第35話 高校生活最後の日

 卒業式は、予行の手順通りに進んだ。

 Take1での卒業式がどのようなものだったのか、幸太はあまりよく覚えていない。

 覚えていない、つまり記憶に残らないほどに、卒業式というものが印象の薄い儀式だったということだろう。

 覚えているのは、幸太は志望大学にも合格し、その点では悲しむべきことなどなかったにもかかわらず、ひどく暗鬱な気分だった、ということだ。

 美咲に、もう会えなくなる。

 それが、幸太にはどれほどにつらかったことだろうか。

 彼が人生で最も後悔したことだ。

 なぜ、もっと彼女と話をしなかったのか。

 なぜ、自分の気持ちに正直に行動しなかったのか。

 なぜ、望みがないとしても、彼女に想いを伝えなかったのか。

 せめて、気持ちを伝えられていたなら、彼のその後の人生も大きく変わっていただろう。

 だが結局、彼に残ったのは暗くみじめな後悔だけだった。

 そういう記憶があるから、幸太にとって卒業式というのは後悔の象徴でしかなかった。

 もっとも、Take2が始まって、結果的にその後悔は彼の新たな人生観や行動基準の基礎になりはした。後悔のないように、精一杯、美咲に想いを伝え、彼女を幸せにしようと。

 今、幸太はそれだけを考えている。

 卒業式を終え、教室に戻ったクラスは、意外なほどしんみりしている。特に女子は半分くらいが泣いていた。美咲も卒業証書を手に、親友の伊東や同じ吹奏楽仲間の瀬川や小林らと抱き合っては、涙をぽろぽろとこぼしている。

 (この教室も、ついに今日で最後か……)

 幸太も、多くのクラスメイトと別れを惜しんだ。

 あちこちからすすり泣きが聞こえる最後のホームルームのあと、3年生は学校から移動して、謝恩会場へと向かう。

 これは卒業生とその保護者が、お世話になった教職員を招待してその労をねぎらい、感謝を伝えるための会だ。ただ、意味合いとしては卒業パーティーと言ってもいいかもしれない。

 会場には保護者が先着していて、卒業生に対してまず盛大な拍手が送られた。

 幸太はその群れになかに母の姿を発見し、話しかけようと近づいたところ、さらに思わぬ登場人物を見出みいだして、驚きの声を上げた。

「コーちゃん!」

「いやだからなんでお前が来るんだよ」

「お前はやめて。暇だからに決まってるジャン」

「一生、暇になるな。むしろ死ぬまで寝てろ」

「かわいい弟の卒業に、お姉ちゃんが知らんぷりできないわ」

「お前なんか、こっちが知らんぷりだよ」

「悪いけど、今日はコーちゃんじゃなくて、マシュマロちゃんに会いに来たの。ついでに、かわいい男の子いないかなって」

「おぉい!」

 謝恩会場の落ち着いた雰囲気に似合わない大声を上げてしまったことで、幸太は図らずも会場中の耳目じもくを集めることになってしまった。

 あわてて幸美ゆきみくぎを刺す。

「頼むからおとなしくしといてくれよ。姉ちゃんは一家の鼻つまみなんだからな」

「ぷんすかぷん。せっかく来たのにそんな言い方ないんだぁ」

「そうよ。あんたのお姉ちゃんだし、女の子なんだから、もっと優しくしてあげなさい」

 母親までが加勢に入ったため、不利を悟った幸太は渋々、クラスの輪のなかへ戻った。

「なぁ、あの人、誰だよ?」

「もしかしてコータの姉ちゃん?」

 クラスメイトの何人かが興味の色を隠せずに聞いた。保護者のなかに幸美のようなタイトミニのワンピースをまとった女性などいないから、目立つのは当然だ。しかも幸太にとっては目障めざわりなことに、幸美は男の視線を集めがちな、いわゆるわがままボディでもある。

「まぁ、一応、姉ちゃんだよ」

「めっちゃかわいくてエロいじゃん!」

「やめとけよ、大島〇るもびっくりの超絶大事故物件だぞ。人間として致命的な難ありだからな」

 こんなところで下手に同級生と仲良くなってもらったら、歴史が変わって、このなかの誰かが義兄になってしまうことになりかねない。

 (ったく、あんな場末ばすえのキャバ嬢みてぇな格好してきやがって)

