石の巨人と少女
金餅
前編
あるところ、小高い山の上に一つの塔があった。
石のレンガで作られた立派な塔だ。
いつ、誰が作ったのかは知られていない。あんまりにも古かったから、誰にもそれは分からなかった。
けれど、とても大きくて立派だったので、実に様々な用途で使われた。
ある時は展望台として、ある時は呪われた姫を閉じ込める檻として。またある時は魔女が住み着き、またある時は貧乏家族の隠れ家になった。処刑代を補完する倉庫となった時もある。
長い間、塔は己の中に住む人間の姿をずっと見守り続けてきた。
またそれだけでなく、麓の町をも見下ろし続けた。
そうしている内、塔の中にある変化が起こっていた。
ずっと使われてきたからか、いつしか魂とも呼ぶべきものが、宿っていたのだ。
仮に喋れたとしたら、自らの願望をこう口にするだろう。
このままずっと、人間を見守り続けたい。
そう、塔は人間のことが大好きだったのだ。
人間に囲まれているのが塔の幸せだった。
しかし人とは移ろいやすい生き物である。
次第に塔の中から人は離れ、町は過疎化していった。
五十年もすれば塔の周りに人はいなくなる。
塔は取り残されたのだ。
そうして一体、何年、何十年時が経ったのだろう。
いくら頑丈とはいえ、手入れもされないせいか、流石の塔もぐらつき始めた。
そこにトドメと言わんばかりに雨が降る。
最初は小雨だったが徐々に雨足は強くなってきた。
同時に風が轟々と吹き荒れ、雷がおどろどろしく雷鳴を響かせる。
これは嵐だ。
塔は嵐に巻き込まれたのだ。
こうなると塔になす術はない。
バリバリ! ビシャーン!!
そして必然ともいうべきか。
一瞬、白い光が世界を焼いたと思うと、一筋の巨大な落雷が塔の頭上目掛けて落ちてきた。
それは神が罪人に降す、裁きの鉄槌のよう。
塔はガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
本当にあっという間の出来事だった。
やがて嵐は数時間して治った。
幸い、山は氾濫を逃れて無事だった。
しかし塔の残骸は惨憺たる有様だ。
石のレンガが散乱し、その立派な姿は見る影もない。
それでも尚、塔の中の意思は生きていた。
強固な意志がそこにあったのだ。
塔は崩れ落ちてこう思っていた。
なんて自分は惨めなのだろう。
何で、どうして、こんな目に。
塔は今までずっと、人間が帰ってくること、それをただひたすら望み、途方もない時間、ここで一人待っていたのである。
だって彼には歩くための足も、喋れる口もないから。
何も出来ないから、塔は我慢するしかなかった。
しかし、その果ての結末がこれである。
きっと人間ならば涙を流した。
悔しい。悔しい。悔しくて、悔しくて、たまらない。
こんな体はもういらない。
自分も皆みたいに、自由に動くための仕組みがあれば良いのに。
だが、希望が叶わないのが現実なのである。
そのまま残骸として、また何年も、何十年も……。
それから変化があったのは、実に百年の歳月を経てからだった。
「……そこに誰かがいるの?」
現れたのは、一人の美しい少女だった。
その整った造形美はまるで人形のよう。
金糸の髪はゆるく流れ、紺碧の瞳は宝石みたいにキラキラとしていた。
そして魔法使いのローブと帽子、それから老木で出来た長い杖を持っている。
少女が近づくと、消えかけていたその意思は、途端に震えた。
一体いつぶりだろう。
人を見るのは。しかも、こちらの存在に気づいている!
