馥郁とした黄昏に貴女を想う独り
よなが
本編
階段を上りきった先の夕焼けに目が眩む。
思わず瞼を閉じた途端に、草の香りが私を惑わせた。それから果実の匂い。林檎や洋梨。それらは皆、屋上にある。
屋上?
ぱっと目を開く。自分で感じたことなのに、納得がいかない。
今の今まで地下一階に構えるカフェに友人といっしょにいて、約束があるからと先に私一人で出てきたところだ。地上一階に足をつけた矢先、屋上庭園の香りが鼻腔をくすぐるというのはおかしい。周囲を見渡してみても、せいぜい電柱の傍に雑草が生えているぐらい。ここには花壇もなければ植木鉢一つなかった。
そういえばカフェの店内には花の絵が飾られていた。花瓶に生けられた何種類かの花。真剣に鑑賞なんてしなかったから、もはや花がどんな色でどんな形をしていたのか、そして背景は描きこまれていたか、それは黒塗りか白塗りだったのかも定かでない。
不意に初夏の風が頬を撫でる。
ここにあるはずのない香りが遅れて記憶を蘇らせる。屋上庭園と結びつく思い出はしかし、庭園などではなく私の部屋であった。
三年前。十六歳の私の部屋。そこには私と二十歳の貴女がいた。
家庭教師の貴女からは英語と数学を主に教わっていた。テストが近くなるとそこに別の教科も加えられた。高校一年生、夏休み明けのテストでへまをした私のために、九月の末に母親が私に相談なしにあてがったのが貴女だった。
最初の顔合わせの日は授業がなく、互いに打ち解けるために使われたのを覚えている。そこで余程気に入らなければ、別の先生に変えてもらえるという話であった。貴女は私の好きなものや興味を持つものから話を振り始めて、学習面において抱えている課題であったり、勉強以外のスクールライフ全般に関しての悩みであったりを聞き出そうともした。
第一印象として私は貴女の見た目が気に入らなかった。
後で貴女自身が話してくれたように、貴女はおろすと胸元まであった長い黒髪を大学生になったのを契機に、肩にかからない程度まで切り、しかも暗めの茶髪に染めていた。寒色系のダークブラウン。貴女が説明してくれたその色はたしかに光の当て具合によっては染めていないふうに見える自然な色合いで、地毛なのだと主張すれば充分に通るものだった。それが貴女によく似合っていたことがかえって私に反感をもたせた。
その髪色と同じトーンに整えられた眉毛と、目尻に沿ってナチュラルに伸びたアイラインもまた、いかにもメイクに慣れた女子大生らしくて気にくわなかった。ベースメイクは透明感を意識していると貴女が後で教えてくれたけれど、私が初日に貴女に見出したのはむしろ不透明感。貴女は地味な私の家庭教師を務めるにはどうにも顔立ちが美人すぎた。そんな貴女の笑顔は完璧で、だからこそ本心が読み取れずに、天邪鬼な私は不安がってしまった。
背丈やスタイルだって私よりも大人びていて、強いて弱点らしきものを挙げるなら胸囲があまり目立たなかったことぐらい。でもそれも、貴女を上品な佇まいにするのに役立ちすらしていたよう思える。ただ、スーツ姿は若さゆえか、そんなにしっくりとはきていなかった。
そして声。貴女は地声が女性にしては低いのをコンプレックスにしていたけれど、それが貴女を家庭教師としてそのまま受け入れる決め手となった。後になって私は貴女のその低い声にも魅了されてしまうのだけれど、その時は貴女の容姿に相応しくないアンバランスな要素だと思えたのが、私を貴女に近づけてくれた。
もしも貴女の声が明るく透き通ったものであったなら、私はもう我慢ができなかっただろう。そこに初日で把握できた貴女自身の性格は関係ない。
