第9話 告白

「早川君、ちょっと来て!」

 金曜日のホームルーム終了直後、幸太は酒井という女子に呼び出された。

 (なんだよ、今日は家でビーフシチューつくるんだから、忙しいんだ)

 だが、美咲が近くにいる手前、あまり邪険にもできない。

「それじゃ松永、また来週」

「うん、じゃあね」

 美咲は何か知っていたのだろうか、返す声がひどく小さかった。

 酒井に導かれた先は、学校敷地の外れにある裏庭である。学生連中からは、『告白部屋』と通称されているエリアだ。人通りが極端に少なく、学校内のあらゆる動線から外れているために、告白をするくらいしか使い道がないためだろう。

 ベンチに、大野が座っている。

「はい、行ってあげて」

 と、酒井が促した。

 (なんだよ、これ)

 幸太は少々の不愉快さとともに、大野の隣に座った。彼女はしかし、幸太の顔を見ようともしない。というより、見ることができずにいるのだろう。

 幸太が黙って耳を傾けているなか、大野は時折、拳を握りしめたり、膝を震わせながら、もごもごと何事かを口にした。要するに、幸太のことが好きらしい。

 当事者である幸太としては、これは実におせっかいと言うべきだが、大野のために少しフィードバックをしたくなった。想いを伝えたいなら、しっかり言葉にして、相手の目を見ながらした方がいい。それに本当に真剣な気持ちを示すなら、関係のない第三者をあいだに挟まない方がいい、雑音が介在すると誠意が伝わらない。酒井だけじゃない、ほかにも何人か、校舎の陰からこちらをのぞいているぞ。

 もっとも、こうした相手のためを思った率直なフィードバックは、良い部分も悪い部分も含めて互いに指摘し合うというコミュニケーション文化が醸成されていない高校生にとっては、やや酷に思われるかもしれない。

 (さて、どう断るかだな)

 さしあたり、幸太はその点に集中して答えを提示するべきだと思った。

 最も懸念けねんすべきは、断ったことによって大野とのあいだにわだかまりが生じ、幸太自身の学校生活がやりづらくなったり、万が一にでも美咲に飛び火するような事態である。気持ちはありがたいが、正直、邪魔だけはしないでくれという思いが強い。

 (こういうときは結局、自分の誠意をあふれるくらいに見せて、相手の気持ちを呑んでしまうことだ)

「大野、気持ちを伝えてくれてありがとう。すごくうれしいし、君が俺のことを想ってくれたことはすごく大切にしたい。だけど、君の気持ちに応えることはできない。俺には好きな人がいるんだ。その人を守りたいし、ほかの誰にも渡すつもりはない。後悔しないように、その人のことを精一杯に愛したい。だから、もし俺のことを好きでいてくれるなら、俺の気持ちも分かってくれるとうれしいよ」

「……誰?」

「今は言えない。その人に伝えるまでは」

 長い沈黙があった。そのあいだ、大野は何度か、涙をぬぐった。

 幸太も、泣きそうになった。もらい泣きしたわけではない。美咲に対する想いの大きさと強さがあふれて、涙腺るいせんにまで流れ込んできたのだ。

 大野は最後に、一度だけ幸太と目を合わせ、うなずき、そして去っていった。

 週が明け、教室にはすでにその話が広まっていた。幸太は、あまりいい気分ではない。

 中川は何も言わず肩を叩いてくれた。

 伊東も、そっと「聞いたよ、頑張ってね」と励ましてくれた。

 美咲は、少なくとも表面的にはいつもと変わらない。ただ、どこがどうとは言えないが、幸太にはほんのかすかな変化が感じられる。しかもそれは、彼にとってはあまりいい変化とは言いがたいようだった。

 週の真ん中水曜日。

 放課後、いつもの公園に行ってみた。

 美咲は、この日はなぜか、サックスを吹いていない。

 この前、幸太が美咲の写真を撮ったその場所で、同じように座っている。座っているだけだ。

 まるで、誰かのことを待っているように。

 幸太の姿を認めると、彼女は口元だけで笑った。

「早川君、今日も来たんだ」

「偶然だね」

「うん、偶然、だね」

 幸太は美咲の気持ちを知りたいと思った。彼女は、彼女と仲のいい大野が幸太に告白し、そして断られたことを知っているだろう。そのとき、何かを感じたはずだ。感じたからこそ、幸太には彼女に変化があったように感じられるのだろう。

 その気持ちを知りたい。

 そう思い、幸太は黙った。自分でも異様に思えるくらい、黙り続けた。同じほどに、美咲も黙っていた。

 二人で並んで座り、ただじっと、無言で原っぱをながめていた。

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 それくらい、つまり時間の感覚が麻痺まひするほどに、そうしていたということだろう。

「どんなひとなの?」

 先に話を始めたのは、美咲だった。

「何が?」

「早川君の好きなひと」

 この瞬間、幸太のなかで何かが崩れ、何かが壊れた。

 それは彼の子どもの部分だったか、あるいは大人の部分だったか。

 とにかく、彼のすべてがこのとき、消えた。

 彼の心には、今、彼の隣にいるそのひとへの、まっすぐな想いだけが残った。

「俺の好きなひとは……」

 幸太は、そのひとを愛する気持ちのすべてを、ゆっくり噛みしめるように言葉にした。


 そのひとは、笑顔がとても素敵なひと。

 いつも明るくて、輝いていて、ほかの誰にもない愛嬌がある。

 ただ見てるだけで、俺は幸せな気持ちになれる。

 優しくて、思いやりにあふれていて、あたたかい心を持っている。

 ただそこにいるだけで、俺はいとおしくなる。

 打ち込めることがあって、真剣に向き合ってることがある。

 全部が素敵だけど、俺が一番好きで大切なのは、そのひとの笑顔。

 彼女の笑顔を、俺が守っていきたい。

 俺が、そのひとを笑顔にしたい。

 そばにいたい。

 そのひとと、いつも、いつまでも一緒にいたい。


 美咲は、何も言わなかった。

 決して、何も言おうとしなかった。

 息をしていないのではないかと思うほど、静かだった。

 幸太には、最後に伝えるべきことがあった。

「これ、俺が世界で二番目に大切にしてる宝物」

 そう言って、ノートから一枚の写真を取り出し、手渡した。

 その写真を、あの日から何度、いとおしい気持ちとともに眺めたことだろう。

 美咲は写真を手にして、それでもかたくなに言葉を発することはなかった。

 彼女の表情を、幸太は見ることができなかった。見るべきでない気がした。

 そして、美咲は去った。彼女が座っていた場所には、ノートと、写真がある。

 ノートには、一粒の涙がしみこんだ跡が、くっきりと残されていた。

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