(ああ……あああ……あああ……)
意思は声なき声を上げた。
嬉しい。寂しい。ずっと待ち焦がれていた。
そんな切望を込めて。
それに少女は、ゆっくりと頷くのである。
「聞こえているよ。貴方はちゃんとそこにいるんだね」
少女は優しく微笑みかけた。
それだけでもう、心がいっぱいで、更に意思は声を上げる。
少女は杖を振り上げると、言った。
「無垢なる貴方のために、体を授けましょう。動けぬ貴方のために、器を創りましょう。万物は流転し、森羅万象は巡る。今こそ、すべては一つにならん。さあ、この者にどうか救いを――」
すると、なんということだろうか。
霊脈が震え、残骸に力を与える。
何十もの石の瓦礫が宙に浮いた。
それらは生きてるみたいに動いて集まり、その巨大な体を作っていく。
足りない部分は周りの土がいくつか抉れて補強された。
そうして出来上がったのは、石のレンガでできた巨人だ。
崩れ落ちた塔は、巨人に生まれ変わったのである。
「……! ……!」
石の巨人は自らの変貌ぶりに驚愕した。
再構成された体をおっかなびっくり動かしてみる。
それはまったく奇妙な感覚と言わざる得ない。
なんせ思った通りに腕が上がるのも、思った通りに声が出るのも、生まれて初めてなのだ。
すべてが新鮮であり、驚きと楽しさに満ち溢れたものだった。
「どうかな。新しい器は気に入ってくれたかな?」
少女が朗らかに聞いてきた。
石の巨人は感謝を伝えようとした。
しかし上手く喋れなかった。まだ体が出来たばかりで、動かし方がわからなかったのだ。
だから、代わりにぎこちなく頷いた。
少女はそれを見て嬉しそうに笑った。
「良かった。初めてだからとても緊張したの。どうやら何も問題ないみたいね」
「……ナマエ……」
「ん?」
「ナマエハ……?」
石の巨人は不器用に聞いた。
本当は、君は一体何者なんだい、と聞きたかった。
石の巨人は少女の正体を知りたかったのである。
それを察したらしく、少女は少しだけ考える素振りをした後に、こう答えた。
「私は偉大なるお父様から生み出された娘よ。私の存在はそれ以上でも、それ以下でもないの。呼び名なんてものは持っていないわ。だから、名前は貴方の好きなように。どんなものでも私は受け入れるわ」
その返答に石の巨人は驚いた。
何故なら今まで見てきたどんな人間も……それこそ最下層に住む掃き溜めの住民も、名前ぐらいは持っていたからである。
だが、少女はそんなものさえないというのだ。
高そうなローブを着て、杖まで持っているのに。
それは石の巨人にとって、とても寂しいことに思えた。
なので。
「カンナ」
感謝も込めて、自分の一番大切な名前を送ることにした。
「カンナ?」
少女は首を傾げた。
当然、その意味を理解出来ないのだろう。
石の巨人は麓の方を見つめた。
かつて、賑わっていた人間の街の方を。
そこには今や、殆ど何も残ってはいないが、しかし確かに幾つかの痕跡は見て取れる。
「もしかして、ここの街の名前だったの?」
少女はやがてハッとしたように聞いた。
石の巨人は再び肯首。
少女は「そうなのね」と言って、石の巨人のように麓の方をじっと見続けた。
「確かにお父様から、カンナという街の名前を聞いたことがあるわ。昔はとても栄えたところだったとも。……きっとここは、貴方にとってとても大事な場所だったのね。本当に大事な……」
「……」
「そんな名前をもらえるなんて、とても光栄だわ。ありがとう、優しい貴方。こちらからも、何か贈り物をしなくちゃね」
少女は――カンナはそう心から礼を言って、石の巨人の方へ向き直った。
そうして、
「貴方の名前はククルルにしましょう。今日から貴方はククルルよ」
「ククルル……」
石の巨人は自然の流れとして、その単語を口にした。
カンナは言う。
ククルルとは、古代語で、自由な翼という意味なのだと。
石の巨人はそれを気に入った。
何よりククルルとは、とてもポカポカとした心地よい響きだ。
それを呟くだけで、自分がこの世界に認められている気がする。
今この時、何者でもなかったその意思は、名と体を与えられ、個人として初めて確立したのである。
「さあ、ククルル。不自由なこともあると思うけど、まずは体を動かす練習をしましょう。なに、大丈夫よ。私がちゃんと手本になるわ。最初は――」
