ポリモルフィスム
山船
エピソードタイトルなし
さて、本日は2月の14日、言うまでもなくクラス中の男たちが普段を顧みることなく勝手にそわそわしまくる一年に一度の日、バレンタイン・デーである。そんな日に机の中に、いまチョコと手紙が入れられているのを認めたら、一般にそこから読み取るべきところはひとつだけになるはずだ。……それが、ひと目で義理だと分かるチョコ、でさえなければ。
手紙には差出人の名は無かった。開いてみれば、飾り気のない字で「放課後、6時間目が終わってから2号館裏で待つ。30分以内に来ることを望む」とだけ。お世辞であれば綺麗だと言えるぐらいの、このきっぱりとした筆跡に心当たりはなかった。やっかまれるのも嫌だったので、まあ行けば分かるだろう、と思ってその時はそれで閉じてしまった。
そして今、俺は2号館裏に一歩踏み入れたところで動けなくなっているのだった。今の視界に映っている人間は、彼女ただ一人だけ。彼女は壁により掛かりながら手に持っていた文庫本に栞を挟み、首だけこちらに回して、俺は目を合わせられている、そういう風に思わざるを得なかった。たっぷり5秒くらいだろうか、彼女の目線で磔にされた後、彼女が顔を正面に戻したのでやっと解放された。
彼女のことは知っている。話したことはないが、同じクラスのある意味有名人だ。単純に目鼻立ちが整っていて美人だし、腰まで届くかという黒髪もあるし、おそらく頭も良いのだろう、才色兼備が服を着て歩いているようなものだと思っていた。それなのに浮いた話のひとつもない、と島谷――俺の親友だ――が愚痴をこぼしていたことを覚えている。
しかし、名前は忘れてしまった。なんと言ったか。島谷が言っていないはずはない。記憶を辿れば――
「いつまでそんなに遠くに突っ立ってるのさ。近づいてくれないと話しづらいでしょうが」
記憶探究の旅は彼女の声で中断された。何か、彼女以外が入ればたちどころに粉砕されてしまうような空間に足を踏み入れる気がして、恐る恐る一歩を前に出し、するとその空間は足が前に出るに従って縮むような感じがしたので、数歩ぐらいは前に出ることができた。彼女まではまだ間合いがあったが、残りはしびれを切らした彼女が詰めてくれた。幸いなことに、自分の体はまだ健在だった。
「もう挨拶はいいね、江草くん。単刀直入に言うよ」
初めて聞いた彼女の声からは、想像していたものよりもずっと活発な印象を受けた。しかし、その後味を噛みしめる時間はなかった。
「私の生徒会長選挙を支援してほしい」
「……えと、なんで俺に? というか……」
「中学の時にも出馬したんだけど、そのときにはボロ負けしちゃったからね。根回しが必要だって痛感したよ」
「……なんで生徒会長に?」
「おや、そんなの簡単だろう。権力が欲しいからに決まってるじゃないか」
彼女はきっぱりと言い切った。これ以上の回答は持ち合わせないとばかりにこちらを見ている。……もしかして、あのチョコ1個で俺を買収しようっていうつもりなのか?
何秒かの空白があった。今度はこちらのほうが耐えきれずに声を出した。
「……拒否権、とか、そういうものは」
「あなたにもあるにはあるね。ただし……今日の日付、当然知ってるよね?」
「……2月14日だね」
「そう、バレンタイン・デー。かこつけて告白だとか恋人がどうのだとかをやる日。そんな日に、女子が男子の机の中になにかをごそごそと入れ、放課後には校舎裏に呼び出している。客観的に見れば、相当面白いね?」
「でも、そうじゃないだろ。そうじゃないってことは、俺らが一番わかってるはずだ」
「つまり、私達以外はわかってない」
彼女の勝ち誇ったような笑みは、普段であれば魅力的に映ったことだろうと思う。状況が少々異常でさえなければ。背筋が凍っているときに人を好きになることは難しいと思う。
「もしあなたが拒否すれば、私はあなたにこっぴどく振られたと喧伝する。乙女の純心を無惨に踏みにじった男としてあなたの評判は地に落ちることだろうね。それを踏まえてなら、あなたには拒否権がある」
「……待て、待ってくれ、いくらなんでもそう上手く行くか? 俺が名前を覚えてないぐらいだ、言ったところで大したことないだろ」
「黒瀬だよ。黒瀬翠。それから、女子ってだけでこういうものは肩入れしてもらえるんだよ。知らなかったかい?」
ずるい。しかし、どんなにずるくとも、そもそも今黒瀬さんが言ったことが全部ハッタリだったとしても、もしそれが真実で俺が破滅したら、とても困る。
「……支援って言ったって、何をすれば良いんだ?」
「物わかりが良い人は好きだよ。ま、そこも何も考えてないわけじゃない。とっておきの話がひとつあるから、その話を広めてくれればいい」
「何だ、捨て猫に傘を書けてあげたとか、おばあちゃんを背負って歩道橋を渡ったとかか?」
彼女がけらけらと笑った。逃げたい。なんで俺は何も悪いことをしていないのに弱みを握られているのだろう?
