一六の扉 巨人族の男

 パチパチパチ

 消え失せたはずの意識のなかにその音は忍び寄ってきた。

 ラベルナの意識を現世に呼び戻したもの。

 それは、暖かい火のぜる音だった。

 ――ここは?

 朦朧もうろうとした意識のまま、ラベルナは目を覚ました。

 最初に感じたものは暖かい火の気配だった。冷えた、というよりも氷そのものになったかのような頬に火の気配が当たり、じんわりと凍てついた肌を溶かしていく。

 「……ああ」

 心地よいその感覚にラベルナは恍惚こうこつとした声をあげた。

 気が付くと、あれほどに激しく頬を打っていた雪も、風も、なくなっていた。あるものはただ、爆ぜる炎に暖められたたゆたう空気だけ。

 ラベルナはしばしの間、その心地よさに身を任せ、うとうととまどろんでいた。

 やがて、爆ぜる炎が意識にかかっていた靄を焼き払ったのだろうか。ラベルナの意識がはっきりと蘇ってきた。そのとき、真っ先に思ったこと。それは、

 「ユーマ!」

 ふたりきりで身を寄せ合い、抱き合うようにして歩いていたたったひとりの弟のことだった。

 「ユーマ、ユーマ!」

 常に理性的で冷静であろうとし、事実、そうやって生きてきたラベルナがこのときばかりは恐慌に駆られた。必死の形相で弟の姿を探し求めた。探すまでもなくユーマの身はすぐそばにあった。自分と隣り合わせで寝かされていたのだ。

 ユーマはまだ目を閉ざしたままだった。

 心臓の締め付けられるような不安と共に、ラベルナはまだまだ幼いその顔をのぞき込んだ。そして――。

 ホッ、と、安堵の息をついた。

 ユーマは心地よい寝息を立てて寝入っていた。ラベルナと同じく、この心地よい暖かな空気に包まれてまどろんでいるようだ。ラベルナは改めて安堵の息をついた。

 ――このまま寝かしておいてあげよう。

 そう思った。

 だが、姉の必死の思いが届いたのか、小柄な少年はもぞもぞと身を動かすと、起きあがった。

 「……姉上?」

 まだ意識がはっきりしていないらしい。

 ぼんやりとした視線でそう声をあげた。

 「起きたのね、ユーマ。よかった。無事で」

 ラベルナは心から言った。

 「ここは?」

 ユーマが尋ねた。

 『尋ねた』と言うより、本能的に口にしていた、という方が正しいだろう。そんな言い方だった。

 ラベルナはかぶりを振った。ここがどこかなど、かの人にもわからない。確かめてもいない。ユーマに言われてそのことを思い出し、改めて辺りを見回した。

 そこは、風雪の大地からさえぎられた円錐形の空間だった。

 何か、なめした動物の毛皮をやはり、動物の骨で支えた天幕てんまくのなからしい。地面にも同じく分厚い毛皮が敷かれている。その上に寝かされていたのだ。

 天幕の中央にはパチパチと音を立てて火が爆ぜていた。

 焚き火た びかれているのだ。

 焚き火の上には鍋がかけられ、濛々もうもうたる湯気があがっている。ヒク、と、ラベルナの鼻が反応した。その湯気のなかには、かの人にとって馴染なじみのある匂いが立ちこめていた。

 そして、焚き火の向こう。

 そこに、巨大な肉の塊があった。

 のそり、と、肉の塊が動いた。

 「……ヒッ」

 ラベルナにして、小さく悲鳴をあげていた。

 それは、一体の巨人だった。

 ラベルナの倍ほどもありそうな身長。体重にいたっては五倍以上はあるだろう。全身にはち切れんばかりの筋肉が付いている。フィールナル人の同世代の子供たちのなかでも小柄なユーマなど、そのふともものなかにすっぽりとい込めてしまいそうだ。