それからククルルとカンナ、二人は交流を積み重ねた。
どうやらカンナは、居場所を追われてこんなところまで来たらしい。
何もやる事はないからと、小高い山に留まり、根気よくククルルに色々なことを教えた。
おかげでククルルは、一ヶ月と経たず、すぐに動き回れるようになった。
今や人間並に喋れるし、歩くことも出来る。
精密な作業も出来た。おまけに力仕事も大得意だ。
ククルルはそれを活かし、カンナのために小屋を作った。
川原で拾った大きな石、そしていくつか引っこ抜いた巨木を合わせたものである。
カンナは酷く喜んだ。
何度も何度もお礼を言い、ククルルに抱きつくのであった。
こうして何気ない毎日は過ぎていく。
ククルルはカンナと共にあった。
ククルルはカンナの生活を助けた。
基本、カンナは魔術で何でも出来たが、土地勘はからきしだったのだ。
そのため、ククルルがカンナを案内し、何処に何があるのかを伝えた。
それはいつしか、二人で色んな場所を巡るものへと変わった。
彼らは川へ行った。谷にも行った。向こうの山岳地帯に足を運ぶこともあった。
しかし最後には小高い山に必ず戻ってきた。
彼らは知っていたのだ。
自分達が異端であると。
その石の巨躯は人間から見れば紛れもなく怪物であり、また少女も迫害されるだけの事情がある。
身を守るには人間から隠れている方が都合が良かった。
それなのに――ククルルは、どうしても思ってしまうのだ。
(人間に会ってみたい、話しをしてみたい。だって、僕はもう動ける。自分の意思で喋ることが出来るから)
だから、もしかしたら。
ずっとずっと望んでいたことを、叶えられるのではないか。
昔以上に人と繋がり、笑い合うことなんかも出来て。
呪いのように運命に縛られるのではなく、この名前の通りに、自由に生きれるかもしれない。
それに、ここは大切な場所だけど、良い加減同じところにいるのも飽きてきた。
最初は近場に行くだけでも、視点が変わって面白かった。
しかし、次第に行動範囲が広がる内に新鮮味が薄れ、体を動かせる楽しさも相まって、ククルルはもっと遠くへ行ってみたいと思うようになったのだ。
特にカンナが時々話してくれた“海”とか“火山”を見てみたい。
きっとカンナと見るその光景はとても綺麗だ。
カンナといるといつも楽しいから、間違いない。
(ああ、行きたい、見たいなあ)
日に日に思いは強まるばかりだ。
ククルルは思い悩んだ。
長い間、悩んで悩んで……ある時、思いきってカンナにその事を話してみた。
すると案の定、カンナは反対した。
「いけないわ、ククルル。私はともかく、ククルルが危ない。ククルルの体は大きいから……」
「ならば、カンナ。僕の体を小さくすることは出来ないか? 君と同じような小さな体だ。そっちの方が何かと都合が良いことも多いだろう」
「……それも出来ない」
「何故?」
ククルルは問う。
「魂にはそれに見合う器というものがあるの。元々貴方の魂は大きすぎるわ。貴方の体を小さくした途端、貴方の魂は弾けて消えてしまう。これは仕方がないことなの。だから、ククルル。このまま一緒にいましょうよ。今のままでも十分楽しいじゃない。外の行く必要なんか、何処にも――」
「――カンナ。君は僕に、夢を諦めろと言うのか?」
「……」
カンナは黙ってしまった。
それが答えになってしまった。
ククルルは思わず軽蔑した眼差しを向けていた。
それは初めて認めてくれた相手から、否定されてしまったからかもしれない。
普段ならば言わない酷い言葉もポンと飛び出してしまう。
「カンナ、君は無責任だな」
「っ!?」
ショックを受けたようにカンナがビクりとする。
ククルルの怒りは止まらない。
「勝手に助けて、僕に体を持つ喜びを教えて。その上で僕が今までどんな思いをしてきたか知っているくせに、あんまりじゃないのか? ……これならば、僕のことを最初から見捨てていれば良かった。君はどうして、僕にこんな残酷なことをする」
「それは……だって私は……」
いつもは明るいカンナが、この時ばかりは激しく動揺していた。
目を左右に泳がせている。
ククルルはそんなカンナを見下ろし、やがて彼女の元を離れた。
その顔を見たくなかった。
しかし、数日後。
その頃になると良い加減頭も冷めてしまった。
