第9話 こんな誘いは嫌です

 

 梅雨のみぎり。木々の緑が深まるころ、王立学園では学園祭を迎えようとしていた。ロベリアたちにとっては、最後の学園祭である。


(……困ったわね)


 ロベリアは校庭の片隅で、木の枝に引っかかっているスカーフを見上げながら頭を悩ませていた。


「あの……ロベリア様。もう次の授業が始まるので、後で人を呼んで取ってもらいましょう?」

「でも、次のリリアナの授業の先生、やたらと身だしなみに厳しい方でしょう? 胸のスカーフを付けていないと叱られてしまうわよ」

「それはもう仕方ないことですし……」


 この学園の女子生徒は、制服に赤いスカーフを付けている。リリアナが緩くなったスカーフを結び直そうとした際、強風に飛ばされてしまったのだった。

 相当高いところに引っかかっているので、木に登るなり、脚立を持ってくるなりしなければ取れないだろう。


 ちょうどそのとき。教本片手に石畳の道を颯爽と歩いているユーリの姿をロベリアの視界が捉えた。彼女は彼の袖をぐいと引いて引き留める。


「なんだい急に」

「ちょうどいいところに来たわね。ユーリ様、ちょっと踏み台になってちょうだい」

「は?」


 彼は、突拍子もない頼みにぎょっとした。


「ロ、ロベリア様!? いくらなんでも、ローズブレイド小公爵様に馬になれというのは恐れ知らずにも程がありますっ!」


 ユーリ以上に、リリアナの方が驚愕し、畏怖の念に青ざめている。


「庭師を後で呼んできたらいいだろう?」

「彼女にはすぐにスカーフが必要なの」

「無茶言うなよ」

「肝心なときにあなたって使えない人ね。別に減るもんじゃないでしょ? 馬になるくらい」

「僕の名誉に大きく関わるだろ」

「そんなの知ったこっちゃないわ」


 なんという傍若無人ぶりか。――結局、しばらく揉めた後、ロベリアが自分のスカーフを彼女に貸すということで話は落ち着いた。



 ◇◇◇



「――それで? どうしてユーリ様が私の隣で授業を受けていらっしゃるの?」

「別に。たまたま同じ授業だったからだよ」


 リリアナと別れた後、ユーリと授業が重なっているということで、一緒に西の講堂にやって来た――はいいものの。


「ユーリ様。そのキラッキラオーラ早く収めていただけない?」

「キラキラオーラって何だ? 生憎、僕が煌めいてるのは生まれつきでね。そう都合よく出したり消したりできるものじゃないんだよ」

「まあ。あなた、謙遜って知ってる?」

「少なくとも僕の辞書にはない言葉だ」


 講堂内の令嬢たちは、ちらちらとこちらを覗き見て噂話をしている。ユーリは普段、極端な程に令嬢たちとの交流を避けている。そんな彼が、平凡な令嬢と並んで授業を受けているのだ。注目されるのも当然かもしれない。


 令嬢たちの羨望の眼差しが集まったところで、ロベリアはマイペースだった。普通なら周りの反応を意識して、下手な姿を見せないよう気を引き締めたりするものだろう。しかし――。


 ロベリアは、こくん、こくんと首を揺らしながら居眠りを始めた。麗しの貴公子が隣で呆れていようと、全く意に返さず。令嬢たちは、白目でよだれを垂らしながら居眠りをしているロベリアを見て、その腹の座りっぷりに驚愕している。


 すると、ユーリがロベリアの背中をそっと叩いて囁いた。


「君、指名されてるよ」

「えっうそ……」

(ええっと……どこの問題……?)


 教師の指名を受けて、ロベリアは慌てて立ち上がる。先程までまどろみの中にいた彼女は、当然答えられるはずもなく。するとユーリが気を利かせてヒントを呟く。


「問四の――漸化式。まずは因数分解して」


 ロベリアは慌てていたため冷静な判断がつかず、頭の中で彼の言葉を処理する前に、聞いたままを声に出した。


「前科者が……隠ぺい、分解して……?」

「はい?」

「へ?」


 まごついた声で、よく分からない文言を口にすると、教師は眉をひそめた。


「アヴリーヌ嬢、寝ぼけているんですか」

「…………」


 もう一度ユーリの方を振り向くと、彼は笑いを堪えながら言った。


「問四の漸化式。三項間漸化式に、項を分けて因数分解するんだよ。埋めるのは遺体じゃなくて数字……ね」

「!」


 ロベリアはここで、今受けている授業が数的処理だったことを思い出す。半覚醒状態だった意識がはっきりと目覚め、全身から血の気が引いていく。ロベリアは急いで教本を確認した。


