私一人の力では為し遂げられません。皆様のお力添えをいただきたいのです」

 夏帆は香菜の目をまっすぐ見て言った。

「ここにおられる方々は皆J.M.C.。皆様の力が必要です。優秀な人の確かな技術が必要な呪文なのです。助けてください」

 夏帆は頭を下げた。各寮長は驚いて顔を見合わせた。

「マランドール様のお願いを断るすべなどございますまい」と直人は言った。

 夏帆は直人を見ると、にこりと笑った。


 茶会が終わると、夏帆はすぐリサに報告に行った。

「ねぇオッケーだって!」

「ね、言ったでしょ」とリサはにこりと笑った。「そんな鬼じゃないって」

「うん、ありがとう。でもたぶん、私が……」

「マランドールだから?だとしても断るものは断るよ。私も嫌ならあなたの願いでも断る」

「そういうものかな」

「そういうものだよ」とリサ。

 夏帆はリサと笑った。


 J.M.C.側と日程調整を済ませ、金曜の夜に執り行われることが決まった。嫌そうな顔をするものは誰もいなかった。

「高橋さんすごいね、これかなり複雑な呪文なのに、かけるのは簡単」と青木。

「リサが手伝ってくれたから」と夏帆は笑った。

「リサ?」

「黒崎リサ、白虎寮の転校生」

「ああ、あの子ね」というと靑木はさげすむ顔をした。

「え、どういうこと?」

「別になんでもない。高橋さん、マランドールになってさらに変わったよね」

「え?」

「よく笑うようになった」

 J.M.C.は約50人が在籍している。各階、各エリアに担当を決め、分散をした。夏帆は直人と共に、彼らがかけた魔法のチェックに回っていた。

「この魔法は高橋さんが考えたの?」と直人は言った。

「うん」と夏帆は思い切って敬語を使わずに話した。直人は特に驚いた様子も、夏帆を批判する様子もなかった。

「特許にしたら?」と直人。

「特許?」

「もしくは論文」

 二人は、4階まで階段を上り続けた。

「論文……」

「できると思うよ。理論と実験で2本はいける。そして、もう一本、論文を書けば、魔術院の卒業資格を得られる。そうしたら魔術師になれる。君はなるべきだ。資格を取ればチャンスが広がる。世の役に立つための手段が増える」

「それリサも言ってた……」

「リサ?黒崎リサ?」

 夏帆はうなずいた。

「仲いいね」と直人は表情1つ変えずに言った。

「私論文を書いたことがない」と夏帆。

「J.M.C.で論文会をやっている。君に見せていなかったけど、地下に実験室があって、そこで新呪文や新薬の合成をしている。君も参加しなよ。あとまだ学生生活が4年はあるだろ。その間に、ゆっくりテーマは決めればいいし、論文1本なんて余裕だよ」

 思ってもいないことだった。ギルド伯爵の家では、時間が足りなかったのか、論文執筆に伯爵が反対し、技術が世に出ることはなかった。チャンスが巡ってきた、と夏帆ははっきりと自覚した。

「1つ、やりたいテーマがずっと……」と夏帆。

「もうあるの?すごいね」

「アングラでは成功していて」

「それはすごい。今すぐにでもやろう。論文にするのは早いほうがいい」

 ギルド伯爵と共に作った、告白錠の無効化薬だ。ただあれは、二人の合作。伯爵の許可なしに世に出して良いものか。ただ伯爵は故人で許可を取るすべもない。それに、今この世に、実験をした記録はどこにも残っていない。未来へ戻る直前、焼失したところをこの目で見たのだ。


 告白錠の無効化薬は世に出すべき技術だ。それが人々を救う。夏帆は自分の中でそう言い訳をした。

「でも1つ条件がある、J.M.C.会員との共同研究にしてくれないか」と直人。

「ええ、もちろん」

 ギルド伯爵のことは忘れ、私一人の成果にしてしまおう。そこまでしてでも世に出すべき薬なのだ。告白錠などと、人の人権を無視した薬を許してはならない。必ずあってしかるべきなのだ。それが倫理観に欠けていたとしても、論文にして、特許にして、実用化することが世のためだ。これが私にチャンスが巡ってきた理由だ。与えられた環境は使い、何者かになることが使命なのだ。