ククルルは勢い任せに言ってしまったことを後悔する。
なんて酷いことをと、頭も抱えた。
大体、カンナの言っていたことは、大方が正論じゃないか。
しかもこれまでの彼女の気持ちも考えなかった。
(カンナは僕と正反対なのに)
……そう。
カンナはククルルと違って、ここにいたがっている。
カンナにとって、この小高い山はやっと見つけた安息の地なのだ。
そしてククルルは唯一無二の理解者であり友達。
カンナにはそれだけがあれば良いのだろう。
きっと、他には何も望んでいない。
何かを掴むことを諦めてしまっている。
それは彼女の異常性に起因している気がした。
ククルルでさえ分かるのだ。
カンナは普通の人間ではない。
半年は一緒にいるが、彼女は一切食事を取らないし、排泄もしない。
髪も爪も伸びない。寝たりはするけれど体力は無尽蔵だ。
他にも違和感は沢山。
そのために迫害を受けてきたのだろう。
ククルルはなんとなくカンナの正体に気づいていた。
彼女が何故ククルルの声を聞き、助けたのかも。
すべてが正しければ、余計にククルルを心配するのも道理に合っている。
「……」
ククルルは空を見上げた。
いつの間にか夜になっていた。
まん丸なお月様に、無数に瞬く星々の煌めき。
なんて綺麗なのだろう。
今、手を伸ばせば届くだろうか。
前はそんなことを思いもしなかった。
『ねえ、ククルル。知ってる?』
カンナの言葉を思い出す。
『あの月は、実はあの星達と同じなんだって。この大地も、虚空に浮かぶ星屑の一つなのよ』
ククルルは驚いた。
嘘だと疑ってしまう。
『それは本当なのか、カンナ。だって大きさも、明るさも、全然違うじゃないか』
『それは見る視点が近過ぎるからよ。遠くから見れば、大してこの大地も月も変わらないわ。お父様がそう言っていた』
魔術は占星にも通じる。
カンナの父は星の研究者でもあった。
『そうなのか。ならば世界とは、本当はとてもちっぽけなものなのかもしれないな』
『ええ。すべては仲間で、一つなの。私達はこの宇宙という揺籠の一部なのよ』
カンナは寂しそうに笑っていた。
きっと彼女は悲しんでいた。
でも宝石みたいな目から涙を流しはしなかった。
『……皆、本当は違いなんて一つもないはずなのに。どうして争い合うのかしら。分かり合える未来なんて、もう……』
ククルルはカンナの失望の声を覚えている。
ククルルは改めて、カンナのこれまでのことを思った。
そして、素直に謝ろうと思った。
ちょっと名残惜しいけど、それでもカンナには感謝しているから。
カンナといたいと思っているのは、ククルルもまた同じなのである。
そうして、カンナの元へ行こうと思った、その時だった。
ククルルは見た。
見てしまった。
遠く、揺らめく炎の群れを。その明かりは煌々とその姿を浮かび上がせていた。
(あれはまさか……)
ククルルはその巨躯のおかげで遠くものがよく見えた。
炎の群の正体は軍隊だった。
おそらく敵地か何かへ向かう途中だろう。
将たる騎士を先頭に、見たこともない国の旗と松明を掲げ、何百もの兵士が馬に跨り、山道を渡っている。
奇跡的にこちらには気づいていないようだ。
ちょうどククルルは隠れるくらいの高い岩肌の側にいる。
おまけに夜だし、一方的にククルルが軍隊を見ている形だ。
(ああ……)
本当はこのままではいけないのだと分かっている。
彼らの進行方向はこの小高い山だ。
早くカンナに知らせなければならない。
だが、ククルルは彼らを凝視し続けていた。
ないはずの心臓が、脈を打っているようだった。
なにせ、こんな大人数を見るのは久方ぶり。
カンナと会った時程じゃないにせよ、焦がれる気持ちに変わりはなく。
元々思い悩んでいたのもあって、ククルルは欲望を抑えられずに動き出した。
当然、どうなるのかは分かり切っていたくせに。
そんなことは綺麗さっぱり忘れて、彼は希望を持って軍に近寄る。
そうして、ズシン、ズシン。
地鳴りが鳴った。
馬が嘶く。軍隊は何事かと立ち止まった。
彼らは恐怖を持ってそれを見上げる。
「な――」
声を失うことを、誰が責められようか。
それは異様な巨体。石の巨人。
ギョロリとした目で徐々に歩み寄ってくる。
こんなものは、伝説の英雄譚でしか見たことがない。