 たてがみにおおわれた巨大な一つ目がラベルナとユーマ、ふたりの兄弟を見下ろしていた。

 ――一つ目巨人族。

 それはまぎれもなく、フィールナル王国の北の果て、風雪に閉ざされたカウロン領に住む一つ目巨人族だった。

 ――落ち着いて! 落ち着くのよ、ラベルナ。

 ラベルは必死に自分に言い聞かせた。

 一つ目巨人族のことはもちろん、知っている。資料を読んだことは何度もあるし、絵に描かれている姿も見た。だから、知っているつもりでいた。しかし――。

 はじめて見る本物は、そんな資料や、絵から受ける印象とはものがちがった。

 長いたてがみに覆われた巨大な一つ目。

 ゴツゴツした石を積み重ねて作ったような筋肉。

 そこから吹き付けてくる圧倒的な猛気。

 そのどれもが資料や絵からはとうてい感じられないものだった。

 そのすべてが圧倒的な迫力となってのしかかってくる。

 ――一つ目巨人族は人を食う。

 いつものラベルナであれば相手にもしないようなそんな俗説さえ、いまは恐怖をあおる現実感をもって襲いかかってくる。

 ――落ち着いて。落ち着くのよ、ラベルナ。あれは単なる仮面、実際に一つ目というわけではないわ。

 ラベルナは必死に学んだ知識を思い出し、落ち着こうとした。

 一つ目巨人族。

 それは、あくまで通称。季節ごとにフィールナル王国に侵入しては人を襲い、殺し、略奪を繰り返す。しかし、本来は戦いを好まない穏やかな性質で、敵と戦うことなく追い払うための威嚇として、一つ目に見える独特の仮面を被る。それが『一つ目巨人族』の名の由来。

 ――そう。巨人族はあくまで人間。わたしたちと同じ人間。体が大きいのは極北の寒さに対抗するため。熱を蓄えやすくするために大きくなっただけのこと。なにも、異世界の怪物というわけじゃない。

 ラベルナは自分自身に言い聞かせ、必死に落ち着こうとする。そのとき――。

 ラベルナの前に小柄な人影が飛び出した。

 ユーマだった。

 ユーマが宣言通り姉を守ろうと、巨人の前に立ちはだかったのだ。

 「駄目……!」

 ラベルナは小さく叫んだ。弟の体をどかそうとした。いま、この場で、敵対的と思われるような行動を取るのは致命的だ。相手を怒らせたりしたら命乞いするいとまもなく殺されてしまう。ラベルナやユーマなど、この巨人族の前では獅子の前の兎にも満たない、非力でか弱い弱者なのだから。

 ぬっ、と、仮面の巨人が両腕を差し出した。その腕一本だけでラベルナの胴体よりずっと太い。その手には湯気を立てる腕がひとつずつ、つかまれていた。

 「飲め」

 たどたどしいフィールナル語で巨人が言った。

 巨人族は単にフィールナル王国を襲撃するだけではない。季節によっては交易も行う。そのために、フィールナル語を解する巨人は決して少なくない。むしろ、族長など、指導者的立場にいるものにとっては必須の教養である。

 ――どうしたらいいのですか?

 ユーマがラベルナにそう問いかける視線を向けた。

 「……受け取って」

 ラベルナは小さな声でそう支持した。

 せっかく差し出したものを受け取らなかったとなれば、巨人族ならずとも気分を害することだろう。この状況でそんな危険を冒すわけには行かなかった。

 「だいじょうぶ。危険なものではないはずよ。殺すつもりならそもそも、わたしたちをこんなところに運び込むはずがないもの」

 「……はい」

 なにより、腕のなかから漂ってくる匂いはラベルナにとって馴染み深いものだった。ユーマも薬師としての勉強をしていたと言うだけあってそのことに気が付いたのだろう。素直にうなずいた。

 ふたりは腕を受け取った。中身の液体をすすった。

 ――やっぱり。

 味を確かめて確信した。これは、体を温め、体力を回復させるための薬草をせんじて作った薬湯やくとうだ。わざわざ天幕のなかに運び入れた上、薬湯まで飲ませる。目的はなんであれ、自分たちを助けてくれるつもりなのはまちがいない。

 ――あるいは、奴隷にでもするつもりなのかも知れない。でも、そうだとしても、いまは生き延びることが第一。そのためなら、奴隷の身でも……。

 ラベルナはそう覚悟を決めた。

 奴隷にするつもりなのかも。

 そう思ったこと自体やはり、巨人族に対して偏見を抱いていた証拠だろう。助けてくれた相手の善意を、信じられなかったのだから。

 仮面の巨人は薬湯をすするふたりをじっと見つめていた。巨人族の仮面はなめした皮を重ねて煮込み、固くしたものだ。革鎧かわよろいと同じ作りだと言える。その周囲をトナカイの長い毛で覆っている。そのために、たてがみに覆われた一つ目に見える。その意匠いしょうは部族ごとに異なり、どの部族のものかを判別する手段として使われているという。