――――そうだ、こう思い出してみると貴女の香りは初め感じなかった。存外、シャンプーの香りもほとんどせず、少なくとも記憶のうちでは不思議と無臭の貴女がいる。それが変わったのはいつだろう。
黄昏が次々と記憶を巡らせる。
三、四回目の英語の授業中だったかに、貴女が大学で第二外国語としてフランス語を学んでいるのを知った私は、そんなの勉強して何になるのと否定的なことを口にした。そのときに貴女がしてくれた話を覚えている。貴女はまず言った。「どうにもならないかもしれない」と。それから「でもね、たとえば想像してみて」と微笑んで、続けた。
「異国の少女が初恋も知らないうちに、一度も会ったことのない二十も三十も離れた相手と結婚することになって故郷を離れないといけなくなる。
「私はその子の境遇を知っているわけ?」
「そのとおり。それで何か言わなきゃって思う」
「思わないよ」
「本当に? 杏璃ちゃんならきっと何か言う。だってほら、今日だって授業を始める時に『今日は爪、光らせていないんだ』って鼻で笑ったでしょう?」
貴女にとってはネイルをしていないのが普通で、前のときは女友達にしてもらったのをうっかりそのままで来たのだと弁明していた。シアーピンクに塗って艶を出していただけだったから、特に不快ではなかった。ごてごてとしていたのなら、すぐに元通りにするよう頼んだと思う。できないなら帰ってと。
「それが何。今は関係ないじゃん」
「たしかに。考えてみて。どんな声をその子にかけるか」
「…………あなたは不幸だ、とか?」
「だから私が幸せにしてあげようって、杏璃ちゃんは駆け落ちするわけだ」
「しない」
貴女が私の瞳を無遠慮に覗き込む。私は視線を逸らしたいのにできない。釘付けになる。そうして貴女の唇が動くのを眺める。貴女はいつだってゆったりと話した。その綺麗な歯並びを私は羨んだ。
「とにかく、何かその子に伝えるためにはその子がわかる言葉が必要よね。彼女にとってごくごく簡単な言葉でも、それは杏璃ちゃんにとってはべつの言語でまったく未知の言葉なのだとしたら、どうしようもない。もちろん、身振り手振りで伝えられることはあるかも。少しならね」
「文明の利器もある。スマホを使えば、どうとでもなるんじゃない?」
「ずるっこはなし。スマホは私が没収しておきます。おまけに圏外です」
「スマホがないんじゃ、圏外かどうかは意味ないじゃん」
ようするに貴女は、異国で「不憫」な少女と巡り合うという仮定、いや、空想を通じて私に外国語を学ぶ意義や目的といったものを教えようとした。あるいは、そこまでのつもりはなくて、貴女なりの勉強の合間の息抜きとしての雑談。
貴女は話せば話すほど、ぼろが出るタイプの美人だった。
女子の間でよく交わされる毒にも薬にもならない話というのと貴女がする話はどこか違った。それは大抵の場合、身近とは言えない喩えやテーマが突拍子もなく現れては消えた。意味深長な雰囲気の中でも貴女はけろりとして、唐突に話が終わることも多々あった。教訓のない昔話を延々と読み聞かせられている心地になることも少なくなかった。そういう意味では私がクラスメイトと日常的にしていた当たり障りどころか中身がまるでない話と同じだったかもしれない。
「先生だったら、どう声をかけるの?」
記憶の中の私が問う。それが正当な問いかけだと信じている。
「うーん……。まずは仲良くならないといけない。だからたとえば、その素敵なスカーフは誰かからの贈り物ですかって訊く」
「先生の中では、その女の子にディテールがあるんだ」
私はなるべく皮肉っぽく言った。正直、面食らっていた。スカーフを巻いている? そんなの知らない。いきなりだ。
「当たり前でしょ?」
