第7話 世界で二番目に大切な宝物

 週末、幸太は中川らのボウリングの誘いを断り、ほとんど忘れ去っていた数学の復習をし、宿題もすぐに終わらせた。

 (高校生も大変だよな。授業に部活、帰っても宿題に習い事、アルバイトして友達と遊んでその上、恋もして、ときたら……)

 まったく時間がいくらあっても足りない気がする。

 しかし、時間をどう使うか、それこそが人生の真髄であるとも幸太は思っている。

 デキる人間、幸せな人間ほど、時間の使い方がうまい。そういう人間は時間のすべてが投資になっていて、消費でもなければ浪費もしない。無駄な時間を切って、自分に意味のあることにだけ時間を使う。それは実は、高校生でも実践できることだ。実際、勉強も運動もトップで、アルバイトもし、しかもイイ人までいる高校生が存在するのは、つまり時間をどう使っているかに、その秘訣ひけつがある。

 (ともかく勉強の方は、ブランクはあっても思い出せてきている。あとは少し金を稼ぐことだ。大きな額は必要ないが、自由と裁量を担保するにはそれなりに元手も必要になる)

 だが、高校生はできる仕事も限定される上に時給も低い。2010年、東京都の最低賃金はなんと821円、目を疑う数字だ。米ドル対円相場は90円台、日本は持続的なデフレーションから抜け出せていない。

 このような状況下で、本来は働き盛りと言っていい年代の幸太がちまちまバイトをしても時間の切り売り以上のことはできないだろう。できれば、インセンティブがつくか、フルコミッションの仕事がいい。

 (実家だから営業電話の仕事もやりづらいな。時間の無駄を省くためにもできれば在宅の方が都合がいい。となると……)

 決めた。

 出会い系サイトのサクラをやることにした。

 この頃はのちにマッチングアプリなるライトな表現に衣替えをして市民権を得る前、つまりいわゆる出会い系サイトといういかがわしいイメージを背景に持った言葉が主流の頃で、実際にそのなかにはサクラをやとい、利用者を巧妙に課金へと誘導する悪質な業者も多かった。サクラは、美人でエロい女、簡単に股を開きそうな尻軽女、素朴に見えて欲求不満な人妻などをよそおっているが実は委託会社のスタッフどもで、こういった連中が何も知らない男と電子メールを介してポイントを使わせ、養分(金)を吸い取るのだ。

 幸太は応募し、面接では件数をこなせることと成果にコミットメントすることを伝えて、無事、委託会社の最年少スタッフとして採用された。

 こういうのは世の中をよくするよりも、どちらかといえばその逆の方向に作用する仕事で、幸太も本意ではなかったが、彼には時間が限られているわけだから、仕方がない。それに一度、日の当たらない仕事も経験してみたかった。

 来週から入社ということで、火曜、木曜、土曜を勤務日にした。

 さて、水曜日である。

 この日、幸太はお蔵入りしていた一眼レフをバッグに入れて登校している。彼は生まれ変わって、散歩と写真撮影を趣味とする高校3年生になった。今日も、大正記念公園へ行く。

 放課後。

 入り口からずんずん歩いてゆくと、やがて原っぱが見える。とにかく広い。4月も半ばを過ぎて、天候もすこぶる良好だ。犬の散歩をする人、ランニングをする人、原っぱに寝転がる人。

 サックスを吹くひと。

 幸太は最大望遠で、原っぱの真ん中に立つその人をのぞき込んだ。

 こころよい緊張感とともに、シャッターを押す。

 この日も、幸太は彼女の背後から演奏の合間に声をかけた。

「それ、なんていう曲?」

 目を大きくして、美咲が振り向いた。

 日本には見返り美人、という素晴らしい言葉がある。ふと何気なにげなく振り向いたようなときにこそ、その女性の美しさが出るものだ。膝を曲げ、上体をサックスとともにひねって振り向いた美咲の姿は、その言葉が表現するそのままの風情ふぜいだった。

「これ、キラキラっていう曲」

「あ、そのタイトル聞いたことあるかも」

「この曲、勇気が出るから好きなの。特にサビのとこの歌詞が」

「松永はセンスがいいよ。音楽やってるから、当たり前かもしれないけど」

 ここで、美咲は幸太が首からかけている一眼レフが気にかかったらしい。

「カメラ?」

「うん、一眼レフ」

「そういうのって高いんでしょ。もしかしてカメラも趣味?」

「そう、カメラも趣味」

「どんな写真? 見せて!」

 それはまずい。すでに何枚か撮ったが、そのすべてに美咲が映っている。データを見れば、幸太が何を被写体として撮影しているのか、一目瞭然である。

「いや、これまだ買ったばかりで、何も映ってないんだよ」

「そう、残念」

「それより、またさっきの曲、聞かせてくれる?」

「いいよー」

 美咲は一瞬、メンタルを整え、左足のつま先を上下させてリズムをとりつつ、息を大きく吸って音を出した。

 先週の曲は、ドラマチックなラブソングという印象だった。この日の曲は、一転して明るく、美咲が言うような勇気を与えてくれるような曲調だ。なるほど、キラキラという名前がよく合っている。

 聞いているうち、幸太の心のなかにも、熱くてまっすぐな勇気があふれてきた。

 そしてやはり、人前でも臆することなくサックスを吹き鳴らす凛々りりしい美咲の姿に、いとおしさがこみ上げてどうしようもない。

 彼女は決して手を抜かなかった。全力で、一つひとつの音と向き合っていた。いつも真剣だった。

 それが、胸の奥がぐっ、と痛くなるほどに、美しい。

 演奏が終わったあと、幸太はまた、大きな拍手を送り、原っぱをぐるりと取り囲む舗道ほどうまで彼女を誘った。

「松永、そこに座ってくれる?」

「いいけど、どうするの?」

「モデルになってほしいんだ」

「え、私?」

 恥ずかしい、と言いつつ美咲はゆっくり、擁壁ようへきに腰を掛けた。

 幸太は心臓の激しい高鳴りとともに、カメラを構えた。

 が、美咲の姿勢やたたずまいに緊張感がある。幸太は美咲の、やわらかく自然な表情が見たい。

「松永、一緒に歌おう」

「え、歌うの?」

「そう、一緒に歌おう。ほら、前に聞かせてくれたあの歌」

 美咲は左足でリズムをとりながら、おずおずと歌を口ずさんだ。その透き通るような歌声は徐々に大きくなっていく。

 幸太は、カメラに目線を向けながら、楽しそうに、うれしそうに微笑む美咲を、ようやくシャッターに収めた。

 その瞬間、幸太は世界で二番目に大切な宝物が自分の手元に生まれたことを感じた。

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