 論文にしたい、という自身の欲を夏帆は心の奥底にしまい込むように、夏帆は言い訳や並べ立てた。

「君はどこまで知っているんだ」と直人は唐突に聞いた。

「どこまでって?」

「僕たちがどうして、あんなことを、つまり殺人をしているのかって知ってる?」

「さぁ」

 本当のところは、新聞記事で亡くなった用心を抽出し、検証を行っていたため、目的の予測はついていた。

「知らなかったんだ、てっきり知っているかと思っていた」と直人は言った。「僕たちは上から言われた指示を実行するだけだ。上とは、OB組織、ひいては、僕の父親だよ。大儀だと思っていた。魔法界のため、日本のため、そうするべきだと思っていた。長年日本魔法界で内戦が起きないのは、僕たちが手を汚してきたからだ、と。けど、最近わかったんだ。父は、竹内家の政敵となりそうな人を狙って殺していたと。大義ではなく、保身だったのだと」

「なぜ、それを私に話すの」

 直人は疲れている、と夏帆は思った。

「部外者だから話せることもあるよ」と直人。

「もしバレたら」

「バレないよ。トップが父親だからだ。警察すべて支柱におさめている。対処のしようがない」直人はため息をついた。直人の表情には疲労の色が見えた。

「あなたはミッションを続けたいの?」

「さあね、僕が今何をしたいのかさっぱりわからない。自分の気持ちがわからないんだ。だから僕は従うまでだよ。いつから始まったかなど知らない。誰も父の暴走を止められない。母親がいてくれたら、そう何度も思ったことがある」

「母親がいるかどうかは関係ない」

「いないこと知っていたのか」

「夏海さんから聞いたことがある」

「あいつがしゃべったのか」直人は面倒そうな顔をした。

「あなたたちどういう仲なの?」

「普通の兄妹さ」と直人は言った。「母親がいなくなってから……」

「だからそれは関係ない。私は両親がいなかったけど、自分で選択をしてきた」

「そうかな。君は自分の道を自分で選べているといえるか」

「少なくとも自分の中で選んでいることにしていればそれでいいでしょ」と夏帆。

「実のところ、僕は父親とうまくいっていないんだ。トップになれ、その気持ちはわかるけど、それが最近度をすぎている。なんでマランドールになれなかったんだ、今年に入ってよく言われるようになったよ。ひどい父親さ」

 私に言わなくても、と夏帆は思った。なんでも心を開く、夜闇と月光の力は偉大だ。

「僕は外交がしたいのに、将来は政治家になれという」

「政治家も外交はできる」

「そうじゃない、駐在がしたいんだよ」

「なんで」

「なんでだろうな、憧れ、かな」と直人は言った。

「早くあなたの代になれば、このミッションは終わる」

「さぁどうかな」

「まさか続けないわよね」

「そうじゃない。夏海が継ぐかもしれなってことさ」

 意外とそのあたり寛容なんだ、と夏帆は感心すらした。女性であり、妹の夏海が家を継ぐチャンスがあるというのだから。

「夏海は父親のお気に入りだからな。夏海とは、母親が違うんだ。ある日、知らない男性が家にやってきて、夏海の存在とその母親が死んだことを告げた。それで父が引き取ったんだ」

「本当にあなたの父は夏海さんびいきなの?」

「僕にはわかる」

「勘違いかもしれない」

「一緒にいるからわかってしまうこともある」

 そう言われると、夏帆は何も言うことができなかった。

「父は、日本魔法魔術学校を中退している。授業がつまらなかったらしい。中退後は、魔術院で政治を学んで、今にいたる。魔術師資格も持っているというのに、この学校を卒業できなかったこと、やめてしまったことを、ずっとコンプレックスに思っているみたいだ」