 謝恩会は保護者代表、教員代表、それから卒業生代表らが順番にスピーチをして、花束贈呈などのセレモニーがあり、そのあとはパーティーパートとして、立食となる。

 パーティー冒頭、幸太は美咲がお義母かあさんと二人でいるのを見つけた。

「こんにちは」

「あら、幸太君。こんにちは」

「ご無沙汰ぶさたしております。お嬢様の第一志望合格、おめでとうございます」

「合格できたのは幸太君のおかげだって、娘が言っていたわ。こちらこそありがとう」

「いえ、僕はお役に立てるようなことはなにも」

「支えてくれる人がいるというのは、それだけで大きな力になるものよ。これからも、娘の一番大切な人でいてあげてね」

「ありがとうございます。お嬢様は僕のすべてです」

「あははっ、美咲ちゃんがすべてだって」

 お義母さんは、顔立ちもどことなく美咲に似ているが、特に笑い方がよく似ている。花がぱっと咲くような、明るく華やかな笑い声だ。

 それと、会話の端々はしばしでまれにウィンクをする。これも、特徴的な仕草として美咲に受け継がれているようだ。

 お義母さんが場を離れたあと、美咲と話していると、まずいことに幸美に見つかった。

「あっ、マシュマロちゃんじゃない!」

「げっ」

「おほん、私、コーちゃんの彼女です。そちらはどなた?」

「いやほんとにふざけんなって。美咲、違うんだよ」

 美咲が傷つく、誤解を解こうと横を振り向くと、彼女は思いもよらずむっとした表情をしている。

 オレンジジュースのグラスを両手で握りしめながら、彼女は珍しく強い口調で反論した。

「彼女なんて嘘です。コータはいつも私のことだけを見てくれてます」

 (美咲……こんな気の強いところがあったのか)

 美咲と付き合い始めてもう半年近くになるが、未だに彼女に秘められた一面があることを知って、幸太は驚きもしたし、うれしくもなった。

 なにより、美咲が彼の愛情を完全に、かつ絶対の確信を置いてくれているということに感動した。

 幸美はきょとんとしたが、すぐに目を輝かせ、ワクワクしたような表情を浮かべた。

「マシュマロちゃん、かわいい……!」

「……?」

「美咲、ごめん。こいつ俺の姉ちゃんなんだ……」

「……お姉さん?」

「ほんと頭のネジの飛んだ姉貴でさ、関わるとロクなことないから、無視でいいよ無視」

「おいっすー、コーちゃんの姉の幸美です、どもども」

「もうちょっと挨拶の仕方あるだろ」

「手前より発します。自分、名を早川幸美と名乗り、見ての通りのしがなき者にござんす。行末万端御昵懇ゆくすえばんたんごじっこんに願います」

「あ、はい、あの、私、松永美咲です。よろしくお願いします」

「あっち行けよ。これ以上つきまとうとわりと本気めに殴るからな」

「ひえーっ、お代官さまーっ!」

 邪魔者の首根っこをつかんで追い出したあと、幸太は美咲の心情を心配したが、幸いなことに、彼女はあまり気にしていない様子だった。

「美咲、ごめん。動揺させちゃったよね」

「ううん、私も、ついムキになっちゃった。でもほんとは怖くて、手が震えちゃったの」

「嫌な気持ちにさせてごめんね」

「お姉さん、面白くて変わった人ね」

 いくら幸美がぶっ飛んでいようと、美咲の幸太に対する信頼は損なわれていないと信じたいが、お義母さんには接触させたくない存在だ。せっかく良好な関係を築きつつあるのに、我が家の恥をさらすと幸太に対する評価にも響く。

 見ると、お義母さんは別の保護者との会話に夢中になっているようだ。

「コータ」

「う、うん?」

「明日の話、してもいい……?」

「あ、うん、もちろん」

「明日、11時に、うちの最寄り駅で待ち合わせてもいい?」

「うん、大丈夫だよ。直接、家に行ってもいいけど」

「ううん、いいの。コータと一緒に歩きたいから」

 美咲は甘い微笑みとともにぱち、と片目を閉じてみせる。

 (あぁ、ふつくしい……)

 こんなにも愛らしく、いとおしい美咲と、自分は明日、ついに結ばれるのだろうか。

 それを想像すると、早くも歯の根が合わぬほどに緊張する幸太であった。

 (くそっ、体だけじゃなくて、心まで童貞になったみたいだ)

 いずれにしても、それもこの日限り、ということにはなるだろう。

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