そんなふうに貴女が真顔で応じるものだから、私はそれ以上何も言えなくなる。貴女にとって、空想の少女が身につけているものを一つ一つイメージするのが当然でも、私にとってはそうじゃない。その違いというのは、どちらかというと不愉快な部類だった。私は不本意ながら勉強に戻る。これが貴女の狙い通りだったとしたら、なかなかにやり手だと思う。
貴女から「アンリ」について聞いたのは、季節が冬を迎える頃だったと記憶している。その頃になると、私は貴女との時間を楽しんでいた。成績も上がり気味であったから、母親の機嫌もよかった。ただ、私が貴女に対して、好感を素直に表に出していたかは別だ。時折、私は敬意を欠くどころか蔑んだ口調で貴女を謗ることがあった。そんなとき貴女はやっぱり余裕のある微笑みを浮かべて、穏やかな調子で私を諭した。諭すといっても、誰もが使うようなありふれた言葉ではなく、貴女なりの言葉であるのが常であったから、それで私は飾らぬ貴女と触れ合えている気がして、怒りやもどかしさを瞬く間に忘れたものだった。
「私が気に入っている画家の名前もアンリなの」
その日、窓の外をぼんやり見やった私が、昼がどんどん短くなっているという単なる事実を声を出して確認ときに貴女はそう口にした。画家と夕闇とに何の繋がりがあるかわからず、私は「へぇ」とだけ返したはずだ。
「フランス語圏ではそう珍しくない男性名。フルネームはアンリ・ル・シダネル。今日ではバラの村として知られるフランスのジェルブロワに、バラが咲き誇る美しい庭を築いて、村にバラの文化を根付かせた新印象派主義の画家なの」
すらすらと。そして、発音の難しい単語を含む英語長文を音読するときよりも何倍も生き生きと。
「その人がなに?」
「彼が好んで描いたのは夕暮れや月明かりに照らされた風景。それらはたとえば印象派のモネやルノワールの作品群と比べると彩度が低い世界だと言えるの。暗い、というのは不適当。あくまでより淡く、微妙な色彩によっておぼろげに浮かぶ光景の表出ね」
「だからなんなの」
「杏璃ちゃんは、絵に興味はない?」
「およそ美術と呼ばれる分野とは縁遠く生きてきたつもり」
「実は私も高校生の時まではそうだった」
貴女が問わず語りしたことには、大学生になって地元からこちらへ引っ越してきた春に、貴女は何気なく休日に美術館を訪れた。本当に美術に一切の関心がない人間にとって何気なく訪れる施設ではないはずだが、よくよく聞いてみるにその近くにあった鉄板焼きのお店が目的であった。貴女は昼下がりに一人で海鮮系のお好み焼きを堪能した後、ふらりと美術館を訪れた。鉄板焼きから美術館というのはどうにも情趣がある巡り方ではないが、気まぐれな貴女には似つかわしく思った。
貴女はそこで前述のアンリの絵に出会う。
「なんかいいなぁって」
そのふわっとした感想に私は閉口してしまったが、貴女はその美術館の来訪をきっかけに所属している文学部内で芸術文化・美術学を専門とするコースへと進むことに決める。
「もしも私がその絵たちに出会わなかったら、杏璃ちゃんにも出会っていないんだよね」
「そうなの?」
「バイト代は美術館巡りにあてているから。あと、美味しいもの食べたり、飲んだり、たまに水族館でクラゲをぼーっと眺めたり」
「それさ、美術館以外にかけているお金のほうが多いんじゃない。てか、クラゲってなに」
「水に母って書いたり、海に月って書いたりするアレだよ。なんとか動物。なんだっけ、軟体じゃないやつ」
「知らない。あ、いや、クラゲそのものは知っている。そうじゃなくて。はぁ。先生ってそんなふうに一人の時間を過ごしているんだね。もったいない」
「お洒落なブティックのショーケースに入ってマネキンの横に並んでいる方が、杏璃ちゃんのイメージに合う?」