「なるほどあなたに嫉妬しているわけか。竹内家も色々大変なのね」と夏帆はつぶやいた。

「でもなんであなたに汚れ仕事をやらせるのかしら?もっと違う人に、例えば、美咲とかにやらせればいい」

「夏帆、君は面白いね。違うよ、父親自身もおそらく昔、人を殺したことがあるんだよ。僕を同罪にしたてあげたいんだよ」

「狂っている」

「ああそうだな。麻薬を吸うカップルみたいなもんだ」と直人は言うと、インキュバス避けの魔法がかかっているか念入りにチェックした。

「話は変わるけど、インキュバスって本当にいるの?僕は空想上の生き物だと思っていた」と直人。

「私は今までその名も知らなかった」

「もっともだ。6年でやっと習う。一説ではまだイギリスに残っているとも言われている生物だが、確認はされていない。まさか、日本に潜り込んでいるとは思いもしない。インキュバスって類のことだろう?」

「わかってたんだ」と夏帆は表情1つ変えずに言った。

「いいや、夏帆が、インキュバスが入り込んだと言った。それで察したんだ。それともう一つ聞いて良いかな。君に入れ知恵をしたのは黒崎リサだろう」

「そうだよ」

「なんでわかったかって。インキュバスの存在にイギリスの人なら気づくだろうな、と思ったからだよ」他に理由がある、とでも言いたげな、含みのある言い方を直人はした。

「インキュバスが本当に存在するなら、やつらは強い。僕らの想像の上を行く能力と思考を持つ。夏海みたいなものさ。能力を上手に隠せるが、いつ爆発するかわからない」と直人。

「知っていたの?夏海さんが強いって」

「君も知っていたのか。あれだけ実力を隠し続けているというのに。決闘をしても、わざと負ける。将来がかかった試験もわざと間違える。なんであんなに徹底できるんだ。羨ましいとさえ思うよ」

「ねぇもし、夏海さんが強さを誇示するようになったら、彼女をJ.M.C.に入れるの?」

「制度の都合上僕に選ぶ権利はない。あいつ自身が入りたいと思い、そして、J.M.C.がそれを許せば……」

「会員を選んでいる何かとはなに?」

「気になるだろう。なぜ自分が選ばれなかったのか。でも残念だが今の僕にはわからない。父親の管理下だからね」

 直人と夏帆は魔法をチェックしながら校舎内を移動した。

「1つ言っておくよ。僕は、差別が嫌いだ。ただそれでも、インキュバスだけは別だ。奴らは人をだまし、誘惑し、尊厳を踏みにじることで種族を増やす悪霊だ。なんなら悪意そのものとも言える。本来、ヒトが住むところに潜んでいい生物ではない。そういうやつが現われた。それも発症元ではない日本で。何かが少しずつ狂ってきているんだ」

 その瞬間、風がどっとふいて、校舎全体がなるように揺れた。

「何かが狂っている?」

「気づかない?最近異常気象が続いている」

「それだけ?」と夏帆。

「領域の中なのに、なんで気象が荒れるんだよ」

「考えたこともなかった」と夏帆は行った。「そういえば、花森さんは?」と夏帆。

「体調が優れないみたいだ。申し訳ない。理解してあげてほしい」と直人。

「早く良くなってほしい。本当にそう思っている」と夏帆は言った。「私でさえわかる。去年と何かが違う。覇気がなくて、ロボットみたいで、なんというか、笑顔がない。感情がどこかへ行ってしまったような、ここにないというか」

「そうだな」と直人は言った。「でもずいぶんよくなったほうだよ。意見も言うようになった。心の病気は回復が年単位だ」

「年単位ね」夏帆はつぶやいた。

 3階で渡辺香菜と遭遇した。

「香菜、今度、高橋さんと一緒に共同研究してくれないか」と直人は言った。

「え?」香菜は明らかに嫌そうな顔をした。

「頼むよ。やりたい研究があるんだって」

「どう研究するの?」

「告白錠の無効化薬」と夏帆は言った。

「私はどう、やるか、と聞いたの。必要な材料は?機械は?予算はどうするの?」

「待て待て香菜、突然過ぎるよ。僕もいまさっき、高橋さんに提案したばかりなんだ。高橋さんも準備の時間がほしいだろ。それで、共同研究にすれば、香菜の魔術院卒業資格にも間に合うじゃないかと思ったんだ」