「いつの時代の想像さ、それ。はあ、ふふっ、やっぱり面白い」
「悪かったな、想像力が足りなくて……」
「いや、気にすることは無いよ。何より、正直に言って想像の範囲で当てられちゃつまんないしね。じゃ、そろそろ勿体ぶるのはやめようかな」
彼女は一度天を仰いで、深呼吸かなにかをやってからこちらへ向き直った。
「実は、私はちょっとした時間移動ができる……って言ったらどう思う?」
「中二病だろ」
「まあ、そう言わずに。本当にちょっとしたものなんだ。体ごと時間移動するってわけじゃなくて、ほんの少し先の未来が見えるんだ。過去の方は……まあ、説明が面倒だから今は未来だけにしておこう。じゃんけんをしないかい? 私はちょっと未来が見えるから、じゃんけんが強いんだ」
最初はグー、と彼女が子供みたいに言う。応じて手を構えた。負けた。もう一度。負け。もう一度。負け。負け。えっ? 負け。負け。負け。7連敗したところで彼女の方が手を止めた。
「3の7乗分の1は……27かけ81分の1だからだいたい2000分の1かな。偶然を主張するには厳しい数字だと思うよ。これでも信じないかい?」
「わかった、俺の負けだ。……手伝うよ」
だが、今日はもう関わりあいになりたくなかった。そうかいとだけ満足気に言う彼女を背にして逃げるようにその場を去った。奇跡を見せられてしまってはしょうがない、そういう風に感じていた。
駅に着いた頃になってやっと上着のポケットに突っ込んでおいたチョコのことを思い出して、捨てることも食べてしまうこともできずに、その存在を忘れようと思ってそれはそのまま放置した。
それから約1日が経過した。黒瀬さんはいつも通り、世界に対して我関せずとでも言っているかのような振る舞いをし続けている。放課後になっても結局こちらに話しかけに来ることもなかった。この一日のなかで一度でもこちらを見たかどうかすら怪しい。
「……で、黒瀬さんって何かイメージあるか?」
「そうだね……うーん……顔しか無いや! あっはっは」
「何笑ってんの島谷……って言いたかったけど私も顔だけかなあ」
当の本人が何もしないのであれば、こちらとしてもなにかする義理は無いのではないかと思う。が、それはそうと、雑談の種ぐらいにはできた。
「島谷も赤木さんも特にイメージ無しか……」
「誰に聞いても大体同じだと思うよ? あっ、ちょうどいいところに」
赤木さんの背後を俺の知らない女子グループが通りすがった。それを彼女が捕まえて、黒瀬さんのことを訊いた。
「よく知らないってさ」
彼女らの表情を見れば予期できた答えだった。
「……となると、ほとんど全員が黒瀬さんのことを顔がいいだけのよくわからない人と思ってるのか」
「そうだね。てか江草はなんでそんなこと訊いてんの?」
「あー……まあ、これをね」
椅子にかけっぱなしにしてあった上着から、昨日貰ってそのままにしてあったチョコを取り出した。派手な色合いの文字が包装に浮かんでいて、目に少し優しくなかった。
「島谷は口が軽いからあんまり見せたくなかったんだけどな。昨日これを黒瀬さんに押し付けられて、代わりに選挙協力しろ、って」
「選挙? 生徒会の? ってか、僕はそんなに口が軽いわけじゃないよ、面白そうだと思ったら話すだけで!」
「それを口が軽いって言うんじゃないかな」
「そう。生徒会長に出馬したいらしい。そんで島谷、口の軽さを反省してくれ。赤木さんももっと言ってやってくれ」
「……マジ? 僕ってそんなに風船みたいな口の軽さのイメージなの?」
「そうだね。しかも中身は水素だよ」
赤木さんが容赦なく島谷を責め、島谷がなんかひえ~とか鳴いている。それを見ながら、またチョコを上着のポケットに戻した。そこから話題は移り去り、その日は黒瀬さんのことに戻ってくることはなかった。
そしてまた日が暮れて昇り、授業時間が全て終了した。俺は今、黒瀬さんと机を挟んで座っている。ここは図書室の窓際のテーブル、あまり来ることの無い場所だ。彼女は多分そうでもないのだろう。朝のうちに放課後どこかで会えるかと問うたら、だいたいは図書室にいるさ、と返事を貰っていたのだったそして無事に相まみえることができたというわけだ。。
