第3話 慟哭 6 ―立ち向かえるのは英雄だけ―

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 ………事は起こった。


 車が男にぶつかるかと思われた瞬間、突然男は走るのを止め、蝿を追い払う様に手を振った。その手振りは力無く、軽く振った様にしか見えなかった。しかし、ガタンッ!!! っと音がして、車が揺れた。男の手振りが車に強い衝撃を与えたんだ。


「うッ!!」


「あッ!!」


 勇気と麗子の体は、横から押された様な強い衝撃に激しく揺れた。だが、二人が衝撃を認識し、何が起こったのかを理解をするその前に、新たな衝撃が二人を襲った。男の手振りは車の軌道を変え、車は林道の脇に設置されたガードレールに正面から衝突してしまったのだ。


「うぅ……」


 ガードレールにぶつかった事で衝撃が緩和されたのか、エアバッグは作動されなかった。その為、麗子はハンドルに頭を強く打ち、何事かを理解する前に気を失ってしまった。


「あぁ……くッ!!!」


 勇気はダッシュボードに頭を強く打った。鋭い痛みが、稲妻の様に勇気の頭に走る。痛みと共にドロッとした血液が額から流れていく。


「クッ……クソッ!!」


 この痛みを感じた時、勇気の脳はやっと現状を理解するまで追い付いた。男の登場からの全ては、あまりにも一瞬の出来事で、勇気が一つを理解する時には既に次の事態が起きていたのだ。

 そして、勇気の脳は現状を理解すると同時に、一つの疑問を浮かべた。『この男は、自分達を待ち伏せしていたのではないか……』と。


 何故そう思ったのか、それは男の視線が勇気に向けられていたからだ。そして、走りながら男は笑っていた。その笑顔は決して気が狂った者の笑顔ではなかった。知性がある事が、笑顔を見ただけでも分かる。『意思を持って、自分に向かって走ってきていた』勇気はそう思った。


 そして、勇気は気付いた。この男が手元のチラシに描かれた似顔絵の男だという事を。


「な……何故、コイツが……」


 意識が朦朧とし、気を失いそうになる。でも、勇気は気力で起き上がった。


「母さん……大丈夫か?」


 勇気は額を濡らす血を拭いながら母に話し掛けた。だが、母からの答えは返ってこない。


「母さん……?」


 真っ赤に染まった視界を拭い去ると、上下する母の肩が見えた。


「母さん……気を失ってしまったのか………でも、良かった……寝ているだけだな。すぐに病院に……」


 勇気はシートベルトを外すと、母の体に手を回した。


 この時勇気は、必死に『今自分が何をするべきか……』その事を考えて動こうとしていた。でも、やはり勇気はまだ混乱状態にいたのだろう。この時の勇気は、麗子の心配だけで男への警戒心を持とうとしていなかった……


「フハハハハハハハッ!! しぶとい奴だな!!」


 そんな勇気の背後から声が聞こえた。


「………ッ!!!」


 麗子の肩を掴んだまま勇気は急いで振り返った。


「……なッ!!!」


 勇気は驚いた。ロックをしてある筈の車の扉が開いていたのだ。

 男の攻撃を受けたせいで車体が故障をしてしまったのか、それともガードレールにぶつかった衝撃のせいでの故障なのか、それとも衝撃を受けた時に勇気と麗子二人の内のどちらかがドアの解錠ボタンを押してしまったのか……原因は分からない。

 だが事実として、勇気が振り返ると、助手席のドアを男がいとも簡単に開き、勇気の腕を掴んだんだ。


「この嫌なにおいはお前のせいか?」


 男は顔をしかめ、勇気の腕を強い力で引いた。


「な、なに……」


 男の力は尋常じゃない。勇気は抵抗する間も無く、車外へ引き摺り出されてしまった。


「フハハッ!!」


 勇気を車外に引き摺り出すと、男は無意識でなのか、それとも敢えての丁寧さなのか、車のドアを片手で閉めた。


 その手で、尻を打つ形で倒れた勇気の胸倉を掴み、男は勇気を無理矢理立ち上がらせる。


「この臭いはお前のせいか? って聞いてんだよ!」


「な……何の事だ!! 離せ……!!」


 男の言っている事は意味が分からなかった。勇気は掴まれた手を離そうと抵抗するが、男の力は強い。英雄の力を持たぬ勇気では、男の力に対抗する事は不可能だった。


「この……俺の大嫌いな臭いの事だよ!」


 男は勇気の顔を引き寄せ、首筋に鼻を近付けると勇気のにおいを嗅いだ。


 男の背は高い。180cmを超える勇気よりも更に5cmは高いだろう。男が首筋に鼻を近付けると、勇気の顔にも男のうなじが近付く。むせ返る様な濃くて甘い香水の匂いが、朦朧とした意識の勇気に吐き気を誘う。


