第41話 佐音綱紀と居酒屋のママ

 10月の一般の会社の給料日前の水曜日、佐音の店も暇で午後9時に先に帰ると言って久しぶりに居酒屋みちこへ足を運んだ。店を覗くとママがカウンター席に座って酒を飲んでいた。

「こんばんわ、暇そうだな」そう声をかけて店に入る。

「あら~、綱紀じゃない、いらっしゃい、店は?」

「暇でさ~、後任せて帰ってきたんだ」

「そう、じゃぁ、うちも店閉めるかな」

玄関の暖簾を外し行燈も消す。そしてテーブル席に綱紀を座らせて、自分の飲んでいた銚子や徳利を綱紀の向いに置いて注文を訊くので、「残り物で良いから適当に」と頼んだ。飲み物は燗酒にした。

 初めのうちは二人とも飲食店を経営する立場に身を置いているので、店やこの界隈の景気の話になる。

とは言っても、ママの店は和風の居酒屋で外国人の観光客は滅多に来ない。常連客が多く年代的には中高年が中心になっている。すし屋と間違えて入って来る一元客はいるが、違うと言うと期待外れを露わにする。それでも帰りしなには美味しかったと笑顔で話す、そんな店だ。

 一方俺の店は接待用のバーなのでほとんどを社用族が占めている。そもそも舛上コーポレーションがここを造った目的がそれなのだ。しかも、舛上自体が接待時には必ずここを使うことにしているし、舛上に関係する企業にも使われることが多い。だから、外国人観光客は殆ど来ない。舛上から噂を聞いたり、接待を受けた会社が接待に使ってくれるというパターンで客が増えている。

さらに綱紀は紅羽母さんの親が経営する銀行で、修行させてもらったし、店を始めてからもずっと銀行の税理士が色々アドバイスをしてくれているので経営に対する不安もない。

で、結局、両方とも今月も、まあまあ、という表現で景気の話が落ち着く。

 

 徳利がテーブルに並び始めると、アルコールが綱紀の身体と心を席巻する。そうなると、いつの間にか子供の頃からの思い出をママに語り始めてしまう。ママは何回も聞いたはずの話でもいつも感動や驚き、時には涙を見せてくれたりする。

「なぁ、ママ違うか? 子育てを放棄し、自分の子を他人に預けて、心配だったからそこへ家政婦として働いたってさ、余りに身勝手過ぎないか? 貧乏でも一緒に暮らそうって思うのが母親じゃないのか? それでそこを出たんだ」

綱紀は心の中に仕舞っていた思いをぶちまけた。

「そうね、綱紀の言う通りかもしれない。けどさ、綱紀、もうそのお母さんは亡くなってるんだ。悪く考えるのはそろそろ止めにしない? 自分が苦しく、辛く、悲しくなるだけじゃないの? だって、いつもそう言う顔してるわよ。今も、綱紀、涙でてるわよ」

ママに言われて自分が泣いていることに気付いて慌てて拭う。

「じゃ、どうすればいいんだ?」

「例えば、お母さんがあなたに言った通り、どうしようもなくて隣にいた紅羽さんにあなたを託して幸せを願った。でも、ずっと後悔しててあなたの傍にいたくて堪らなくなって舛上家に入った。ほれ、無償の愛っていうでしょう。お母さんはあなたを愛していたからあなたが自分のことを知らなくても、なんの見返りが無くても、見ているだけで幸せを感じていたのよ。あんなにあなたを思ってくれている紅羽母さんが傍にいたんだから、あなたは舛上家の一員として幸せだったんでしょう。姫香母さんのやったことは良くないと思うわよ。でもそこばっかり見ないで、姫香母さんがあなたのために一生懸命に考え、精一杯頑張った結果だと思えないかしら?」