ここに来た目的は、他でもない、彼女との作戦会議だ。現状を把握し、それを踏まえた作戦を立てる……と言えばなんか頭良さそうに見えるが、その実あまりの現状に怯んでしまって、本人になんとかしろと言いに来ているに等しいのだった。
それで、話し始めるタイミングをもうかれこれ30分ほど測りかねていた。5分に1回ぐらいはそろそろ話し始めようと思って彼女の目を睨んでいるのに、彼女はこちらを一瞥もせずに何かの本を黙々と読み進めている。たまにいくらか前のページを参照しに行っているが、それが話しかけていいタイミングなのかもわからない。どちらにせよ困るのは第一に彼女なのだが、第二にここで拘束されている自分もいる。
「…………………………………………あー、黒瀬さん」
彼女はこちらを一瞥はした。そしてそのまま本に視線を戻した。それからおそらく5分ほど時間が飛んだ。
「…………キリの良いタイミングが来たら、教えてくれな」
「何、用事があるならもっと早く言ってくれれば良かったのに。てっきり私の顔を眺めてたいのかと思ってたよ」
「なわけ。ちょっと確認しておきたいことがあってな」
彼女の返事は無かった。代わりに目線で「とっとと言え」と言われたような気がした。顎ではなく目線で人を使うひともいる。
「黒瀬さんは……あー、なんて言ったらいいか……そうだな、クラスメイトの中で一番話したことがあるひとっていうのは誰か心当たりがあるか?」
「そうだね、隣の……ごめん、名前が出てこないけど、たぶんあの……私から見て右隣の男子には一番挨拶してると思うよ」
「挨拶とか業務連絡はノーカンにしてくれ」
「えー……それだったら君になっちゃうじゃないか」
当たってほしくない予想が当たった。この人間はよっぽどコミュニケーションが嫌いらしい。
「生徒会長になりたくて根回しをしておきたいっていうところまで分かってるのに、なんで常日頃からの積み重ねをやっておかないんだか……」
「いや、それはやってるさ。ちゃんと挨拶だってしてる。授業では真面目に映るよう振る舞っているつもりだし、私からすれば為すべきことはすべて為していると思うよ」
「……ひとつ、重大な見落としがあることを除けば、まあ素晴らしいと思うけどな。俺の経験上、知らない人がどういう人であるかは、大抵その人の友達とか知り合いとかから判断されるんだ」
「……それがどうしたって言うんだい」
「つまりな、友達や知り合いをクラス内に一切持たない黒瀬さんは、意味の分からない気味の悪い人間として扱われるんだ」
見る見るうちに彼女の整った顔の眉間に皺が寄って、「不満」のフェイスマスクがあればこんな顔で売っているだろうという感じの顔になった。逃れようとして開きっぱなしになっている彼女の本に目線をやったが、細かすぎて内容は読めなかった。
「じゃあ江草くんが私の友達ってことにすればいいじゃないか」
「それは無理な相談だ。こういうのはそういう友達関係が周知されて初めて効果を持つ。今やっても焼け石に水ってやつだ」
「……君の言うことが完全に正しいとして、そうであってもクラスの全員に私がどういう人間であるかを説明して周れば、それで解決するんじゃない?」
「だから、それが無理なんだ。俺が必死になって黒瀬さんのことを説明すればするほど、黒瀬さんのこと自体じゃなくて俺が必死になっていることに目が向いていく。そうなればもうおしまいだ」
「というか、そうだ、時間移動。あれこそゴシップのネタに最適だろう、あれの宣伝成果はどんなもんだい?」
目を凝らしても、文字が逆さでは読めたものも読めなかった。
「……まあ、俺だって黒瀬さんのことを邪険にしたいわけじゃないし、応援はしてるんだよ。それじゃ」
引いた椅子の音が彼女の呼び止める声をかき消した、ように思う。