彼らがパニックになるのも無理もなかった。
結果――
「魔法を、弓を、放てええ!」
恐怖で錯乱した将が叫んだ。
ククルルがハッとなって止まる。
(しまった)
そう思っても、もう遅い。
甲冑を着た兵が弓を構えた。魔術師部隊が呪文を唱えた。
次の瞬間、幾多もの矢と魔術の雨が降り注いだ。
それらはすべて一直線にククルルに向かい、炸裂し……はしなかった。
その直前、何か小さなものが空の向こうからやってきて、魔法陣で防いでしまったからだ。
その正体は、言うまでもなく。
「カンナ……」
少女は一瞬、気まずそうな顔で振り返った。
しかし次の人間達の騒めき――「化け物」、「怪物」、「魔術師の人形」。
その言葉で視線を前に戻した。
それは一体誰に向けられたものだろう。
ククルルでさえ胸が抉られるように痛くなった。
カンナはただ慣れているように無表情で、風に金糸の髪を踊ろさせながら、その手に持つ杖を軍に向けた。
幾つもの落雷の矢が落ちた。
上がる人間と馬の悲鳴。
軍の兵達は焼かれ、穿たれ、免れたとしても山道は耐えきれずに崩落する。
彼らは崩れた道の底へと消えていった。
後には何も残らない。
ククルルはカンナの強大な力に、唖然となっていた。
「……何処も怪我はない? ククルル」
やがてカンナが、再びククルルへ振り返った。
カンナは酷く怯えているように見えた。
それでククルルもまた気まずい思いをした。
けれど、彼女はこんな自分を助けてくれた。
感謝を、そして謝罪を伝えなければならない。
「ありがとう、カンナ。そして、すまない。僕のせいで、君にやらせたくないことをしてしまった。随分と酷いことも言ってしまって……」
「いいえ。貴方に何も咎はない。こちらこそ本当に申し訳なかったわ」
カンナは首を振った。
「……それよりも、ここを離れた方が良い。あの旗は大国のものよ」
「大国?」
「大陸を制覇しようとしている、恐るべき国よ。こんな辺鄙なところまで来るなんて……きっとすぐに追っ手がくる」
「ならば逃げないと」
「……そうね。当てはないけど」
そうして、カンナはふわりとククルルの肩に飛び乗った。
ククルルはかつての人間の街の方をじっと見てから……そことは反対の方へ歩き出した。
◆◇◆◇
ククルルとカンナは、とりあえず北西を目指した。
他は大きな人間の街があるからだ。
彼らが行動するのは、人目を避けるためいつだって夜だった。
ククルルの足音が響くのでカンナの魔術で防音しながら歩いた。
その姿も彼女の力で光の屈折を捻じ曲げ、見えないようにした。
しかしどうやったって、その存在を完璧には隠せないのである。
例えば足跡などはくっきり残ったし、通るためにうっかり木々を薙ぎ倒したのもそのままだった。
そのせいでカンナが言った通り追っ手がやってきた。
大半は大国の軍隊である。
聖剣を持つ勇者、賞金稼ぎの冒険者なんてのもいた。
噂を聞きつつけた山賊達も現れた。
しかし、大抵カンナの魔術でどうにかなった。
あるいはククルルの巨体に恐れをなし、逃げていった。
それでもなお、諦め悪く人間はやってくる。
ククルル達とて無敵ではなく、少しづつ傷つきながら、あてもなく彷徨うしかなかった。
だが皮肉にも、その旅の中で様々な光景を見ることが出来た。
己の足で世界を歩むことが出来た。
側にはカンナもいる。
今までよりも全然楽しい。
こんなにも世界がキラキラしているなんて。
けれど、そう思えば思うほど、ククルルの心に穴が広がる。
何故なら、人と繋がる絆こそが、ククルルが一番欲しかったものなのだから。
だから、それを手に入れられない今の現状は、ククルルには苦痛でしかなかった。
望むが一部叶っているので、余計にそう思うのだ。
ククルルの悩みは、更に深くなっていった。
カンナもそれを見て複雑そうな顔だった。
いつしか、互いが互いに気まずい思いをするようになり――やがて、そのまま半年が過ぎると、行く道が途絶えてしまっていた。
ククルル達は海に辿り着いてしまっていたのだ。
迂回するルートは何処にもない。
何処もかしこも大国の手が伸びている。
カンナの魔術でさえ海を渡る方法はない。
一体、彼らは何処へ行けば良いのやら。
「困ったわね……」
カンナは言葉通り、困り果てたように眉根を寄せた。
ククルルも、ああでもない、こうでもないと、考えた。
