第2話 死の淵
ジンを連れた黒騎士たちは、クエストのターゲットであるジャイアントベアを見つけるために、魔の森の奥へと進んで行く。
周囲の安全を確認しつつターゲットも探している一行は、ゆっくりと馬を闊歩させているのだが、異様に静かな森に少しずつ不安が募っている状況。
普段ならゴブリンなどの比較的低ランクの魔物が、餌がやってきたと襲ってくるのだが、今日はまだ一匹も現れていない。
経験上こういう場合は、生態系が崩れるほどの異常個体が近くにいる事が多いので、黒騎士たちは皆緊張した面持ち。
しかしたった一人だけ、それらの理由とは全く違う理由で緊張マックスの状態を強いられている者がいた。
「……モネさんは近接戦闘がお得意なのですか?」
「い、いいいいえ…!と、とと得意なんてことはないです!私なんて何もかもまだまだです!」
「そんなことないと思いますが……。謙虚ですね。素晴らしいです」
「ひぇえぁ!そそそそんなっ、ももももったいなきお言葉です!!」
話下手ながらも気を遣って世間話というものをモネに振ってみるジンの一言一言に、びくびく怯えながら即返答していくモネは、体の関節全部に力が入ったガチガチの状態。
男と一緒に仲良く世間話をするなんてありえないこの世界で、今の状態はイレギュラー以外の何物でもない。
そんなモネは、ジンとの会話に神経を集中させつつ、揺れる馬の背の上で、絶対にジンの体に寄り掛かるまいと若干前傾の姿勢を保つ。
が、そんなモネに気づいたジンは、手綱から片手を離し、モネの腹部に腕を回して、そっと自分側に引き寄せた。
「バランス取るの大変でしょうから、どうぞ寄りかかってください」
「いやややややややや、そそそんな私などがっ!!!」
「……?遠慮せずどうぞ?」
「……うぅぅぅ、せんぱぁい……」
未知の体験に半泣きで周りに助けを求めるモネだが、仲間である隊員たちは、サッと目を逸らす。
それもそうだろう。
助けたいのは山々だが、ここにいる全員助ける方法が分からないのだから。
結果、非情な対応を受けたモネは『うぅぅぅ、おかあさぁん……』なんて嘆くことしかできない。
そうして、ジンの悪気のない気遣いでモネが苦しめられること約10分。
魔物との戦闘もなくターゲットも見つからない。
そんな何の変化もない状況が続き、隊員たちの警戒心も少し薄れていく。
その時、今まで呑気な顔でモネと会話をしていたジンの眉がピクッと跳ねた。
彼は、必要以上に危機感を煽らないように気をつけながら、無機質な声を響かせる。
「進行方向左斜め前方2kmほど先からターゲットの反応を確認しました」
突然の警告に隊員たちは驚きを感じながら一気に気を引き締め、ジンが示した方向へ意識を飛ばした。
のだが、部隊長であるレイラを含め、誰一人としてそれらしき反応を確認できない。
「ジン様。ジャイアントベアの鳴き声などが聞こえましたでしょうか?」
ジンの要求により指揮官として先頭にいるレイラは、一度馬を止めジンへ確認を取る。
半信半疑ながら、それを表に出さないよう意識したレイラの問いかけは、隊員たちの疑問を代表するものだった。
が、不思議そうな顔をしたジンは、当たり前のことのように言った。
「ジャイアントベアの呼気が聞こえませんか?今もしているのですが」
「え……こ、呼気ですか?」
「……?はい」
あっけらかんとした回答に戸惑いを見せたのはレイラだけではない。
どれだけ場数を踏んだ戦闘のプロでも、2km先にいる魔物の呼気など聞き取れるはずがないのだ。
それは経験でどうにかできる問題ではなく、人間である以上仕方のない能力の限界というもの。
しかし、ジンの言うことを無下にも出来ないレイラは、ジンに礼を言った後、『総員警戒。進行スピードを上げるわ』と指示を出す。
そして、ジンが示した場所までトップスピードで馬を走らせることにした。
正直その行動は、男であるジンの体裁を保つためのもので、内心『これで行く先に何もいなかったらどうフォローすれば……』と少し心配していた。
が、すぐにそれが杞憂であったことに気づく。
「総員戦闘準備!」
部下たちより先に標的の気配を感知したレイラが、凛とした鋭い声を響かせる。
瞬間、レイラの後に続く隊員たちの目の色が変わり、緊張が高まった。