彼女のあの顔は、週末の間ときどき不意に思い出されては消えていく、夢にも出てきてしまった顔だった。週末に3回見る夢のうち2回に出てきた。そしてまた放課後がやってきた。呪いを解くためにもういっそ道連れにしてやる、みたいな気持ちだったと思う。島谷と赤木さんに、黒瀬さんの「時間移動」のことを話してやったのだった。
「どう思う、って言われてもね……僕は信じがたいと思うよ。じゃんけんだって黒瀬さんの動体視力とかがものすごく良いだけの可能性があるわけだし」
「そうか……そうだな、そうだよな。ありがとう、常識の側でいてくれて」
「大変だねえ、江草くんも。ってか、その自称未来視はともかく、過去視の方はどういうやつなの?」
「……訊きに行くか、黒瀬さんに。俺は知らん」
「いや江草が行かなかったら誰が行くのさ。ほら立って立って! 歩く!」
島谷に両腕を持ち上げられて、マリオネットみたいに動かされた。教室の出口までがしょーん、がしょーんと亢進してから、
「……黒瀬さんってもう帰った?」
「残念ながら、まだ図書室にいるだろうね」
一瞬だけ止まった他は、精神の疲れが体を引きずり落とすかのように思えた。
片側3人掛けで両側6人掛けのテーブルに1対3で座りながら、先週のデジャブみたいに彼女と対面した。違う点は、先週と比べて彼女が心なしかうきうきしているあたりだろうか。「時間移動」に興味がある、として島谷と赤木さんを紹介したからだろう。彼女は端に座っていたところを中央に座り直し、わざわざ俺にめちゃめちゃ目を合わせてきていた。
「江草くん、私の未来視についてはもう説明してくれてたんだったよね。それで過去視の方も説明してほしい、と」
「ああ。俺にもそもそも説明を飛ばしていたと思って、それだったら興味ある人を連れてきたほうが早いと思ってな」
「オッケー。それじゃ、説明を始めるね。デジャブって体験したことあるでしょ? この場所に来るのは初めてのはずなのに、強烈な既視感がある、そんな感じ。私の過去視は、それに近い感じがあるんだ。ただし、音でしか分からないことが多い。過去視っていうよりは過去聴かな?
もうちょっと詳しく説明すると、おそらく……おそらくだけど、私がそこにいたかどうかに関わらず、そのある過去の一点の音が頭の中に出てくるんだ。10秒ぐらいの音の繋がり。すぐに私の記憶にあるところのあれだ、と分かるときもあるんだけど、状況から多分私がいることはありえなそうなところの音が出てくることもある。それから、私がどの音か特定できるときには毎回過去だったし、『これ過去視にあったやつだ』ってなったことはないから、私が特定できないものでもおそらく過去のどこかのものだろう、って思ってる感じだね。
テストなんかで悩んでるときに過去視が起こると、その中に解答が潜んでたりしてなかなか便利なんだよね。うるさいときもあるけど、まあまあうまく付き合えてると思うよ」
「……そうか、えっと、過去のどこかの音が聞こえる?」
「うん、そうそう。これと未来視を合わせて、あんまり積極的に役立たせることはできないけど時間移動ができるってわけ」
俺にもわかる。多分島谷と赤木さんにもわかっている。今黒瀬さんが言ったことは、「黒瀬さんの主張する『過去視』は幻聴だ」ということにほかならない。そんなのを広めてしまっては黒瀬さんが狂人扱いされてしまう。
さて、どうやってこの場を穏当に切り抜けて、なんとかして「時間移動」に言及させないように――
「それって……幻聴じゃないか」
「は? 今なんて……?」
「え、だから幻聴――」
「島谷!」
慌てて島谷の口を閉じさせた。このお口ヘリウム男め、連れてくるべきではなかった。首を反対側に回すと赤木さんと目が合う。正面に戻しても黒瀬さんとは目が合わない。彼女はまっすぐテーブルの中央に視線を向けていた。彼女の黒い髪がわななく肩を通ってテーブルまで垂れ下がっていた。そして何度か声の破片を出したあと、おもむろにか細い台詞を吐き出した。
「……江草くんは、どう思ってるのかな、私のコレ」
答えられない。さりとて沈黙も半ば答えだ。それであれば――
「………………幻聴だと、思う」