「そこは普通に買い物していてよ」
そこで会話が終っていれば、こんな話を私は覚えていない。結局のところ、私がこれを思い出として留めているのはこの後にさらりと貴女が言ったから。
「でも、そのアンリさんより杏璃ちゃんのほうがずっと好き。遥か彼方の絵描きよりも可愛い女の子である杏璃ちゃんが。さ、休憩はおしまい」
貴女は顔色一つ変えずに、私に解くべき設問を指示する。私はそれに従いながらも、心はかき乱されていた。べつになんてことのない台詞。深い意味などあるわけないのに、それでも貴女から「好き」とその時初めて言われて、心が跳ねた。
思い返してみれば、貴女は好き嫌いを直接的に口にすることが少なかった。だからいっそうその時の記憶が残っている、今も私の深くに息づいている。もしも私から直に、たとえば「クラゲが好きなの?」と訊ねていれば「そう、好き」とでも返していたのだろうなとも考える。
貴女と次に美術館の話をしたのは、新しい春を迎えてしばらくしてからだった。
白状してしまうと、その頃の私というのは既に貴女に特別な想いを募らせていた。貴女と会える日は朝からそわそわしてしかたなかったが、いざ貴女が私の部屋に入ってきて、温かな微笑みを向けてくると絶望的な気持ちになりもした。
なぜなら、貴女にとって私は年下の同性、バイト先の生徒であり、最大限に譲歩しても友人でしかなかったからだ。そのことをまざまざと突きつけられて、息苦しさを何度も感じた。まるで貴女が入ってきたことで、部屋が水でいっぱいに満たされてしまったような。溺れる私は、貴女の言葉がうまく耳に入らない。
二年生の最初のテストでは一年生の復習が中心であったにもかかわらず、過去最低の点数を記録してしまう。謝る貴女に「先生のせいじゃないよ」という言葉は喉でつっかえて、とうとう出てこなかった。
「もう一人のアンリは明るい光を描いたの」
それは晩春の土曜日のことだった。例のテスト結果によって、土曜の昼過ぎに授業が追加されていた。小休憩のときに私は窓の外、そのうららかな景色を見やって頭を休めていた。
もう一人のアンリというのが、アンリ・ル・シダネルとは別の画家を意味しているのだと察するまでかなりの時間がかかった気がする。私にしてみれば、貴女の話の振り方の大半は脈絡というのを僅かでも持たない。後になって、貴女の発言がその時々の、視界に入り込んだ何かや聞こえた音を引鉄にしているのだとわかることもあれば、わからないこともあった。
「アンリ・マルタン。南仏生まれの彼はシダネルと同時代を生きた画家で系統も同じ括りにされる。つまり二人とも光の画家なの。けれど、マルタンはシダネルと異なり、陽光で明るく照らされた風景画を多く残している」
私は黙って視線を窓の向こうへ投げっぱなしにしたままで、貴女の声に耳を傾けていた。コントラルトが色づく。その声色からして、貴女が眩い笑みを浮かべているのを悟り、それを直視するのが恐ろしかった。それは私を惑わすものだった。私にとっての光であり、それゆえに私の内に影を落とす存在に他ならなかった。仮に私が恋愛に奔放な人間であったのならば煩悶せずに、貴女と二人きりであるのを利用して詰め寄っていただろうか。そうした仮定が貴女が好んだ空想よりも無意味であるのは私がよく理解しているところである。
貴女が私のかさついた手先に偶然に軽く触れたときや、思いのほか問題がうまく解けた私の頭を貴女が子猫を愛でるようにでも撫でてきたとき、私がどんな思いをしていたか。貴女は知らない。自分から触れたいと欲しても、その勇気が出なかった日々を貴女には教えない。
「彼の描く真昼は、白昼夢にも似た世界なの」
貴女はアンリ・マルタンの描いた絵についてそう表現もした。