「会長の頼みは断れないしね。でもね、私たち一応、表向きは敵対しているのよ」と香菜は不機嫌に言った。

「敵対する必要ある?」と夏帆。「仲良くしちゃだめ?」

「表向きには仲良くできないよ。君のためでもある。君と懇意なこと、父が知ったら、君殺されるよ」と直人。

「なんでまた」

「組織の人間ではないものが組織内部にいていいことないだろう」

「あなたたちは組織外に友達一人も作っちゃいけないの?」

「……。君、組織への入会を断ったって一般的には思われているからね。それに強すぎる。天敵だよ」

 香菜は直人の顔を怪訝そうに見ていた。二人の様子が夏帆には恐ろしかった。

 

 マランドールの居室にある本棚の裏に隠し扉があることを直人は教えてくれた。その隠し通路を、J.M.C.の実験室へと繋げた。空間をどう切り取りつながるのか、直人は教えてくれなかったが、おそらく竹内家直伝の、何か特別な魔法であることだけはわかった。

 それから夏帆は実験室へよく通うようになった。夏帆は白衣を着て、試薬をはかり取ったり、鍋で煮込んだりしては、実験ノートに書き込んだ。忙しい合間を縫ってでも、通い詰めるほど、夏帆はのめり込んだ。

「あらまた来ているの?」と渡辺香菜は不満そうな顔をした。

「おじゃましています」

「本当に完成するのかしらね、それ。私論文にできないと困るのだけど、卒業に間に合うかしら」

 直人に頼まれ、渡辺香菜を共同研究者にしていた。告白錠の無効化薬は思った以上に苦戦をした。正確なグラムや時間を覚えていないだけではなく、使っていた試薬の製薬会社が当時とは違い、思うようにいかないのだ。また、日本とイギリスでは水の硬度が違う。どれだけ条件を変えても、思うようなものはできなかった。

「困る?」

「ええ、だって私、就職するんですもの。あと半年しか実験できないのよ」

「おめでとうございます。どちらに行かれるのですか?」

「ツジガミ」

 夏帆は驚いた。「箒会社?」

「ええそうよ。そこのエンジニア」

「魔術院卒じゃなくても入社できるんですね……」

「私、面接だけは得意なのよ」と香菜は試薬をるつぼで混ぜながら言った。

「でも魔術院の選択はなかったんですか?これだけ研究好きそうなのに」

「親が、婚期が遅れるからだめって」と香菜は言った。「時に親なしもいいものよ」

 あらごめんなさい、と香菜は付け加えた。

「やっぱだめねぇ」るつぼの中で変色した試薬を見て言った。「酸化してるのかな、一度真空状態でやってみるか」

 香菜のテキパキと作業をする姿を夏帆はじっと見つめていた。

「あああ、真空状態も無理、なんでよ。この材料いつ作ったやつなの?」

「先週」

「先週?それが原因かも。りく!」

「はい」

 制服がまだ似つかわない、小さな男の子がやってきた。

「1年の鈴木りくです」

「はじめまして」と夏帆。

「この子ね、チームⅠ所属なんだけど、美咲から預かって指導しているの。りく、この材料、作り直しておいて」

「はい」

 指導というよりはこき使っているように見えた。

「高橋さん、コーヒーブレイクでもいかが」

 香菜と夏帆は講堂へと向かった。

「立川さんっていたでしょ」と香菜が言った。

「今公安の?」

「そう。あの人も、あの部屋で研究していたのよ」

「でも立川さんって、J.M.C.所属であることを隠していませんでした?」

「客員みたいな形で来ていたから、私もまさか本当に組織の人間だとは思わず、外部者だと思っていたのよねぇ。別に対して能力のある人ではなかったけど、勉強熱心ではあったわ」

 立川は香菜より年上だというのに、ずいぶん上から目線だった。ただ、香菜は明らかに研究者としての素質がある。そうなるのも必然かもしれない。

「立川さん苦手だったのよ。心が読めないの」

「心が読めない?」

「私、人の感情が脳内に流れ込んで来ちゃう障害持っているのよ。だから昔はテストで高得点だった。そういう障害って気がついたのが、12歳くらいの頃」

「それって障害というより能力じゃないですか」と夏帆は言った。それに、どれだけ心が読めても、そこから情報を取捨選択できるのはたやすいことではない。テストで高得点というのも、渡辺香菜が高い能力を持ち合わせているからこそなのではないだろうか。

