第53話 誘拐
鈍い頭の痛みとつんとしたかび臭い匂いが鼻につく。ぼんやりとした意識の中で目を覚ましたアネットが身じろぎすると、ざらついた感触が頬に触れた。
(ここは……私はどうして――)
疑問を抱くと同時に直前の記憶が蘇って、アネットは大きく目を見開いた。
「起きたかい、お嬢様」
気怠そうな男の声がした方向に顔を上げれば、品定めするような無遠慮な視線を向けられる。面識のない男だが、意識を失う直前に視界に映ったような気がした。
「……身代金目当て、それとも人身売買かしら?」
「さて、どうだろうな」
にやにやとした嫌な笑みを浮かべる男は、案外口が堅いらしい。内心溜息を吐いて身体を少し動かすと両手と両足が縛られているのだと分かった。自力で逃げ出すのは難しいようで自分の迂闊さを悔やんだが、今はこの状況から抜け出すことが先決だと心の奥に押し込める。
「もう一人の子はどうしたの?」
「お友達は別のところだ。他人の心配をしている場合じゃないと思うがな」
アネットは表情を読み取られないよう、俯いてから必死で頭を巡らせる。この男の言うことが正しいならば、アネットだけでなくエミリアも攫われてしまったということだ。
誘拐は成功率が低く、リスクが高い犯罪である。事前の下調べもなしに連れ去ることは難しいし、直前の様子からアネット達を偶々見かけて実行に移したという様子もなかった。
(となると、私は手紙の差出人にまんまと誘導されたことになるわ)
エミリアから受け取った手紙には、ヒロインであるエミリアを連れてきて欲しいという一言と指定された日時と待ち合わせの場所だけ綴られていた。急がないと間に合わないギリギリの時間帯にアネットは焦り、大切なことをいくつか見逃してしまったのだ。
(お姉様に心配を掛けてしまった……)
目下のアネットの後悔はそこに尽きた。もっと自分は慎重な性格だったと思うが、クロエを悪役令嬢なんかにさせまいと思う気持ちが空回りしてしまったのか、結末が分からない不安に注意が疎かになっていたようだ。
意識的に深呼吸を繰り返し、これからしなければならないことを考える。
アネットの命が目的であれば、意識がないうちに殺したほうがリスクは少ないだろう。何らかの情報を得るため、もしくは人質としての価値があるからこそ生かしている可能性はある。
見張りの男から情報をどれくらい引き出せるか分からないが、差出人の目的を確かめることが最優先だ。
「本当にあの子は無事なの?」
エミリアの安否を確かめると、男は面倒くさそうに溜息を吐いた。
「他人のことを気に掛ける余裕なんかねえだろ。貴族のお嬢さんは頭の中もお花畑なんだな」
「気にするわよ。あの子を巻き込んでしまったのは私なんだもの。それにあの子は……」
はっとした表情で口を噤んだアネットに、男の表情が変わった。
「それに、何だ?」
「何でもないわ。あの子以外に意味がないことだもの」
そう言ってアネットは俯き、相手が誘いに乗ってくれるか待った。これが駄目なら別の方法を考えなければならない。
「……変な隠し事をされると面倒だからな。大人しくしていろよ」
幸いなことに男はアネットの思惑通り部屋から出て行った。アネットにエミリアを引き合わせて良いか確認を取るのだろう。
(問題はエミリア様がどの立場にいるのかだけど……)
そう考えてアネットは自嘲の笑みを浮かべた。冷静に考えればエミリアがこの事件の主犯であり、手紙の差出人である転生者である可能性が濃厚なのだ。
クロエへの嫌がらせも含めて、エミリアはただの大人しい令嬢ではない。それなのにアネットは何故かこれまでエミリアを疑う気にはなれなかった。
流石に今回の件はエミリアが関与していなければ難しい状況だったためか、疑念と不信感が湧いた。
アネットへの焦りを煽るためとはいえ、あれだけギリギリの待ち合わせ時間に設定するのはおかしい。エミリアがいつアネットに手紙を渡すか分からないのだから、エミリアが意図的にそのタイミングを選んだのは明白だ。
(そうするとエミリア様の目的は何なのかしら?お姉様を悪役令嬢に仕立て上げようとしているのだから、本当の狙いはリシャール様ではなくセルジュ殿下だということ?)
それがアネットの誘拐とどう繋がるのか見えない以上、あくまでも可能性として考慮しなければならない。
ふうっと息を吐いて、アネットはもぞもぞと身体を捩る。しっかりと固結びで縛られている縄は解けそうになく、動いたところで逆に深く食い込むようでアネットは抵抗を止めた。
そう簡単に逃げ出すことは出来ないだろうと予測していたが、この分ではまともに立ち上がることすら出来そうにない。
何もすることがなくなると浮かんでくるのはここに至るまでの経緯で、よくそんな手に引っかかったものだと頭を打ち付けたくなる。怪我をしている子供がいたと声を上げたのはエミリアで、後を追うために狭い路地裏に走っていったのもエミリアだ。続いたアネットは物陰に潜んでいた男が手にしていた手巾に含まれていた薬品で意識を失い、ここまで運びこまれてしまった。
おかげでここがどの辺りなのか、どれくらい時間が経ってしまったのか確認する術はない。窓がなく日が差し込まないため、恐らく地下であることが察せられるぐらいだ。
何で気づかないのかという自責の念に駆られていたが、それは本当に自分の過失なのだろうかという考えがよぎる。
(そもそもエミリア様に対して、元々良い印象を持っていなかったのにどうして変わったのかしら?たとえ好印象を持っていたとしてもお姉様に嫌がらせをした時点で好感度はマイナスになるはず)
女性に一定の距離を保っていたはずのリシャールが簡単にエミリアに心を許すようになるのだろうか。うがち過ぎかもしれないが、物語の強制力による調整、もしくはエミリア自身には精神に何か作用することができる手段があると仮定していたほうが良いのかもしれない。
アネットの心に不安がよぎったが、一刻も早く帰ってクロエを安心させなければならないと心を引き締めてその時を待った。
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