「わ、ええと、間違えました! 初項3、公比3、項数はn-1です」

「正解。座りなさい」

「…………」


 講堂内の空気は氷ついている。ロベリアは遠い目をしながら着席し、天井を仰いだ。



 ◇◇◇



 きっと、人前でこれほどまでに赤っ恥をかく経験はそうそうできないだろう。授業が終わり、転がるように講堂を逃げたロベリアは、所在なく歩いた。今も脳裏に、生徒たちの白い目が鮮明に焼き付いている。普段からおちゃらけた生徒ならともかく、ロベリアのような目立たない生徒が妙なことを言うと、大抵の場合空気は最悪になる。


 ロベリアの隣でユーリは沈黙している。


「あの……何か言ったらどうなんです」


 馬鹿にするなら馬鹿にしろ、と彼を睨みつけると、彼は立ち止まって小刻みに震え出した。


「ふっ……あははっ……はは……っ」

「!」


 ユーリはお腹を押さえ、涙目になりながら笑いだした。人目もはばからず、大口を開けて笑っている。


「ははっ、本当に馬鹿だなロベリアは。あははっ、おかしい……。ロベリアの魂が抜けかけた顔、今夜夢に出てきそうだよ……っ」


 こんなにも屈託なく笑う姿を見たのも初めてのことだ。


(ユーリ様は、こんな風に笑うのね)


いつも大人びているが、思い切り笑う姿は年相応、というより子どものようだった。


「ふ、はは……っ、ああ、駄目だ。……お腹が痛い」

「…………」


 大勢に冷えた眼差しを向けられた中で、唯一ユーリだけは面白おかしく笑ってくれた。

 馬鹿にされているというのに、面白そうに笑うユーリの姿を見て、ロベリアは不覚にもときめいてしまったのだった。



◇◇◇



放課後。


「もうすぐ学園祭で、皆さんどこか浮き足立っていますね。私も今年はお友達ができたので、とっても楽しみです……!」


 ナターシャは他の生徒からこれまで敬遠され、友人らしい友人はいなかった。貴重な行事を今年こそめいいっぱい楽しんでほしいと思う。


「ふふ、思いっきり楽しむといいわ。そういえば、シュベットが「今年こそ剣術大会で優勝する!」って張り切っていたわね」

「私……大会を観戦したことがないのですが、タイス様やポリーナ様から、シュベットさんは大変優れた剣の使い手だとお伺いしています」

「ええ。私は毎年応援に行っていたけれど、惚れ惚れしてしまう姿だったわ」


 学園祭では、催しの一つとして剣術大会が行われる。剣術学部の生徒たちにとっては、好成績を残すと騎士団からスカウトがあったりするので、進路においても重要な行事だ。


 シュベットは既に、ドウェイン王国の第二騎士団に内定が決まっているので、実力試しの参加だろう。この大会に賭けている生徒からすると、彼女は厄介な存在かもしれない。

 剣術学部は、女子生徒が一割に満たないので、シュベットは相当に優秀である。


「それと、私……今年は学祭後の夜会に出席しようと思っているんです。去年までは人目が気になって諦めていたんですが、タイス様とポリーナ様が誘ってくださったので……」


 学園祭は三日間にわたって行われ、最終日の夜には夜会が開かれる。社交界デビュー前の若者たちが、パーティでのマナーや作法を学ぶ目的があり、それぞれパートナーを連れての参加となる。……大抵は、カップル同士の参加で、ロベリアのような独り身はお呼びでない行事だ。


 タイスとポリーナは良家の令嬢であり、幼い頃から婚約者がいる。相手も王立学園の生徒なので、彼らと出席するのだろう。羨ましい限りだ。


「ナターシャのパートナーは、王太子殿下?」

「…………」


 ナターシャは照れくさそうに顔を染めながら頷いた。

 人目に触れる夜会だが、ナターシャが参加したいと前向きに感じているのなら、それは結構なことだ。


「……ロベリア様は、夜会には出席なさらないのですか?」

「ええ。そのつもりよ」


 ロベリアには特定の相手はいない。アヴリーヌ家は家督継承に特に問題もなく、アヴリーヌ夫妻は愛娘に恋愛結婚を望んでいる。しかし、両親の配慮も虚しくロベリアには浮いた話のひとつもないのだった。


「そうですか……。せっかくならロベリア様も一緒に参加したかったので、残念です」

「ふふ、私の分まで楽しんでおいで」


 残念そうにしゅんと肩を落としたナターシャを慰める。

 二人で校舎内の広い廊下を歩いていると、視線の先に人集りが見えた。複数の令嬢たちが一人の青年を囲っている。囲っているというより――群がっている、という感じ。


「ユーリ様! ぜひわたくしのパートナーとして夜会に出席してくださいませ!」

「どうか私と一緒に……!」

「私、ユーリ様のペアとしてどうしても踊りたいです……!」

「いえ、私よ……!」


 令嬢たちに囲まれ、軽薄そうな笑みを浮かべる彼は、言うまでもなくユーリだった。


(うわぁ……なんなのよあれ……。それにしても、今日はよくユーリ様を見かけるわね)