「それで立川さんなんだけどね、全く読めないの。何も入ってこない。ずっと心を閉じていたの。気になったから睡眠薬飲ませて無理矢理心を読もうとしたのだけど、それでも無理だった。なんか気持ち悪くって。逆に直人は全部心情が読める。イライラするくらいね。直人最強伝説知ってる?幼稚園児の頃、保護魔法を解く呪文を使いこなせたらしいよ」

「保護魔法って、人間の視界を妨げる魔法でさえ、3年になって初めて習いましたよ」

 夏帆は直人の伝説に驚くというより、むしろ引いてさえいた。

「あ、そういえば高橋さん、一応。私は別に良いけれど、あなたがあの部屋に出入りしてるのよく思ってない人もいるのよ。このままじゃつらくなるのはあんたなんだから、さっさと成果出して、論文書いちゃってね」


 講堂に二人はついた。

「夏帆どこにいたの!」とリサが話しかけてきた。

「ああ、ちょっとね。えっと、友人の黒崎リサさんです。こちらは、J.M.C.で白虎寮長の渡辺香菜さん」

「はじめまして」リサは握手を求めた。香菜はおどおどと握手を返した。

「一緒にコーヒーでも」

 香菜は夏帆とリサに席に座るよう促した。席に座ると、夏帆にはコーヒーが、リサの前にはラプサンスーチョンが、香菜の前にはイングリッシュブレックファストが出てきた。

「これどうなってるんですか」と夏帆は言った。

「あら知らないの?土曜の3時だけコーヒータイムなのよ」

「でも、全員出てきた物が違う」

「その時一番飲みたいものが出てくるのよ」

「どういう仕組みで……」

「調べたらどうかしら?」と香菜はイライラしながら紅茶を飲んだ。「出てくるわよ。図書館で。それくらいどこの国の人もやると思うけどね。そんなんじゃこれからの社会に出てから仕事が勤まらないわよ。仕事におけるターゲットはロビン・ウッドかもしれない。そんなんじゃ勝てないわよ」

「なんですって!」と立ち上がったのはリサだった。我に返ってリサは座った。

「言っている意味が理解しかねますが、そんなプレッシャーをかけないで」とリサ。

「ああ、これはね……」

 夏帆が言いかけたのを阻止するように、香菜は表情を変えて立ち上がって、怒って去って行った。

「ありがとうね、リサ」

「なんであんなやつと仲良くしているのよ」

「仲良くはしていないよ。関わらざるを得ないだけ。実は今論文を書こうとしているの」

 リサは一瞬黙り込んだ。

「論文…………魔術院の卒業資格のため?」

「そう、卒業資格を得ようと思って。リサが提案してくれたおかげよ。本当にありがとう」と夏帆はリサに笑顔を向けた。


「マランドールなんてだれにでもできる仕事よ」


 唐突に、後ろから聞こえてきた。佐々木が友人らと話している。「たいした資産ももってない人がねぇ。うちは高所得者だけど」


え、私?獣医かなぁ。親は獣医なるくらいなら医者の方が給料いいから医者にしろっていうんだけどねぇ。

授業中資料読んでて見せびらかしているみたい。

 この間青木にせがまれて、親の職場まで行ってきたんだよね。え?熱田の動物研究所だよ。


 

 友人らとの話がはずんでいるのか、断片的に嫌でも話が入ってきた。リサが文句を言いに行こうとするのを夏帆は制した。2人は佐々木に気づかれないよう、そっと食堂を出た。

「なんで聞かれていないと思っているんだろう」と夏帆は言った。「私がJ.M.C.ではないから聞かれてもいいやって思われている?」

「普段はこの食堂にいないからだよ」とリサは言った。

「みんな私のこと何か言っているんでしょ」と夏帆。

「わからない。私、人の話聞かない。みんなお茶菓子がほしいんだよ。でもね、夏帆。これだけは言える」

 リサは立ち止まると、じっと夏帆を見つめて言った。


私はいつでもあなたの味方だよ

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