第51話 天秤
困惑した表情のロバートをセルジュは見るともなしに見ていた。普段は真面目な生徒が2人も授業中に席を立ってしまったのだから、動揺してしまっても無理はない。
(流石に私もそろそろ動いたほうが良いのだろうが――)
どう転ぶか分からない状況で、注目を集めるのも良くない。できれば授業が終わり休憩の間に行動するのが最善だった。アネットを見捨てるつもりはないが、護衛からの連絡がないところまだ差し迫った事態になっていないだろう。
それでも心が急いてしまうのはクロエの表情を見てしまったせいだ。
繕ってはいたものの、不安と恐れがない交ぜになった表情に心が痛む。必要なことだと自分に言い聞かせながらも、彼女の気持ちが伝播したように不安がよぎるのは、人の心が不変ではないことを知っているからだ。
クロエが自分に向けてくれる感情に嘘はない。それでもアネットと天秤を掛ければその重さはアネットに傾くのかもしれない、そう考えた時にこのままでは駄目だと思った。
第二王子妃となれば個人よりも国を優先させなければならないことも多々ある。ルヴィエ侯爵夫人の社交の仕方は、自分にとって心地よい――言い換えれば阿るものばかりを集めた狭い枠組みの社交でしかない。
幸いなことに母である王妃もクロエを気に入っていることから、夏に王宮に滞在していた際にはさり気なく他の夫人と交流を持たせたり、お茶会に招くことで社交の仕方を教えていた。
だが同年代の令嬢ぐらいあしらえないようでは、余計な横槍が入りかねない。
クロエもそれを理解しているからこそ、将来王子妃となった時に必要な人材の確認や情報収集のため積極的にお茶会に参加するようになった。
常に努力を怠らないクロエらしさを誇らしく思うとともに、弱音を吐いてくれないことに僅かな不満を感じていたのだと今なら分かる。
そうして順調に見えたクロエの社交の邪魔をしたのはエミリア・トルイユ子爵だ。
(あの子爵令嬢が余計なことをしなければとは思うが、あれはあれで必要だったと思うしかない)
以前調査した際には問題ないとの報告だったが、リシャールとクロエに接近したことで前回よりも綿密に調べさせたところ、大人しく害のなさそうな子爵令嬢の恐ろしい一面が判明することになったのだ。
その報告を受けて、すぐに排除したい衝動に駆られたが、それが実現することはなかった。
リシャールもクロエもセルジュにとって大切な存在であるが、それだけで傍にいることが許されるわけではない。第二王子に相応しい能力を有していると判断されなければ、今の関係を断たれる可能性もあり得るのだ。
もちろんクロエに危害が加えられるのならば話は別だが、直接的な暴力がない限りは王族として静観し見極めなければならない。
だがそれが言い訳であることは自分が一番知っていた。
クロエにも自分と同じぐらいの気持ちを返して欲しい、そうでなければクロエがいつかアネットのために婚約解消を望むようになるかもしれない、そんな危機感を抱くようになったのはいつからだろうか。
(クロエはどうしたらもっと私に心を傾けてくれるのだろう)
クロエと自分との間にある線引きの違いに気づいていたからこそ、夏季休暇中にクロエが王宮に滞在していた期間、出来るだけ彼女の傍にいて大切に扱い、言葉を惜しまなかったのだが、それでもまだ足りなかったようだ。
『理不尽な目に遭っている妹を守れないのなら、――そのような立場など不要ですわ』
クロエに無断で付けている密偵兼護衛からの報告に、セルジュは天秤が傾く音が聞こえた。
恐れていたことが現実になったのだ。妹を大切に想う気持ちは分からないでもなかったが、例えば自分は兄や従弟のために婚約破棄を受け入れたりはしないだろう。
届かない気持ちがもどかしく、彼女からの好意を得たいと必死な自分を押し殺して、いつものように微笑んでいた。あんな子爵令嬢のせいでクロエの評判を貶められることは不愉快で堪らなかったが、クロエが望んでくれるまで、自分に助けを求めてくれるまでは我慢しようと決めた。
何もかも自力で解決できなくてもいい。自分だけで出来ないことをどうやって解決するのかということは、上に立つ者として必要な能力なのだ。互いに知恵を出し合い助け合う存在でなければ多忙な日々や重責に押しつぶされてしまう。
(どうか私を望んで。助けてと一言告げてくれたなら必ず君を守り抜くから)
心無い言葉に傷ついても気丈な態度を見せながらも、時折揺れる瞳に抱きしめたくなるのを堪えて、祈るような気持ちでセルジュはクロエを待ち続けていた。
授業が終わり急く気持ちに蓋をしながら、ゆっくりと立ち上がれば近くに誰かが立つ気配がした。
「戻ってこられませんでしたわね。ルヴィエ侯爵家はどんな教育をなさっているのでしょうか」
呆れたような口調の中に優越感を潜ませた言葉に感情が波立つ。
(どんな理由があったとしても、私の前で婚約者を非難することが非礼だと思わないのだろうか)
ロザリーを推す声は多いが、これは王子妃の器ではない。アルカン侯爵の政治的手腕は評価するが、それとこれとは別問題だ。優秀な者の子供がそうであるとは限らないし、幼い頃には目立たなかった高慢さは育てられた環境と教育だけでなく、本人の資質でもあるのだろう。
それが高位貴族の在り方だと信じている人間を繊細な対応が求められる公式行事に参加させるわけにはいかないのだ。もちろん政治を行う上で清廉潔白な人間ばかりでは困るが、社交に長けていると言われていてもこの程度で、周囲の人間からもてはやされているだけだろう。
困ったような笑みを浮かべたまま、セルジュは肯定も否定もしなかった。
それなのにロザリーは同意を得られたと思ったのか、クロエへの非難を続けた。
「セルジュ様はご存知ないかもしれませんが、以前からあの方の高慢な振る舞いは目に余るものでしたわ。幼い頃にセルジュ様の婚約者になって、何か勘違いをされてしまったようですの」
耳障りな声と内容に苛立つが、感情と反比例するように眉を下げるだけに留める。困ったような表情を見せていれば、勘の良い人間なら話題そのものを変えるのに、ロザリーは止められないことを良いことに不愉快な言葉を並べる。
クロエが戻ってきたのはそんなタイミングだった。
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