そうしてふと、感慨深くなった。
こんなことで悩む程、随分と遠いところまで来てしまったんだな、と思って。
(……これが海か)
改めてククルルは前方を見た。
どうやら考えているよりも、海というのはずっとずっと、広いらしい。
ククルルでさえ遠くまで見えない。
すべて塩水で出来ているのもまた不思議な。
虜となるには十分過ぎる光景だ。
ククルルはこの海を見続けたくなった。
どうせ、何処にも行けないのなら、しばらく――
と、そんな時だった。
後ろから何か、気配が近づいてきたのは。
「……!」
カンナが驚き、振り返って身構える。
地面は砂浜ではなく岩礁。
足跡もなく、ククルル達の姿は魔術により隠れている。
それでも痛い目を見てきたククルル達は警戒を怠らない。
そうして、果たしてやってきたのは――まだ十歳前後の子供達だった。
「……」
呆気に取られるククルルとカンナ。
子供達は素潜りをするなど遊び始めた。
どうやらここは彼らの遊び場らしい。実に慣れた様子である。
その服装は露出度の高い原始的な民族衣装。肌は全員が褐色。
大国民ではない。
カンナがぽつりと呟く。
「まさか大国に追いやられた流浪の民の末裔……?」
子供達はキャッキャと遊び続けている。
あまりに無防備で、それが当たり前みたいな顔をしている。
やがて日が傾くと子供達は帰っていった。
しばらくして、その方向へククルル達は進んだ。
彼らは高台に登ってそれを見下ろした。
これまた原始的な村だった。
狩猟採集を基本とする小さな村。
恐らくカンナの言った通り、大国に追いやられた流浪の民、その末裔達が築いたものだろう。
あまりの僻地故に、大国にも忘れ去られ、住民達も代を重ねる毎に平和ボケしたのかもしれない。
数日観察して、そこに住む村民達が酷く温和であることをククルル達は感じ取っていた。
外部との交流も一切ない。
閉じられてるからこその、平和な村だ。
ククルルはその村に、一つの可能性を見出していた。
それは即ち、ここでなら、自分達は受け入れてもらえるのではないかという考え。
外に出てから初めての思いである。
それに、なんとなくだが、その方がカンナにとっても良い気がした。
常々、カンナにも、もっと人を信じてもらいたいとは思っていたのだ。
前はカンナを思って遠慮しようとしていたのだが……しかしククルルは、人を信じなくなった者がどうなるのかも、知っていた。
その末路から言わせてもらうと、このまま現実から逃げていても、どうしようもないのは事実なのだ。
機会が巡ってきた今……カンナが変われるチャンスかもしれない。
ククルルはもう一度、カンナと向き合うことにした。
今度はちゃんと失敗しないように。
そして、ククルルは悩み抜き、言葉を選んだうえで、カンナと話した。
それは一日どころか一週間にも及んだ。
カンナがククルルの提案に拒絶したからだ。
しかしククルルは根気強く、カンナを説得した。
「これは君を思ってのことだ、カンナ。身勝手なことだとは分かっている。だが、僕はこのままで良いはずがないと思うんだ。どうせ僕らの存在も隠せないし、こうなったらこの村と共存するしか道はない」
「けど、ククルル。そう簡単に言っても、現実はそんなに甘くないわよ。今までの人間達の対応を見てきたでしょう? 上手くいきっこないわよ。他の道を考えましょうよ」
カンナは必死な様子で、ククルルを言い任さそうとしていた。
それが悲しくもあり、哀れでもある。
ククルルはちっぽけな彼女へ、その瞳を細めた。
「……カンナ」
「……なあに」
「きっと追っ手はやってこないよ。ここが第二の、君にとっての安息の地になるんじゃないか」
その証明こそが、あの平和な村。
ずっと生き残ってきたということは、よっぽど大国にとって盲点の場所だということだ。
そう簡単には見つからない。
事実、連日来ていた追っ手がぱったり途絶えている。
「そこで、今度こそ君も幸せになって欲しいと僕は思う。それで上手くいかない時は――」
ククルルはそこで、はっきりと言い切った。
「僕が、命をかけて君を守ろう」
カンナが目を見開いた。
ククルルの本気が伝わったようだ。瞳を揺らし、その迷いを映し出す。逡巡した顔で俯く。その胸にはきっと複雑な思いがあるに違いなかった。