そして、敵の姿がギリギリ目視できる距離まで来ると、レイラがさっと手を上げ馬を止める。
「標的確認。これより戦闘に入るわ。馬はここで待機させて」
レイラの指示に、声を出さず無言で頷いた面々は、すぐに言われた通り馬から降り、戦闘準備に入る。
それを確認したレイラは、3名の隊員の名を呼んだ。
「あなた達はジン様をお守りして。ジャイアントベアだけではなくその他の敵にも注意するように」
敬礼とともに無言で頷いた3人は、すぐジンの元へ移動し、『命をかけてお守りします』と敬礼をする。
そのやり取りを見守っていたレイラは少し心配そうな表情をしていた。
なぜなら、今までのジンの行動から、自分のせいで部隊の戦力を割いてしまうということに引け目を感じたジンが、護衛を拒否する可能性を否定できなかったからだ。
しかし意外にもすんなり護衛を受け入れたジンは、彼女たちに囲まれながら、黒騎士たちの戦いを見守る体勢を取る。
それを見て、ほっ…と胸を撫で下ろしたレイラは、すぐに意識を戦闘へ向けた。
「これより戦闘を開始するわ。魔導班、光弾で標的の意識を反対側へ」
レイラの指示の下、魔法を得意とする3名の魔導士が、空に手をかざし詠唱を行う。
すると、数秒の静寂の後、花火のような盛大な破裂音を立てながら、空で光の球が弾けた。
突然の爆音に驚いたジャイアントベアは、黒騎士たちの思惑通り、音の鳴った方へ意識を持って行かれる。
必然的にジャイアントベアはこちらに背を向ける形となり、その隙きを狙って、すでに標的の近くまで移動していた近接部隊が背後から奇襲をかけた。
「はっ……!!」
全身へ身体強化をかけ、さらに武器を振るう腕に強化を二重付与させた黒騎士たちの剣が、一斉にジャイアントベアを狙う。
が、事前に練っていた作戦が上手く行ったのはそこまでだった。
「っ……!何だこいつっ……硬い……!」
通常のジャイアントベアは、一撃の破壊力と体の大きさの割に俊敏な動きに気を付け、きちんと連携が取れれば難なく倒せる敵だ。
武器が通らないほど硬い毛皮を持っているという情報は聞いたことがない。
が、現に黒騎士たちの攻撃は、小さな切り傷さえもジャイアントベアに与えられていない。
そんな状況を見てレイラは小さく舌打ちをした。
「……変異種ね。しかもかなり変異が進んでる……」
事前に立てていた作戦では、背後からの強襲で両足と首にダメージを与え、ジャイアントベアの動きを抑える予定だった。
しかし、それが失敗した今、実行中の作戦を続けるのは難しい。
「近接班!標的から距離を取りなさい!!作戦を3番へ変更するわ!」
「「「はい!!」」」
返事をするとともにバックステップで四散する隊員達。
レイラが指示した3番の作戦とは、近接班が標的から一定の距離を取りつつ動き回り、敵の意識を拡散させ、その隙に遠距離から魔法で攻撃するというもの。
しかしレイラはこの時点で、この作戦は上手くいかないと分かっていた。
力自慢の近接班が、身体強化を使っても傷一つ付けられなかったものを、遠距班がどうこうできるわけがない。
が、レイラは敢えてその作戦を命じた。
……放つ魔法を『水魔法』に限定して。
本来、ジャイアントベアの弱点は火。
火・水・風・光・闇・地・聖と7属性ある魔法の中で、水は一番相性が悪い。
が、絶対的信頼をレイラに対して抱いている部下たちは、何の迷いもなく指示通りに水魔法を放った。
貫通力を高めるのであれば、水を氷に変換させることが最適だが、彼女たちが放ったのはただの水の球。
もちろんそれは、ジャイアントベアに当たりはしたものの、ただ毛皮を濡らすことしかできない。
が……。
「光の精霊よ、我が身に宿りて一弾となれ……」
レイラの艷やかな薄い唇から唱えられた言葉に反応し、彼女の右手がバチバチと雷をまとう。
そして、冷たく鋭い目で標的を見据えるレイラは、誰に伝えるでもなく小さく呟いた。
「……『雷砲』」
瞬間、パンっという小気味良い音がレイラの手元から発せられた。
とほぼ同時に、20mほど離れたジャイアントベアの頭に直径10cmほどの風穴が開く。
すぐには何が起きたのか分からず、ただ立ちすくむジャイアントベアだが、徐々に神経が痛みという信号を脳に送り始めたらしい。
突然目を大きく見開き、天を仰いだ。
グルォォォオオオオオオオオオオオ!!!!!
