赤毛の猫を追いかけて
桐山死貴
赤毛の猫を追いかけて
私は猫を追いかける。くすんだ色の赤い毛色をした一匹の猫を追いかける。
待って。お願い。私を一人にしないで。
叫ぶ。私は叫ぶ。声にならない声で何度も何度も。
猫は先の見えない泥にまみれた暗い洞窟に、やせ細った身をよじらせて入り込んでいった。私は自分のスーツが汚れるのも躊躇わず這いつくばって猫の後を追って洞窟に入っていく。
お願い、行かないで……
私は気づいた時にはこの赤毛の猫を追いかけていた。ほんの数分前から、いや、数十年も前からだったかもしれない。
私はこの猫を知っていた。私が生まれた時から。彼女は私にとって掛け替えの無い存在だった。当たり前のようにいつもそこにいて、これからもそこに居続けるものだと思っていた。
彼女はある日突然、突然私の前から姿を消した。
仕事終わりのくたびれたビジネススーツを着た私は彼女を追いかける。
どこまでもどこまでも。
私は気づいた時には今にも雨が降り出しそうな空色の街の中に一人佇んでいた。
眼前に無機質に立ち並ぶ電柱には住所を示す看板や店の張り紙は無く、住宅沿いに続く水の流れの無い側溝からは仄かに鼻を付くドブの臭いが立ち込めていた。
こんなどこぞやかもわからぬ薄暗い街並みに薄気味悪さと同時に、どこかホッとするような懐かしさを感じ取って自分がいた。
どれくらいその場に立ちすくんでいたかはわからない。
しかし、異様なまでの静寂の中にか細い生命の音を感じ取った。
私はゆっくりと目を閉じるとその生命の発する微かで力強い存在感を発する源を捜した。
その音はか弱い子猫の猫の鳴き声のようなものであった。
その声は左手に聳える築三十年は優に超えていると思われるびたアパートから聞こえてきていた。
私はゆっくりとその古びたアパートに向かって歩き出し、アパートの前で再び足を止めた。
しかし建物名を示す立て札はそこには見当たらずどの部屋にも人が住んでいる様子は感じ取れなかった。
絶え間なく響くか細い鳴き声は建物の二階の方から聞こえてきていた。
私はところどころ錆びついて今にも底が抜けてしまいそうな階段を一段一段、注意深く登っていった。
猫の声は一番突き当りの部屋から聞こえてきていた。
ゆっくりとした足取りで突き当りの部屋の前まで歩いていくと経年劣化で表面がざらついたブラスチックのチャイムのボタンを押し込んだ。
しかし、ボタンが押し戻るカチリという乾いた音がしただけで中からは何の返事もなかった。
私は鍵穴が錆びついたドアノブにそっと手をかけ、ノブをゆっくりと捻ってみた。
鍵はかかっておらず薄っぺらいドアは軋んだ音を立てながら鈍い足取りで手前に開いた。
中には玄関らしい玄関というスペースは無く直ぐに眼中にか細い声を発する生命の正体が飛び込んできた。
やはり子猫だった。
それと同時にむせ返るような生き物の生臭さが鼻腔をを刺激した。
たった今生まれたばかりと見えるその猫は背中を丸めた綺麗な赤毛の母猫の腹に抱きかかえられていた。
目も開いていないその子猫は、羊水と血に塗れて体表は汚れきっていたものの、母猫と同じ綺麗な赤い毛をしていることが見て取れた。
子に付いた自身の体液を無心に舐めとる母猫の必死な様子に生命の美しさを感じ取ると同時に、骨の髄から沸き立つ、鳥肌が立つようなグロテスクな嫌悪感を感じる自分の存在を捉えた。
無心の母の愛を受ける子猫は鳴く事を止めた。
そして玄関ゆっくりと玄関に佇む私の方に首を回すと大きく両目を開いた。
そのこの世に生まれたばかりの生命は、禍々しく渦巻く感情の中で立ちすくむ私の存在を捉えた。
その眼は力強くもどこか、もの哀し気な眼をしていた。
子猫と目が合った瞬間視界の中心がぐにゃりと溶け出し、みるみるうちに私の身体は平衡感覚を失ってしまった。
次に気が付いた時、私はどこかの校舎の中にいた。
教室の一番左後ろの席に座らされていた私は激しい閃光に思わず顔をしかめた。
左脇の窓際から差し込む夕日が目を刺していたのだ。
私は教室内を見渡した。何が私をそう確信させたのかは判らなかったが、ここが高等学校の教室内であるような気がした。
夕日の眩しさに目を背けた私は、不快な紫外線から逃れた先から私を見据えるものの存在をを感じた。その視線は、窓際とは反対の鉄製のスライドドアの方から向けられていた。
冷たいドアの前には赤毛の猫が座ってこちらを見つめていた。
私はこの猫が先ほどの赤毛の子猫であると、また一匹の立派な雌であると本能的に悟った。
一匹の逞しい成猫に成長した彼女は母猫にも見るに劣らぬ美しい毛並みを携えていた。
しかし、栄養状態が悪いのか、どこかやせ細って弱弱しい印象を感じさせた。しかし、彼女の瞳からは、そのひ弱な容姿にからも考えつかぬ見るものを魅了する幽玄さを醸し出していた。
その眼差しからは敵意は感じず、むしろ温かみに似た悲哀な優しさを投げかけているように思えた。
彼女は椅子から首だけこちらに向け硬直する私を見据えた途端、半開きになっていた背後のドアから廊下へ飛び出して行ってしまった。
待って。
ここで私は初めて声が出ないことに気づいた。
どんなに声を出そうとしても言葉は出ず、放とうとした声にならない思いはは身体の中をむず痒く渦巻くだけだった。
私は勢いよく立ち上がり彼女を追って廊下に出た。周囲を見渡すと彼女は薄暗い廊下の端でまたもこちらを見ていた。
廊下に飛び出した私を一瞥すると、また駆け出し、階段を駆け下りていってしまった。
どこへ行くの?