「ねぇ、杏璃ちゃん。白昼夢って見たことある?」
それはまさに今なんじゃないかと、当時の私は思った。
土曜日に貴女と二人きりの部屋。貴女は問題を半ば義務的に解説するのをやめて、貴女が好きな画家の話をして、私はそれを聞く。それだけ。そんな光景は夢のようだった。
貴女にもっと聞いていれば。名も知らない画家たちを間に挟んでもいい、何か別のものをあてにしたっていい、とにかくあの頃に貴女自身のことを遠回りであってもたくさん知ることができていたのなら。そう思う。そこに後悔がある。
貴女が家庭教師をやめるのを私に報告したのは、二年生の夏休みが始まる直前だった。カラン、と。冷房のよく効いた私の部屋で、母親が用意してくれて麦茶の入ったグラスの氷が揺れた。貴女は九月からフランスへと長期留学する旨を伝えた。そのためにお盆前が最後の授業になるのだと。
貴女は最初、朗らかに切り出した。けれども、しだいにその口調はぎこちなくなって、ついにはその微笑みにさえも翳りができた。その理由を貴女は敢えてそうだと言わなかったが、ほぼ間違いなく私にあった。つまり、私は貴女との突然の別離を受け入れられない表情をしていたのだった。きっと私の唇はわなわなと震えていて、グラスを持てば、冷ややかな液体を自分の内へとまともに流し込むことは適わなかったのだ。
「ごめんね」
貴女にしてほしいことは謝罪ではなかった。お別れが決まりきったことであるのなら、私はその時まで貴女をより深く知り、それから貴女に抱きしめられてその温度を忘れられないものにしたくなった。身を焦がす燦々とした日照りから逃れた涼しい部屋でどうか貴女の温度を刻み込んでほしかった。こうした言葉は一つ残らず伝えられぬまま溶けていく。
「杏璃ちゃん、よかったら夏休みに美術館に行かない? 気になっている展覧会が県内の美術館で開かれるの。交通費や、それにお食事代もこっちで出すから」
この提案がその場しのぎの、つまりは私の機嫌を直そうとするべく貴女が思いついたことでないのを知ったのは後になってからだ。貴女は留学を決めたときには私と授業以外の時を過ごすつもりであった。貴女は変に真面目なところがあって、それまでは「家庭教師としての規則だから」と授業外で私と会おうとはしなかった。私が勇気を出して、たとえば友達の誕生日プレゼント選びといった回りくどい口実ではなく、貴女と二人の時間を過ごしたいのをまっすぐに伝えられていればどうだったのだろう。
「……二人で?」
「私はそうしたい。でも、誰か友達を連れてきたかったらかまわないよ。あんまり多いと、その分、私の肩身は狭くなるし、財布は薄くなるしで嫌だけれど」
「わかった。先生とならいいよ、二人きりで」
言うまでもなく「先生とが」であった。
貴女は緊張感のある面持ちから一転、いつもの微笑みをくれて「ありがとう」と返した。日頃、お世話になっているのは私の側であるのに、高校生の私は貴女に感謝をほんの数回しか言わなかったはずだ。
貴女は展覧会の内容や主旨を現地に到着するまで教えてくれず、調べるのも禁じた。私はてっきり、貴女が専門的に学んでいるはずの西洋美術、それも現代ではなく近世から近代にかけての作品の会であると当たりをつけていた。でも、実際には多くが存命の日本人画家による展覧会だったので驚いた。
テーマというのが光と影であったから、それで合点がいった。二人のアンリ、彼らが描いた光に惹かれた貴女はそこで完結させずに絵画の中の光と影を追究していたのだった。
それはそれとして、私が美術品には目もくれず、貴女の高揚感を隠そうとしない姿やその貴重な私服姿に見蕩れてばかりだったと言ったら、貴女は怒るだろうか。それとも笑ってくれる?