地面が軽く振動するほどの咆哮が辺りに轟く。
猛烈な痛みを感じ、のた打ち回ろうとしたジャイアントベアだが、水魔法で濡れた体に雷魔法を浴びたことで、全身が痺れている様子。
結局、思い通りに体が動かせず、地響きを立てて地面に倒れ込んだ。
「近接班!!上から狙いなさい!」
「「「はい!!」」」
先程は地面と平行方向の攻撃だったが、今は敵が地面に仰向けになっている。
重力と自重を利用し、より貫通力のある攻撃が可能だという意図を持ったレイラの指示に、近接班の3人がタンっと地を蹴った。
器用に空中で体の上下を反転させた彼女たちに合わせて、すかさず魔導班が水魔法を氷に変換し、足場を作る。
そして、再度身体強化をかけた近接班の3人は、重力の力を借り、弾丸のような速さで、地面に向かって加速した。
ズシャ……!!
3人の剣が、同時に生々しい音を響かせジャイアントベアの体に突き刺さる。
しかし、近接班が持つ剣の身幅は4cmほど。
それが3箇所刺さったくらいでは、今回の標的は倒せない。
が、そんなことは承知の上だったようで、ジャイアントベアの体に深々と刺さった剣を握ったまま、近接班の3人が詠唱を行った。
「「「……火の精霊、我が剣伝いて破壊せよ……『爆炎』!!」」」
次の瞬間。
ボゴンッというくぐもった音がジャイアントベアの体内から聞こえた。
と同時に、ジャイアントベアの体にある穴という穴から煙混じりの血が噴き出る。
苦悶の表情で大きく口を開けたジャイアントベアだが、あまりのダメージに咆哮すら上げられず、周りの木々を薙ぎ倒し暴れ狂う。
それを予期していた近接班の隊員は既に距離を取っており、そのままレイラや魔導班がいる場所まで戻った。
「お疲れ様。あとは絶命するのを待つだけね」
レイラからの労いの言葉に、誇らしげな表情で敬礼を返す隊員たち。
皆討伐対象の絶命を確認していないので集中は解いていないが、変異種とは言え体内を炎で焼き尽くされれば生きてなどいられない。
それが分かっているので、黒騎士たちは体の力を抜き、リラックスした状態で対象が絶命するのを待つ。
(何とかなったわね……。後は、討伐証明と素材を取って……。まだ日も高いし今日中に帰れそうね)
この後の流れを頭の中で組み立てていくレイラは、そう言えばという様子で、後方で待機しているジンに視線を向ける。
余裕のない戦闘となってしまったため、彼の安全に全く気を払えていなかったと少し反省するも、きちんと部下3人に囲まれたジンに問題はないようだ。
万事問題なく行ったことに、ほっと胸を撫で下ろしたレイラ。
……の表情が一変した。
「っ……!!?」
常に冷静に場を把握し的確に指示できることを買われているレイラが、パニックになってしまうほどの殺気が辺り一帯を押し潰す。
団員の中には、立っていることもできずうずくまっている者や、あまりの重圧に呼吸すらまともに出来ない者もいた。
レイラでさえ息苦しさと、重力を何倍にもした重圧を感じ、戦意を維持するので精一杯な状態。
そんな彼女は、何とか冷静に今の状況を把握しようと、殺気の中心へ目を向ける。
そこには、絶命寸前だったはずのジャイアントベア"らしきもの"がいた。
「……まさか、この土壇場で……魔獣化したっていうの…!?」
事態を把握したレイラのこめかみから冷や汗が流れる。
レイラの口から発された『魔獣化』とは、死に瀕した魔物が何らかの理由で凶暴化し、知性を失った魔獣となる現象。
まだ詳しいことは解明されていないが、魔獣化した魔物は、巨大化し能力も大きく上昇するため、通常より討伐が困難になる。
それでも、本来魔獣化はE〜C程度の低ランクの魔物に起きる現象のため、Aランクのジャイアントベアが魔獣化する確率は1割にも満たない。
が、それが起こってしまった今、部隊長であるレイラは現実を受け止め、対応しなければいけない。
「総員撤退!!!出来るだけ魔獣から離れなさい!!!!」
ありったけの声量で放たれた命令に、部下たちはよろよろと移動を試みる。
が、経験が浅い隊員は、恐怖に飲まれその場から動けず、荒い息を繰り返すことしかできない。
(まずい……!!魔獣化が完了してあいつがこっちに来たら……)
動くことができない部下を助けたいと思う一方で、果たしてそんな時間があるのかという焦りがレイラの思考を狂わす。
『全滅』
そんな言葉がその場にいる全員の頭に浮かんだ。
その時だった。
「流石にこれは予想外でしたね」
死の淵に立たされているこの場には不釣り合いな、呑気とも言えるほど穏やかな声が、レイラの後ろから聞こえてきた。
その瞬間レイラは、今一番守らなければいけない人は誰かということを思い出す。
「ジン様……!我々が、できるだけ時間を稼ぎます!その隙にお逃げください!」
ジンにそう告げたレイラは自分の不甲斐なさに押し潰されそうだった。
なぜなら今のレイラには、たった一つの選択肢しか選べないのだ。
ジンを守るために、自分を慕い、苦楽を共にしてきた部下たちの命を諦める選択肢しか。
己の無力さを痛感させられ、レイラは拳を握りしめた。
それでも……。
「ジン様……どうか、お逃げください」
今ここで部隊が全滅しようと、騎士団の未来のためにジンだけは守らなければいけない。
例え、今日会ったばかりの何の義理もない人だろうが、男は男だ。
魔獣出現の一報を聞き、後に派遣された国の討伐隊が、黒騎士たちの死体の中にジンの死体を見つけた時、罪を問われるのはレイラたちだけではない。
黒銀の騎士団全体だ。
だからこそレイラは、無力感も不甲斐なさも、怒りも悔しさも悲しみも全部自分の心に押し込んで、この場にいる部下に命じようとした。
『死ぬまで戦いなさい』……と。
そしてレイラの部下たちも待っていた。
自分の信頼する上司が、その命令を下すのを。
グルォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!