――ひと思いに刺しきってしまったほうが良いのではないか。
不正解か。
いつもならすっと伸ばしていた彼女の背がすっかり丸まり、文字通りに頭を抱えて彼女の視界はテーブルだけにされていた。小刻みに頭が揺れていて、周期的に鋭い吸気の音が聞こえていた。
「島谷、赤木さん、ごめん。あとは俺一人でもなんとかできる。だから、帰ってほしい」
「でも」
「いいから。帰って」
赤木さんを押し切り、机には黒瀬さんと俺だけが残った。島谷も赤木さんも、俺には巻き込むだけの道理が無い。だから、俺一人でなんとかしなければいけない。
「そんなわけ、そんなわけないじゃないか、いや、違うに決まってるじゃないか、そうに決まってるじゃないか、そうに」
いつの間にか彼女の視線はこちらを劈くようになって、彼女はうわ言のようなことばかり言っていた。彼女がその「時間移動」をいつから信じていたのかはわからない。しかし――
「幻聴だ。黒瀬さん、それは幻聴なんだ」
歪んだ基礎の上に築かれていたとしても、アイデンティティはアイデンティティだ。俺のやっていることは端的に言って人格否定だ。
「来ないで……来ないで! 立ち上がれないほどあたまがぐわんぐわんしてるのに、腕にばっかり力が余ってるんだ、今手の届くところに来たら君を絞め殺してしまう!」
「黒瀬さん、俺の言うことをよく聞いてくれ」
ゆっくりとテーブルを回って彼女の側に向かっていく。彼女の言葉に反して、腕はテーブルに吸い付いたように動かない。
そして、アイデンティティが壊れかけているとき、一番必要なものは――承認だ。
「黒瀬さん、こっちを向いてくれ」
彼女のすぐ横に立った。
「まだ一週間も経ってないから、覚えてるに決まってるよな」
左手に持っていたのは、彼女が手紙と一緒に寄越してくれた、あのひと目で義理だとわかるチョコだった。
「これをぜひとも味わいたいところだが、まさか図書館で開けるわけにもいかない。ああ、黒瀬さんがついてきてくれたなら……あっ」
差し出した右手を、彼女は両腕で掴んでいた。
2号館の裏手に彼女を連れてきた。片手では包装を開けられなかったので一旦手を離してもらった。そして、そのチョコをかじった。いかんせん小さいので3口もあれば食べ切れてしまう。それまでの僅かな時間の間、彼女はこちらを見ていた。
「バレンタイン・デーに女子からチョコを貰ったからには、その気持ちの返事をしなくちゃならんだろ。さて、黒瀬さん、俺は黒瀬さんなら大歓迎だ、って言ったら……どうする?」
「………………まずは、お友達からでお願いします……ぷっ、あっはは!」
「……もう、大丈夫か?」
「……うん、ありがとう。まだちょっと……休みたいかな」
「それなら良かった。……その、それが幻聴だったとしても、黒瀬さんは……小っ恥ずかしいな、俺にとってはすごい人なんだ。だから……」
「……ごめん、今は何も言わないでほしい」
彼女の眉間には深い皺が刻まれ、それでいて口角は三日月のように上がっていた。
それからだいたい一ヶ月が経った。生徒会長選挙の結果、黒瀬さんは立候補者3名中3位での敗北を喫した。それでも中学のときよりはいくらかマシだったらしい。彼女は「やってみるもんだね」とよくわからない感想を残していた。
彼女の幻聴には、よく知らないがあまり良い薬が無いらしい。まあ付き合って行けるだろう、と彼女は言っていた。俺も大丈夫だろうと思っている。本人ではないから、周りからの適当な発言に過ぎないが。
それから、彼女の社交性は見違えるほど上昇した。とはいえもとがゼロのようなものなので見違えるほどと言ってもそこまで親交が多い人になったわけではないが。彼女は、言ってしまえば「普通」に近づいたのだろう。それが本人にとって良いことかどうかは俺には知るすべがない。ただ、彼女はこうも言っていた。
「……無論、ホワイトデーのお返しは期待しても良いんだろう?」
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