王太子に恋をした姉の結末

秋保千代子

姉が語るには

 山の夏は短い。

 短いからこそ花は鮮やかに咲く。赤いツツジ、青紫のリンドウ、白いウスユキソウ――これら色とりどりの花たちに人々は毎年心躍らせる。

 今年は、心躍らせるだろう出来事がもう一つある。牛や山羊の放牧の合間を縫って、南の国から花嫁がやってきたのだ。

 白い雲を刺し貫かんばかりの勢いで空に伸びる尖塔の、時計台の鐘が鳴り響く。

 祝福の鐘だ。

 王太子と隣国の姫君の成婚を祝う旋律。

 通りは思い思いの花束を抱えた市民で埋め尽くされている。


 私は、通りから一歩下がった館の窓から、その浮き足だった人の群れを見下ろしていた。

 病弱な王女は今日という祝いの日でも外に出ることはない。

 同じ部屋にいるのは侍女一人きり。分厚いカーテンを開け放った傍に置かれた布張りの椅子に腰を下ろして動かない私に、彼女は。

「あまり外の空気に触れるのは、お体に障るのでは」

 こう言ってきたけれど。

「お黙り」

 振り返りもせずに言えば、それっきり黙ってしまった。

 私も侍女も口を開かない。部屋の中で声がしなければ、外から聞こえる喧噪もとても遠い。

 静けさの中で、私は唇を噛んだ。


 まもなく行列パレードが通る。本日夫婦となった王太子と花嫁が、晴れ姿を見せに来る。

 私にとっては見たいものではないけれど。

 通りを埋める人々は笑っている。この結婚で苦悩を強いられている者がいると知らぬから、明るい顔をしていられるのだ。


 南北を大国に挟まれた、山間の国の世継ぎとして生まれた弟は、賢い。

 八歳で法律の書を読み解いて、十歳の時には国の外交官と政治取引を論じ合っていた。

 賢いばかりでなく美しい。栗色の巻き毛、高い鼻に凜々しい眉。きめ細かな肌。十四を過ぎるとぐんと背が伸びて逞しくなった。乗馬で衛兵よりも速く走ると聞く――聞くだけで見たことはないけれど。

 賢くて美しい弟。恋に落ちるのは当然だ。誰もが恋に落ちるに違いない。

 姉である私も恋をしたのだから。


 美しい者と結ばれたいというのは自然な欲求ではないのだろうか。

 弟が好き、という言葉を最初は微笑んで聞いていた母が、やがて苦々しそうに眉を寄せるようになった。

 父は私を見なくなった。

 そこかしこで人が笑う。

 何故、姉弟だというだけで、この恋は認められないのだろう。


 私が十八を過ぎて、くだらない縁談が舞い込むようになってから。

「欺きましょう」

 弟は言った。

「素直な気持ちを伝えて引き離されるよりは、周りすべてを欺いてでも共にいる道を探しませんか?」

 微笑んで向けられた言葉に、迷うことなく頷いた。

 それ以来、太陽から遠ざかった。食事も減らして、わざと体を弱くした。

 くだらない縁組を断るもっともらしい理由に私はほくそ笑んだ。

 誰と会うこともない、ただ存在するだけ。部屋に隠る毎日の中でも、弟の訪問だけが喜び。

 一日たりとも顔を見ない日は作りたくないのに、さすがに今日は仕方ないですね、と弟は言った。


 今までを思い返しているうちにやがて、教道を埋め尽くす声が一段と華やかになった。

 主役が通るからだ。

 馬車の上の弟は手を振り続けている。

 私はまた奥歯を鳴らした。


 この後は晩餐会の時間だ。

 王城に戻ってから、いよいよ会えぬと思っていたのだけど。

「会いに来てしまいました」

 正装のまま、弟は私の部屋にやってきた。


 椅子から立ち上がった瞬間によろけたけれど、それをしっかりと支えてくれる。

「嬉しい」

 厚い胸板に手を添えて呟くと。

「姉上は素直だ」

 笑い声が聞こえた。

 そのまま暫し、温かな抱擁に浸った後、角にひっそりと立ったままの侍女に視線を送る。

「おまえ。弟に飲み物を」

 頭を下げた彼女が出て行くと、弟は私を抱きしめて直して。

 手を握った。

「貴女にこれを」

 冷たい感触。手のひらにすっぽり収まってしまう大きさの物。

「僕の寝室の、裏の扉の鍵です」

 わかりますね、と重ねられた言葉に頷く。

 万が一の備えに、城には隠し通路が巡らされている。国王一家の居室からのそれは外へと繋がっていた。

 この部屋も、暖炉の奥に扉があると視線を向ければ。

「貴女の部屋と僕の部屋は繋がっている。今夜はこちらからお越しください」

 耳元で囁かれる。

 やがて侍女が戻ってくると、弟は体を離した。香りを無視して表の扉へ手をかける背中に声をかける。

「もう時間がないのかしら」

「ええ、今は。楽しみは後にとっておきたいのですよ」

 去り際の笑顔に胸が高まった。


 これは許しだ。

 神が許さなくても、弟が、恋うる人が許してくれるのならば。

 私はこの体を捧げられる。


 喧噪から切り離された部屋、夜半。

 寝台で体を起こしたままでいると、また声をかけられた。

「まだ読書を続けられるのですか?」

 答えず、頁を捲る。すると、侍女はランプの灯りを落とさずに出て行った。


 扉が閉まって、待つこと十分。私は足音を殺して床に降り立った。ランプを手にして、暖炉の奥の小さな戸を引く。

 軽々と開いたそこへ、私は踏み出した。

 通路は暗い。音を立てるのは風か、虫か、悪魔の類いか。だが恐れることなく進める。

 この手の光は希望。

 息が上がり、足が重くなり、それでも進む。やがて見えた扉を押すと。

「姉上」

 愛しい声が聞こえた。

 過たず着いたのだ、と唇が震える。

 長椅子に腰掛けていた弟が立ち上がり、私に歩みに寄ってくれたから。ランプを捨て、両手を伸ばした。


「ご無事で、姉上」

「ええ、貴方の元にたどり着けたわ」


 温かな腕が私の体を包んでくれる。これで恐れることはない。

 安堵のあまり目を閉じる。唇にひやりとしたものが触れた。

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