けれど、やがて根負けしたように、頷いた。
「分かったわ。もう一度、希望とやらに手を伸ばしてみるわ」
後日である。
いつものように、さあ今日も遊ぼうと意気揚々と海にやってきた子供達。
しかし彼らはそこに着いた途端、びっくり仰天した。
いつの間にか見知らぬ影がいたからだ。
しかもその見知らぬ影は、見たこともない金髪で、ローブを着てて、緊張のあまり固まっている。
そう、何を隠そう、その正体こそは魔術師の少女、カンナである。
彼女はまず、いきなり村に接触するのではなく、異質なものも受け入れやすい純粋な子供達から触れ合うことを選んだのだ。
ちなみにククルルは離れたところにスタンバイしていた。
魔術で姿を隠し、カンナにエールを送っている。
そのエールを受け、少女はコホンと一つ、咳払い。
そして、
「……コ、コンニチハ!!」
と、まるで体が出来上がったばかりのククルルのように、不自然に片言でぎこちない挨拶をした。
当然、子供達は訝しんでいる。
仕舞いには顔を見合わせて、「何、コイツ」
「……」
ガガーン!! とカンナがショックを受けたような顔になった。
ククルルはあちゃー、と思った。
どうもカンナはコミュニケーションが苦手らしい。ククルルは同族だから普通に話せるのだろうが、人間相手だとどうにもならないのだろう。
しかしここはカンナ自身が頑張るしかない。
再び、ククルルはエールを送る。
カンナはギロりとククルルを睨んだ後、もう一度、言った。
「こ、こんにちは」
「ああ、うん。こんにちは。で、お姉ちゃん誰?」
「わ、私は――」
子供の問いかけに、少女は何と答えたら良いか迷っているようだった。
だが、彼女には既に呼び名がある。
石の巨人が授けてくれた、大切な名前が。
それを少女は、初めて個人として他人に名乗った。
「カンナ……」
「カンナ? 不思議で綺麗な名前だね」
「……!」
子供は何処までも純真な存在だった。
だからこそ、その言葉はするりと胸に届く。
カンナは褒められて、満更でもなさそうな笑みを浮かべた。
彼女の顔は綺麗だから、それだけで子供達も虜になるみたいに、目を輝かせた。
「カンナ! せっかくだし遊ぼうよ! 俺様はイアンってんだ!」
「私はジェシ、こっちはスルミナよ」
「僕、エルガ!!」
それぞれが名乗り、子供達はカンナの手を引っ張って駆けていく。
上がるのは無邪気な笑い声。
カンナはそれに振り回され気味だったが、口元は微笑んでいた。
そうして、その日カンナは子供達と一日中遊んだ。
すっかり打ち解けたのか、その後も彼らと交流を積み重ねていった。
やはり、子供から仲良くなるという判断は正しかったようだ。それでも彼女の人間不信を考えると、ある意味奇跡のようなものなのだが。
やがて子供達はカンナの存在を知ってもらおうと、比較的年の近い数人の若者達を引っ張ってきた。朗らかそうな人達だった。
そんな彼らも、子供達ほどではないが、時間をかけずに親しくなる。だが中にはカンナを訝しがるものいて、君は一体何者だと尋ねた。
するとカンナは頃合いとばかりに言った。
「私は異邦の魔術師よ。大国から逃げてきたの」
「大国? それはご先祖様達を迫害したという、あの大国かい? しかし魔術師というのは……?」
「……こういうことよ」
カンナは分かりやすく伝えるために杖を掲げた。
すると静かに大気中の魔力が震えた。
海から巨大な水柱が幾つも立ち上る。そこから幻想的な水の龍が飛び出し空を泳いだと思ったら、今度はぐるりと互いにぶつかり、弾けて大きな虹を創った。
「わあ……」
誰もが目を奪われる。
カンナはその後も次々と魔法で綺麗な光景を見せた。
炎の精霊を踊らせてみたり、草原に花を咲かせてみたり。
それは明らかに超常的な力だったが、警戒心は良い意味で薄れているようだった。
そろそろ良いタイミングだ。
カンナは最後に言った。
「実は皆に隠していたことがもう一つあるの。……村の人達も、一緒に連れてきてくれると嬉しい」
既にカンナの存在は村中に広がっている。
彼女のことをどうするか、大人達でも意見は割れていると聞く。
子供と若者達は顔を見合わせ、こくりと頷くのだった。
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