「……」

綱紀は、返答に困った。ママのいう事を信じたかった。

「考えてみるよ。すぐにそうは思えないけど、俺の拾いの母さんのいう事だからな」

綱紀は精一杯の笑顔をママに見せた。

ママは頷いて、「綱紀は良いわねぇ。産みの姫香母さん、育ての紅羽母さん、そして拾いのみちこ母さんって三人も母さんいて、この世の中にそんな幸せ者いないぞ!」そう言って綱紀のおでこをこずいた。

「それにさ、舛上の椋さんも、あなたに負い目を感じてるって聞いたことある?」

「俺は椋さんに感謝するばかりで、椋さんが俺に負い目だなんて考えもつかなかった」

そう言って首を振った。

「そう、椋さん自分が舛上家に入ったことで綱紀が家を追い出されたってどこかで聞いたらしいの。それで、自分が出て来なければ、綱紀がずっと舛上家で幸せに暮らせたんじゃないかって言ってたわよ」

驚いた。彼がそんな風に綱紀の事を考えていたなんて。

「それで、俺に店やらないかって声をかけた訳か」

「そうなるわね。椋さん会社じゃ鬼畜生みたいに思われてるそうだけど、そういう気持も椋さんにあるのよ。私の子供もどうなってたかなぁ」

「えっ、ママに子供いたの?」

ママも目が溶けてきたみたいだ、いつもより徳利が空いている。

「もう、40年近くになるかしら、15歳だから拾った時のあなたと同い年だった、それまで病気なんてしたことのない元気一杯の子だった」

綱紀が名前を訊いた。

「そら、宇宙って書いてそら。学校で突然倒れたの。連絡が来て病院へ走って、病室に着いたときには白い布が顔に掛けられていた。私、心臓が停まるかと思った。その布をとったら寝ているようにしか見えないけど息してなかった。どうしたの? 何があったの? 何故なの? ってお医者さんや看護師さんの胸倉掴んで怒鳴ったらしい。もう、パニックになってそこで私倒れたのよ。気付いたのはベッドの上だった。お医者さんが、静かな落ち着いた優しい声で『あなたの息子さん、宇宙くんは心筋症でした。手を尽くしたのですが至りませんでした』と言うの。私は、怒りと悲しみとまだ信じられないという気持で先生や看護師さんに目をやると、皆さん泣いていたのよ。人が死ぬことになんか慣れていて悲しいなんて思わないんだろうと決めてかかってたら、泣いていたの。そして力及ばず申しわけありませんって私に涙を流しながら謝るのよ。私は自分が恥ずかしくなったの、こんなに一生懸命に尽くしてくれた方々に失礼なことを沢山言ってしまったと。それで、ありがとうございました。そう言ってベッドの上で頭を思いっきり下げたの」

「へ~、初めて聞いた。ママにもそんな辛いことがあったんだ。もしかして、あの時、宇宙くんと俺と被ったのかな? だから親身になって俺を助けてくれた、そうだろう」

珍しく涙したママは頷いた。

「だから、綱紀は私の宇宙なのよ。幸せになって欲しいし、自分の母親に後ろ向きな感情を持って欲しくない。綱紀が姫香母さんの事を悪く言うと、その声が宇宙の声と重なって、自分が死んだのは母さんのせいだと私を怨んでいるように聞こえてしまうから、辛いし、悲しいし、寂しい、それでさっき言ったのよ」

綱紀は次の言葉が出なかった、と言うより、何かを口にしようすると胸に込み上げてくるものがそれを邪魔して声にできなかった。

ママは涙を拭って杯を空け、分かってくれたかなと冗談っぽく綱紀を下から覗き込むように見上げる。

「あ~、良くわかったよ。三人の母さんに感謝するよ。自分は子供のころは乱暴者だったが、年のせいか周りの人に生かされているって感じるようになったし、その恩を少しでも還元してゆきたいと思うよ」

「あら~、綱紀がそんなこと言うなんて母さん嬉しい。あっ、今の言葉ディスクに保存しといてしらふの時に聞かせてあげたかったなぁ、残念」

ママはそう言ってカラカラと明るい笑い声を店中に響かせた。

 

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