私はパンプスを履いたままとは思えぬような自分でも驚くような速さで階段を駆け下りた。
下の階に駆け下り、踊り場から首を出し長々と続く廊下を見渡したが彼女はいなかった。
私は再び駆け足で階段を下り下の階の廊下を見渡した。
すると、廊下の中腹ほどの位置にある教室に飛び込む彼女の尻尾が見えた。
焦りと階段を駆け下りたせいで高まった鼓動を鎮めるべく、少し早足でと彼女の入っていった教室へ歩き出した。
静まり返った廊下にはカツカツと私の足音だけが木霊していた。
あと少しで彼女のいる教室に辿り着くというところで突然、静寂は破られた。またもや視界がぼやけ始め私の意識は遠のいていった。
またも目を覚ました時、私は明るい繁華街にいた。
色とりどりに光るネオンはさっきの夕日よりも不快に私の瞳孔を縮ませた。
住宅街とは比べ物にならない程きつく不快な側溝の悪臭には吐き気を催した。
私はすぐに周囲を見回し、赤毛の猫を捜した。
……居た。彼女だ。
ネオン街の路地の脇に彼女は佇んでいた。この前よりも毛並みにつやがあり妖艶な立ち姿をしていたが、あの幽玄に澄みわたっていた瞳は心なしか濁って見えた。
彼女はまた私を見据えると目を見開いて走り去っていった。
私は彼女を追いかけた。さっきの黒い猫のような黒い影の塊の人間が街の中を犇めいていたが、私はその人間をかき分け彼女を追いかけ続けた。
なぜ彼女を追いかけなくてはいけないのか。
もっともらしい理由はそこには何一つなかった。
だが、追いかけなくてはいけない。ここで彼女を見失ったら二度と会えなくなってしまうような気がするのだ。
彼女を見つけては見失い見つけてはまた見失うことを何度も繰り返した。またもあの耳を付くような嫌な鳴き声が聞こえる。
苦悶と偽愛に溺れる叫びが。
次に彼女を見つけたのはしばらくたった後の事だった。
私のスーツはぼろぼろに汚れパンプスのヒールは折れてしまっていた。
彼女は半分身が落ちた魚をくわえて街路時をとぼとぼと歩いていた。
そして古びたアパートの二階の角部屋に入っていった。
私も一時の安堵と強い焦燥感に鞭を打たれ重い体を引きずって後を追いかけ半開きのドアをゆっくりと開いた。
私は目を見張った。
そこには母の赤毛の中に黒の斑なぶち模様がある子猫がいたのだ。
赤毛の猫はその子猫に加えて持ってきた小さな魚をを与えた。
母猫の苦心や世の不条理も知らぬまだ小さな哀れな命。
その子猫はどこか愛くるしくも酷く憎らしくも思えた。
その子猫はどこか私に似ているように感じた。
子猫に食事を与えた彼女は再び直ぐにまたネオン街の方に向かって走っていってしまった。
私は無我夢中で彼女を追いかけた。
裏路地の掃きだめ、有刺鉄線の張り巡らされたゴミ捨て場、怒声や鳴き声が飛び交う人ゴミの中。
しかし彼女の姿はどこにもなく悲痛の叫び声が街中に響き渡っていた。
お願い、止めて。苦しい。
排水溝からドス黒い粘液質の液体が吹き出し、私はすぐに醜悪な汚水に飲み込まれた。私の意識は三度途絶えた。
次に目が覚めた時、私は最初のアパートにいた。
初めて来たときよりも寂しく、暗く、ひどく散らかっていた。
台所のシンクにぽたり、ぽたりと落ちる水滴の音のみが私の鼓膜を震わせた。
赤毛の猫は、そこにいた。
年老いた彼女は寂しく窓の外を眺めていた。
そばには誰もいなかった。
黒い猫も子猫の姿も無い。
彼女は一人ぼっちだった。
赤毛の猫は私を一瞥するとまた窓の外を眺めた。
私は震える足でそっと彼女の横に座ると彼女の汚れた背中をそっと撫でた。
彼女の身体はは少し温かかった。
ごめんなさい。
私は大粒の涙を床にぼとぼとと溢した。
私が側にいたら……私がいなかったら……
都市開発が進んでいるのか窓の外には工場から立ち込める見るも有害そうな黒煙が濛濛と立ち込めている。
彼女はもう鳴かなかった。
これからもう二度と鳴かないのかもしれない。
黒煙を見つめるその瞳は完全に濁り切ってしまっていた。
見る見るうちに部屋にも黒煙が立ち込め何も見えなくなってしまい私は意識を失った。
最後に意識が戻ったのは消毒液臭い病室の中だった。
目の前には赤毛の猫はもういなかった。
代わりに目の前にいたのは私の母だった。
部屋で一人で練炭自殺を図ったと病院から連絡を受け、仕事を切り上げて飛び込んできたのを思い出した。
一命はとりとめたものの、今も意識は戻っていない。
よく母は言っていた。生まれ変わったら猫になって気ままにくらしてみたい、と。
私は昏睡状態に陥っている母の手を震える手でそっと包み込んだ。
「ねぇお母さん。ごめんなさい。私が、私がいなかったらもっと自由に生きれたのかな?私っていない方がよかったのかな?」
母は、返事をしなかった。
「一人にしてごめんなさい。行かないで。私を、私を一人にしないで。」
赤毛の猫を追いかけて 桐山死貴 @SHIKI_KIRIYAMA
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