 ただし、『身分の高いものほど長いトナカイの毛を付ける』という特徴だけは共通している。この巨人の付けている仮面のトナカイの毛はかなりの長さがあった。この長さなら族長か、それに近い立場にあるもののはずだ。

 ――そう言えばある資料に、族長の息子はその地位を継ぐ前に勇気と実力を証明するために一定期間、ひとり旅をすると書いてあったわ。

 とすると、この巨人も族長の息子であり、地位を継ぐための試練の旅の最中なのかも知れない。

 「姉上。この薬湯……」

 「ええ」

 ラベルナはユーマがそのことに気が付いたことに感心しながら答えた。幼い頃に養子に出されたとは言え、さすがカーディナル家の血筋。薬品の味には敏感なのだ。

 この薬湯に使われている薬草自体はまちがってはいない。しかし、煎じ方がまだまだ雑だ。えぐみが強くなっている。これでは飲みにくいし、肝心の効果も薄れてしまう。巨人族は薬草の知識はあっても、効果を生かすための技術という点ではまだまだのようだ。

 ――もっとも、カーディナル家の知識と技術が高すぎるのだけど。

 ラベルナは誇りと少々のうぬぼれを込めてそう思った。

 ――これなら、わたしは立派に薬師としてやっていける。

 改めて、そう確信した。

 「……姉上」

 ユーマが再び、姉に向かってささやいた。

 「見てください。あの腕」

 言われて、ラベルナははじめて気が付いた。巨人の右腕。そこにはまだ新しい傷があった。おそらくは狩りの最中、獲物の牙か角に突かれて付けられたものだろう。傷口はまだ乾いておらず、ジクジクと血膿ちうみをにじませている。いくら、頑健がんけんさで知られる巨人族と言えど、これでは痛みがあるはずだ。少なくとも、不快な思いはしているにちがいない。

 ラベルナはユーマに向かってうなずいて見せた。さっそく、自分たちの価値を示す好機に恵まれた。

 ラベルナは巨人に向かって語りかけた。

 「その傷……痛むでしょう?」

 「ん?」

 「わたし……わたしたちは薬師くすしです。あなたの傷を治療してあげられます」


 ラベルナは薬師であって魔法使いではない。いくら知識と技術があっても無から有を生み出すことは出来ない。薬品を使って治療を施すためには当然、その原料となる薬草が必要になる。

 カーディナル家の知識体系のなかにはカウロン領に自生する薬草に関する知識も蓄えられており、ラベルナはそのすべてを記憶していた。幸い、傷の治療薬はカウロン領に自生している薬草だけで作ることができる。

 ラベルナは巨人にそのことを説明し、薬草の自生地へと案内してもらった。巨人はさすがに現地の人間だけあって薬草の自生地にはくわしく、迷うことなく案内してくれた。そこでは、充分な量の薬草が採取できた。ラベルナはさっそく、何種類かの薬草を混ぜ合わせて煎じ、薬湯を作った。その薬湯に布を浸し、温湿布を作った。巨人の傷口に丁寧に巻いていく。

 「……心地よい」

 巨人は短く言った。

 巨人たちもこれらの薬草に傷を癒やす効果があることは知っていたはずだ。しかし、その効果を生かすための知識と技術が不足していたために利用してこなかったのだろう。となれば、ラベルナとユーマにとっては自分たちの腕を売り込むためのまたとない好機である。

 「この通り、わたしたちは腕の良い薬師です。わたしたちをあなたの集落に連れて行ってください。怪我でも、病気でも、お役に立てます」

 その言葉に――。

 巨人はそっと一つ目の仮面を外した。

 ラベルナが内心、ホッとしたことに――。

 仮面の下から現れたのは二つ目の普通の人間の顔だった。

 「お前は役に立つ」

 巨人はそう言った。

 「おれはウルグズ。ボルフゥクランの族長、カンデズの息子、ウルグズ。お前をおれの嫁とする」

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