黒猫の女

ポピヨン村田

黒猫の女

 あの女のアパートの近くに、いっぴきの黒猫が棲みついている。


 猫はいつも人間を侍らせている。


 身なりも歳も性別も一貫性のない人間共を釘付けにしては、いつも食べ物や風呂を用意させている。



 ――



 さて、高山の客にはりでるという女がいた。


 ふざけた名前であるが、高山は職業柄女の個人情報を一切合切おさえているので、それが紛れもない本名だと知っている。


 木造の古ぼけたアパートで、りでるの部屋だけが鍵がかかっていない。


 高山は手に汗をかきながら、しかし極力横柄になるよう注意を払い、りでるの部屋のドアを開いた。


「あぁ、高山さん、また来たんだね」


 四畳半の黴臭い部屋で、窓辺に背を預けたりでるがふーっと細く煙を吹いた。


 ミニマリストも裸足で逃げ出しそうなくらい“無”の部屋で、黒いロングワンピースを着た魔女のような女が高山に微笑んでみせた。


 高山は急いで目を逸らす。


「おぅ、貸した金を取り立てるまでは毎日来るぜ。利子もエライことになってる」


「そう」


 大概の顧客は高山が少し脅すと子犬のように震えてポケットから札を取り出すが、りでるは違う。


「いくら来られても、私は本当に一円も持ってないんだ。君も知っているだろう?」


「ならてめぇにいつもしている連中に金を運ばせるんだな。今までみたいによ」


「でも私は携帯電話も持ってないしなぁ。あぁ、それも君は知っているか」


 高山は意地でもりでると目を合わせない。そのために凝視している口元が、艶やかに弧を描いた。


「それとも取り立ては口実で、私の顔を見に来てくれたのかい?」


 高山は『あぁ!?』と恫喝めいて吠えた。


 これだ。


 りでるはこれだから困る。


 押しても引いてものらりくらりと攻撃を交わして翻弄してしまうので、高山の部下は全員りでるにしまった。会社を辞めた者も出た。


 高山はすぅっと息を吐いて心を落ち着かせるよう努めた。


「今日こそはお前のおふざけに付き合ってられねぇぞ。払えねぇなら体で稼いでもらうからな」


「いいよ」


 筋モノも泣いて逃げ出す高山の強面を相手に、りでるはあっけらかんと言った。


「風俗でしょう? 私の棲み家が変わらないなら、別に職場はどこだってかまわないよ」


「かまわないって、お前……」


 高山は面食らった顔になるのを、歯を食いしばって耐えた。


 借金の形に沈められる女は珍しくなく、腹を決めてそれを受け入れる者もいる。


 しかしりでるは――吹く風にまるで逆らわない。


「おい、わかってんのか? ソープだぞ? 知らない男と寝るんだぞ?」


「そんなのいつものことじゃないか」


 りでるの口から吐き出される煙が、窓から空に上っていく。


 りでるはそれを目で追い、煙草の先を踊らせ煙を操って遊んでいた。


「不潔なおっさんに乱暴されても文句は言えないんだぞ? なぁ理解しろよ」


「大丈夫、私にそんなことする人いないよ」


 すると、それまで畳に腰を落ち着けていたりでるはゆらりと立ち上がり、高山と距離を詰めはじめる。


 ふいを突かれた高山は、りでるの手の甲が胸板をそそそと撫ぜるのを、甘んじて受け入れるしかなかった。


「だって、高山さんはこんなに立派な体があるのに、私をいじめたことないじゃないか」


 高山の理性はあわや弾け飛びそうになっていた。


 冷徹な金貸しの心を押しのけ、男の本能が告げる。


『この女が、このまま誰かのものになるくらいなら』


「…………」


 高山は、りでるの華奢な手首を掴む。


 その時、


 高山は、どこまでも深い、漆黒のりでるの瞳を、直に見た。



 ――



「りでるさーん、いるー? 今日のご飯持ってきたよ!」


 アパートの廊下からぎしぎしと足音が聞こえる。


 そして空気を切り裂いて部屋のドアを開いたのは、見知らぬ男であった。


「……あ! お前!いつもりでるさんに付きまとう借金取りだな! りでるさんを離せ!」


 その男は強引に高山とりでるの間に割って入り、貧弱な腕で高山を押しのけた。


 高山はびっくりするほどあっけなく、畳に尻餅をついた。


「りでるさん、怪我はない? 大丈夫?」


「うん、何ともないよ……高山さん、大丈夫?」


 りでるは男に抱きすくめられながら、高山を見下ろしていた。


 高山はりでるを見上げる。


 瞳と瞳が絡み合う。


 高山が触れることすら恐れた女をいともたやすく抱きしめる男。


 そんな男の腕の中にあるりでるの姿に肌が粟立つのを感じながら、しかし高山の宇宙は、りでるの瞳の中にあった。



 ――



 男は高山に金を掴ませ、部屋から叩き出した。


 金を受け取った以上、高山がそこにいる理由はない。


 高山はとぼとぼとアパートを背にする。


 力強く握りしめられた札束には汗が滲んでいた。



 ――



 帰り道、例の黒猫がいた。


 珍しくまわりに誰もいない。


 猫と目が合った。


 高山は立ち止まる。


 猫の前で屈み、背を撫でると、恐々と手を開いて札束を猫の前に詰んだ。



 ――




 そして走り出す。


 叫びながら走り出す。


 黒猫の尻尾が差す方へ。


 古ぼけた木造のアパートへ。

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