「チッ………」


 舌打ちだ。男は勇気のにおいを嗅いでいたかと思うと、突然胸倉を掴んだ手を離した。


「うっ………!!」


 無力な勇気は、ドンッ!! と再び尻を打った。


「なんだ……お前じゃないのか。微かに臭っていたと思ったんだがな。どちらかと言うとお前……昨日のクソガキみたいな臭いがするなぁ!」


「さっきから、何の事を……うッ!!」


「うっせぇ!!!」


 男はボールを蹴る様に、勇気の顔面を蹴り上げた。


「もうお前には用は無い……寝てろ、コラぁ!!」


 更に男は、背中から倒れた勇気の顔面を思い切り踏みつける。


「う……うぅ……クソ」


 勇気は屈辱を感じた。男にしたいようにやられる無力な自分に。


「フハハハハハッ………………ん? 何だ? ………こっちにもっと濃い臭いがするなぁ。フハハッ!! こりゃ確定だ! 奴等が居る……ハハッ! 居るに違いないぞ!!」


 勝者はいつも敗者には目をくれない。男はもう勇気に興味を無くした様子だ。男はまた"臭い"と意味の分からぬ言葉を吐きながら、勇気達が登ってきた急カーブに向かい始めた。


「待て……待てよ……」


 勇気は不屈にも立ち上がった。足はふらつき、鼻の奥からはつんとした血の臭いがする。それでも勇気は男を追い掛け始める。


 ― この男を……逃がしてはならない……


 勇気はそう考えていた。

 男の力は明らかに常人のそれとは違っていたから。男が《王に選ばれし民》と関係しているかどうかは、まだ知識の乏しい勇気には分からない。だが、男が野放しにして良い存在ではない事は明白だった。


「フハハハハハハハッ!! 間違いない、間違いないぞ!! この臭いはアイツ等の臭いだ!」


 男は高笑いを上げながら、常識外れなスピードで急カーブを駆け降りて行った。


「あの男……やはり普通の人間じゃない……」


 男の走るスピードは車並みだった。そんな男に追い付く事は並みの人間でも無理。ならば、傷付いた体の勇気では確実に不可能だった。


「あの野郎……」


 そんな事は追い掛けている勇気自身が一番分かっていた。けれど、勇気は気力だけで男を追い掛けた。意識は朦朧、視界も霞み、目眩で揺れる。


 急カーブを降りると、男の姿はもう見えなくなってしまっていた。何処に向かえば良いのか……それも分からなくなり、まさに暗中模索。


「フハハハハハハハッ!!」


 遠くから聞こえる男の高笑いだけが目印だ。


「何がそんなに可笑しいんだ……」


 一歩踏み出す度に蹴られた頭を痛みが叩く。でも、勇気は歩むのを止めなかった。痛みに耐えながらも勇気は必死に歩いた。


 そして、


「……?」


 男の声が何処かで止まった。さっきまで遠くに遠くに行っていた声が、勇気が一歩踏み出す度に近くなっていく。


「フハハハハッ!!」


 男はまた笑った。


 加えて、


「やめろっ!!」


「動くな!!」


 別の男の声。複数の。


 男の声を近くに感じてくると、別の男達の声も聞こえてきた。


「この声……」


 勇気は気付いた。この男達の内の一人の声に、『聞き覚えがある……』と。


「あの人だ……」


 それは、さっきのあの若い警官の声だった。その警官の声は、出会った時の合成音声の様な喋りとは違い、感情を爆発させる様に叫んでいた。


「やめろ! 大人しくしろ!!」


 ………と。


「……あの男、わざわざ自分から警官達の所へ向かったのか……」


 男が何処に居るのか、その答えは出た。


「そうか……警官なら……」


 勇気は一瞬『警官なら男の事を任せても大丈夫か……』と思ってしまった。しかし、すぐに勇気は自分自身に首を振る。


「馬鹿か……何を負けようとしてるんだ」


『負ける』それは自分自身にだ。体の痛みが酷くて心が折れそうになっていく自分に、勇気は気力で立ち向かっていたのだ。


「あんなの普通の人間じゃない……警官だって危険なのは変わらない! 俺が逃げる訳にはいかないだろ!」


 まだ力を持たなくても、勇気は『自分は英雄だ』という自負がある。


「奴に立ち向かえるのは……英雄だけだ!!」


 勇気はふらつく体にスイッチを入れる様に、右の手のひらで右の膝を強く叩いた。


「もう少し頑張れ……俺の体……」


 そして、勇気は走り出した。

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