 誘いの殺到ぶりに、ロベリアはぽかんと口を開けた。さながら、市場の目新しい高級魚の競りでも見ている気分だ。すると、その人集りを掻き分けて、リリアナがこちらに走ってきた。


「ローズブレイド小公爵様、凄い人気ですね。……道を通ろうと思ったら、ご令嬢方に押しつぶされるかと思いました」


 リリアナのウェーブのかかったダークブロンドの髪は、人混みに揉まれてすっかり乱れている。また、息切れをして疲弊している様子だ。


「無事生還できただけマシよ。下手をしたら踏みつけにされて屍になっていたかもしれないわ」

「恋はいつでも命懸けですね。……あ、そうだ! ロベリア様、はい! スカーフをお返しにあがりましたっ!」

「ありがとう、確かに受け取ったわ」


 ロベリアは彼女からスカーフを受け取り、胸に結んだ。ナターシャは、圧倒された様子で人集りを眺めていた。


「ユリちゃん……相手なら引く手あまたなのに、これまで一度も夜会に参加しなかったみたいなんです」

(そりゃあ彼はあなた以外の女性には目もくれないもの)


 内心でツッコミを入れる。すると、人集りの中からこちらの姿に気づいたユーリが、手招きした。


「あれ……? ユリちゃん、私たちのこと呼んでる?」

「ナターシャ、無視よ無視。あなたみたいなか弱い乙女は、怖ーい猛獣レディーたちの餌食になってしまうわよ」


 ロベリアはナターシャの肩をそっと叩き諭した。

 厄介事は御免だ。ユーリに熱を上げている令嬢たちの前にのこのこと歩いていくのは、飛んで火に入る夏の虫である。しかし、ロベリアがナターシャとリリアナを連れて人集りから離れようとすると――。


「きゃあっ!」


 ロベリアはユーリにぐいと腕を引かれ――腰を抱き寄せられた。


「せっかく誘ってくれたのにごめんね。僕は彼女との先約があるんだ」

「はぁ!? ふざけな――むぐ……んん!」


 ユーリに片手で口を塞がれ、言葉を遮られる。眉間に皺を寄せたロベリアの耳元で囁いた。


「悪いけど、僕に合わせて。ほら……困ってる人は助けるのが信条――なんでしょ? 助けてよロベリア。僕、今とても困っているんだ」

(それとこれとは話が違うわ! 自分の身の安全が第一よ!)


 ユーリの腕の中で身じろいでいたロベリア。しかし、彼女も人がいいので、結局観念して助けてやることにした。

 ロベリアは、令嬢たちを牽制するように微笑みを浮かべた。


「……そ、そういうことなの。あなた方には悪いけれど、他の方を当たってくださる?」

「…………!」


 ユーリは、令嬢たちに畳み掛けるように、更に近くにロベリアの身を抱き寄せる。


 令嬢たちは、突然のパートナーの出現に茫然自失となり、悲鳴を上げながら走り去っていった。


「ユーリ様」

「何?」

「この手、離してください」

「はは、ごめん」


 ユーリの腕から解放されたロベリアは、不満げに彼を睨みつけた。彼は愛想良く笑いながら言った。


「虫除けになってくれて助かったよ」

「ご自分に好意を寄せている女性たちを、虫呼ばわりするだなんて酷い男ね。彼女たちが虫なら、あなたはさしずめ虫が集っている道端の馬糞ってところかしら」


 ロベリアが嘲笑うように鼻を鳴らすと、彼は頬を引きつらせた。


「この世で僕をそんなものに例える令嬢は、せいぜい君くらいだよ。下品な人だ」

「恩人に生意気よ」


 ロベリアとユーリが言い合っていると、目を輝かせたナターシャが駆け寄ってきた。


「…………素敵!」

「……?」


 両手を祈るような形で組み、感無量の表情を浮かべている。


「ロベリア様はユリちゃんのペアで参加されるんですね! 大好きな二人と一緒に出られるなんて、夢のようです……!」


 きらきらと子犬のような期待の眼差しを向けられ、今更「その場しのぎについた嘘です」などと言うのがいたたまれない状況だ。


「ユーリ様……貸しひとつでは足りないですよ」

「ああ。……そうだね」


 ロベリアとユーリは、互いに顔を見合わせて苦笑した。そんなこんなで、二人は一緒に夜会に出ることが決まった。

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