美術館を出て、貴女といっしょに近くの蕎麦屋で啜った蕎麦の仄かな香りを覚えている。初めて目にした貴女の箸づかいは芸術的だった。
貴女との最後の授業は、美術館へいっしょに訪れた三日後にあった。私の親戚の身に不幸があって葬式に参加しないといけなくなり、急遽一日前倒しになった。母親はキャンセルする気であったが、私が「最後だから」と押し通して、貴女はやってきてくれた。そうしてイレギュラーなシフトで入った貴女からそれまで感じたことのない香りがしたのだった。
香水だ。私は気づいてもそれを指摘できずに、授業の終わり、すなわち日が沈みそうになっている頃にようやく訊ねた。その時には香りはもうかなり薄まっていたが、消えてはいなかった。
「誰か、人と会う約束があったの?」
貴女は自分の纏っていた香りを忘れてしまっているのか、小首をかしげた。私は「いい香りがしていたから」と消え入りそうな声で貴女に言った。嫌味ではなく、確かにその香りは快い種類のものだった。草原や果樹園を想起させるような。
「ああ、これ。ばれちゃったかぁ」
貴女がはにかむのは珍しく、普段が大人びている分、その時の少女めいた表情は私をくらりとさせた。同時に、貴女が誰か、私の知らない人と逢瀬しているのを考えると胸が痛んだ。私はその最後の授業の日に意を決して貴女へ想いを告げようとして企んではいなかったが、だからといってその日に貴女から私とは別に大切な人の存在を知らされるのは勘弁願いたかった。
「人と会う約束なんてないの。ただ……そうね、場合によっては幻滅するかも。杏璃ちゃんが繊細な女の子であるのは充分に知っているから」
「聞かせて」
貴女の言葉に私は反射的にそう応じていた。幻滅。貴女がそれを口にすると、そんな悲哀感のある語でも、どこか美しい響きを持った。その低さが重みを与え、その重みの分だけ輝きを増しているような。
「私ね、今年からは香水をつけて美術館に行くことにしていたの」
「えっ? でも……」
「先週、いっしょに行ったときはべつ。一人の時だけ」
「美術館に来ているいい男、捕まえようとしているってこと?」
貴女は私をまじまじと見て、それからぷっと笑った。私は笑えなかった。貴女は「なるほど、そういう考え方もあるんだね」と肩を竦めてみせた。
「でもね、そうじゃない。それよりも確固たる目的もなければ、効果もくっきりしているとは言えない。私はね、異物になりたかったの」
「異物?」
「他にいい呼び方があるかもね。あのね、定期的に美術館を訪れるようになった初めの頃は、美術館の空気が私を幸福にさせていた。わかるかな。図書館には図書館の空気があって、水族館には水族館の空気があるでしょう? そういうのと同じ。ううん、もっと身近なものでもいい。まさにここ、杏璃ちゃんの部屋の空気でも。私が好きな空気」
貴女は目をきゅっと細めて、まるで遠くになった日々を思い出す眼差しをすぐ傍にいる私に向けた。ほんの半月もすれば、一万キロメートル足らずの距離を隔てる貴女と私だった。
「それで?」
「取り込まれてしまうのが怖くなったの。極端な話、美術館に飾られた作品の一つになってしまうのが」
「よくわからない」
「大丈夫、私もよ」
そこは問題にしなければならないところである。
「そんな顔しないで、杏璃ちゃん。ええと、私としては鑑賞者で在り続けなければならなかったの。この半年でバイト代をはたいて、県内の美術館という美術館に足を運んだ。大層な将来設計があるわけではないけれど、気晴らしだけを目的で訪れるのは性に合わないから、目的意識を持っていたの。なるべくね。たとえば、どんなにみすぼらしい美術館であっても、そこに展示されている作品の一つか二つを目に焼き付けて、作者の生涯と作品の成立経緯を詳らかにして、記憶に留めようって」
「ようは能動的に」
「そう」
なんかいいなぁ、ではなく。貴女は貴女自身の好奇心や探究心に従い、芸術に触れてそれを血肉にしようとしていた。