丁度、ジャイアントベアの魔獣化が終わった。
完全な魔獣となったその姿は、もはや原型をとどめておらず、2倍ほどに巨大化したその巨体は、禍々しい黒い靄に覆われている。
Aランクの魔獣の討伐には、最低でも100人規模の討伐隊が必要だが、今いる戦闘員は10人にも満たない。
向かい合っているだけで分かる圧倒的な戦力差は、黒騎士たちの頭から『勝利』の二文字を掻き消すには十分で。
それでも、自分の言葉を待つ部下たちに、レイラはこの命令が最後になるという覚悟を持って、言葉を紡ごうとした。
が……それを遮ったのは、優しくレイラの頭に乗せられた、大きな手だった。
「これ、僕が倒してもいいでしょうか」
緊張で強張ったレイラの顔を覗き込むようにして、緩やかに告げられた言葉。
何を言われたか分からないまま、眼前にある彼と目を合わせるレイラは、思考が停止して何も言えない。
それをどう捉えたのか。
ふっ…と優しく微笑んだジンは、レイラたちの元を離れ、スタスタと魔獣の元へ歩いて行く。
レイラと黒騎士たちは、その後ろ姿をただ見送るだけ。
だが、数秒の時間を要して、レイラが我に返った。
「なっ、なりませんジン様!!Aランクの魔獣など一人でどうこうなるものではっ……」
ない、という言葉をレイラが発する前に、ジンの姿がヒュッと消えた。
状況が把握できないレイラは、視界の中でジンの姿を探す。
その時。
グルォアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
突然魔獣が天を仰ぎ、咆哮を上げた。
鼓膜に突き刺さるほどの声量に、思わず黒騎士たちが耳を塞ぐ。
(この雄叫びは何?攻撃前の威嚇?)
混乱するレイラは事態を何とか理解しようと努める。
が、その必要はなかった。
頭など使わなくても、すぐにその場にいる全員が、何が起きたのか理解することになる。
「え……なんか、倒れて行って……」
黒騎士の一人が、ぽつりと漏らした言葉。
その言葉通り、スローモーションのようにゆっくりと、魔獣の巨体が後ろへ倒れて行く。
………下半身を残して。
オブジェのように地面に立っている魔獣の下半身は、真っ直ぐに薙いだ一線で上半身と切り離されていた。
それを呆然と眺める黒騎士達の耳に、魔獣の上半身が地面に叩きつけられたことによる地響きが届く。
と同時に、音もなく、まるで手品でも見せられているように、彼女たちのすぐ前にジンが姿を現した。
一滴の返り血も浴びていない綺麗な姿で黒騎士たちの元へ戻ってきたジンは、微笑みを浮かべたままレイラに右手を差し出した。
「これどうぞ。討伐証明、必要ですよね?」
何がなんだか分からないままジンが差し出したものを受け取ったレイラ。
そんな彼女の手には、赤黒い血液にまみれた、拳大ほどのルビーのような石があった。
「…………魔石…」
魔獣は、心臓を潰そうと肉体を真っ二つにしようと死なない。
唯一倒す方法は、額についている魔石を肉体から切り離すこと。
つまり、自分たちの前に現れたあの魔獣にも魔石はあり、それが今自分の手にあるということは……と、一つ一つ現実を確かめながら状況を把握していくレイラ。
そんな彼女は、数十秒かけて思考をまとめると、ゆっくり顔を上げ、目の前でレイラの様子を見守っている男の顔をまじまじと見つめた。
が、何を言えばいいのか分からず、無言の空間が流れる。
黒騎士たちは、死を回避した安堵を感じるのも忘れ、ただただ呆然と立ち尽くすことしかできない。
そんな中、ただ一人ジンだけが、黒騎士たちの役に立てたと、機嫌良さげに笑っているのだった。
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