「そうするのに、香りが必要だったってことなの?」
「早い話ね。香水は慎重に選んだわ。だって、あまりに強いとそれはマナーとしていけないけれど、かといって弱すぎても私は美術館に飲みこまれてしまう。そうして私が選んだのは自然の香りだった。絵や彫刻がいかに上手に自然を写し取っていても、あるいはその自然の一要素を膨らませていても、そこには香りって本質的には伴わないはずでしょう? 嗅覚に訴えかけてくる絵があるのは別問題として」
「わかるような、やっぱりわからないような」
幻滅はしなかった。
貴女が変わった女性であるのは今更だ。そこが魅力の一つでもある。
異物――――鑑賞者として在るために貴女は香りを纏うのを選択した。私には理解が及ばない感性が導き出した解答だった。
貴女は本来、家庭教師としての授業がないその日もまた美術館を訪れる予定だったのだ。だから、香水を纏っていた。貴女は私のお願いに答えて、そのまま来てくれた。美術館ではなく私の部屋の空気に戯れ、そこにいる少女の想いはきっと知らずに、優雅に足を踏み入れた。
「杏璃ちゃんは覚えていてくれるかな」
「え?」
「これは屋上庭園をイメージした香水らしいの。ある意味で秘密の花園でもある。この香りを私との思い出にしてくれると私は……嬉しい」
貴女の熱っぽい視線に私は狼狽える。そんなふうに貴女が私を見たのは初めてだった。その頬に差した色は外でゆらめく陽炎のせいではないとわかっていた。私の想い、それは水底で日の光も月明かりも浴びずにゆらゆらと漂っていて沈み込むのを待っていたはずなのに、貴女がそんな目で見るから、何か言葉にしないといけないと思った。けれど私はまるっきり異国の少女、貴女へと届く言葉を知らない者へとなって、ひたすらに見つめ返していた。
やがて貴女が熱い吐息を漏らして言う。
「ねぇ、抱きしめていいかな。私の香りを覚えておいてほしい」
私が肯くと貴女はゆっくりと立ち上がり、椅子に腰かけたまま隣の貴女のほうを向いて話していた私を正面から抱きしめた。
「先生、私は……」
「手紙を書くからね。メールじゃ風情がないから。写真も添える」
貴女は私の言葉を遮ってそう言う。それが一つの答えだと私は思い知らされる。おうして貴女は離れようとする。私は力を込める。貴女を私の胸に留めて、私はもう言葉を紡ぐのを放棄する。
私は貴女の首筋にキスをした。痕が残るほど強く。消えなければいいのに、そう祈って。貴女は私に香りを覚えていてと口にしたが私は香りでは到底満足できなかった。しばらくして、私は唇を離す。貴女の首筋には確かに私のつけた痕がある。それが痛ましく見えて、私は自分の行いが間違っていたのだと感じる。
でも、貴女は「時に言葉は余計なだけだね」と笑ってくれた。
十七歳になった私は貴女と一度も会わなかった。十八歳の私もまた貴女と会うことはできずにいた。十九歳となった私は―――――。
初夏の黄昏、シダネルが描いたような残照に誘われるがままに、独り歩いていく。既にあの屋上庭園の香りは霧散してしまっていた。私にとってそれはもはや懐かしい香りでしかない。追憶の中にある。
過去に思いを馳せるのはよして待ち合わせ場所に到着した。
「ねぇ、杏璃ちゃん。今日はなんだかシダネル日和じゃない? どこかで美味しいローズティーでも飲みながら、大学生活について聞かせてほしいな」
私がさっきまで友達と二人でカフェにいたのを明かすと、貴女は少しむくれてみせてから「ずるいなぁ」と微笑んだ。すっかり大人の装いをした貴女がすっと私の手を引き、身体を引き寄せる。
貴女から香る新しい季節が、黄昏を忘れさせてしまうほどに瑞々しかった。
馥郁とした黄昏に貴女を想う独り よなが @yonaga221001
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