第1話 見知らぬ美青年
日曜礼拝の後で、美羽は神父やシスター達と一緒に朝食を取るため食堂に移動していた。食事をとりながら美羽は、今まで礼拝の時にずっと疑問に思っていたことがふと湧き上がってきて、胸の十字架を握りながら父である神父の
「ねぇお父さん、人は亡くなったら本当はどこに行くのかしらね? キリストの教えでは人は天国へ行くことになっているけど、悪い事をした人は地獄に行くといわれるでしょ? でも、誰だって間違いを犯すことはあると思うの……。一体どうやってその人の生き方の善悪を判断するのかなってずっと考えていたのよ」
何気ない日頃の疑問だったが、先ほどの礼拝の時に、マリア様に抱かれている赤ん坊のキリストの隣の十字架にかけられたキリスト像を見ていて、ふと聞いてみたくなったのだ。無垢なまま生まれ、人の為に正直に生きてきた人間が、この世で報われない死を遂げたら、あの世ではどこに行くのかと。
「おやおや、美羽、急にどうしたんだね? カトリックの教えでは、亡くなった人の魂は神様が審判するんだよ。生きている時に正しい行いをしたか、それとも
ただし審判を受けて天国へ行く人間も、その前に
ひと言で天国に行くと言ってもとても狭き道だね。そのためにわたくしたちは、皆が最後は天国へ行けるようにと祈っているのだからね」(※)
「なんだかとても難しそうな審判ね。でも、もし仏教や神教や、神様を信じなくて無宗教の人だったら、天国や極楽には行けないということになるの? それでは困るわよね?」
「そうだねえ、まあ宗教によって死後の教えは違うだろうけれど、どの宗教においても、正しい行いをする人は必ず天に導かれるということでは同じなのではないのかな?」
「そうね。私自身も天国へ行けるようにいつも善い行いをしなくてはね。そして、人々のために一生懸命祈りたいと思います」
美羽は宗教の垣根を越えて、自分の両親や裕星の父親のように亡くなった人達の魂がいる世界へと思いを馳せていた。
朝食を終えると、美羽はシスター伊藤と共に徒歩で隣町の教会に向かっていた。
隣町と言っても、目的の教会はすぐ近くにあるため、歩いて行ってもほんの10分や15分程の距離だ。
街へ繰り出す頃はもうすでに夕暮れ時になっていたが、大勢の家族連れや遊びに来た若者たちで賑わっている。これからだんだん日も暮れるというのに、まだまだ日曜の都内は賑やかさが増してくるようだった。
「昨日の雨は本当に酷かったわね。でも、久しく降らなかったから、農家の人たちにとっては恵みの雨になったかもしれないわ」
「そうですね。誰かの不都合が他の誰かの好都合になることってあるんですね。だから、この世は
美羽は人の波にもまれながら、シスター伊藤と
――どうしよう、シスターを見失ってしまったわ……。でも、あの人、大丈夫かしら? もしかして、どこか具合が悪いのかしら?
しかし、苦しそうにうずくまっているその人物に気を留める人間はこの大勢の中に誰一人としていなかった。
――みんな忙しくて気づかないのかもしれないわ。
美羽はいてもたってもいられず、人の波を横切ってうずくまっている男に声を掛けた。
「あのぉ……どうかされましたか? ご気分でも悪いのですか?」
美羽が声を掛けても、その男は聴こえていないのか頭を抱えてうずくまっているだけだった。
美羽はもう一度、男の肩に手を触れて声を掛けた。
「あの……大丈夫ですか?」
すると、男はゆっくり顔を上げて、こちらを向いた。
「……ここはどこですか?」
男は
「あの、もしどこかお怪我をされていましたら、救急車を呼びましょうか?」
「……怪我? いいえ、僕はどこも痛くありません。さっきまでは頭やお腹が痛かったような気がしたのですが……ああ、今はもうなんともないようです」
青年は自分の腹を
「ええと、そ、それなら良かったです。あの、それでは、私は急いでおりますので失礼しますね」
美羽が立ち去ろうとすると、男が「ちょっと待ってください!」と立ち上がって美羽を引き留めた。
「あの、僕は自分が誰かも思い出せなくて……すみません、どうしてここにいるのかも分からないんです」と困り果てたように頭を抱えている。
美羽は少し怖くなった。見知らぬ若い男が、自分が誰だかわからないと言っている状況をとてもまともには思えなかったからだ。
――もしかして、不審者? いきなりナイフなんて出さないわよね?
美羽は究極の妄想をして後ずさりした。美羽が震えながらもうここから一刻も早く去って行こうと雑踏の中に紛れ込もうとしたとき、男はグイと美羽の腕を掴んだのだった。
キャッ! 美羽は腕を捕まれて声を上げてしまったが、ごった返している歩道の人々はチラリと美羽の方を見ただけで、助けてくれようとする者もいなかった。
美羽が腕を振り払おうとしていると、男がスッとその手を放した。
「――すみません、乱暴に腕を掴んでしまって。誰かに助けて頂かないと、僕はどうしていいか……」とまた頭を抱えた。
美羽は恐る恐る男に近づいて行った。男は困ったように辺りをキョロキョロ見回しているだけだった。
持ち物は無かったが、長袖のブルーのセーターとジーンズ姿のラフではあるが洗練された服装だった。その男が本当に困っている様子を見ているうちに、無害な人間であると判断して美羽はやっと言葉を掛けた。
「あの……もしよかったら、交番にご案内しますから、一緒に来てください。きっと一時的に記憶障害を起こしているのかもしれませんから。交番ならきっと何か素性を詳しく調べられるかも」
「交番ですか……分かりました」
男は素直に美羽の言葉に従うようだ。
美羽は、男が後ろから付いてきているかどうか何度も振り返りながらゆっくり歩きだした。
近くにある交番なら知っていた。
――そこなら安心だわ。この人をお巡りさんにお願いしたら、急いでシスターの後を追いかけなくちゃ! もうだいぶ遅れてしまったわ。
しばらく歩くと、やっと交番のこじんまりとした建物が見えてきた。
「あ、あそこです! あそこで訊いてみてくださいね!」
そう言って振り返ると、もう男の姿はなかった。
人ごみの中に紛れて迷ってしまったのだろうか? しかしこの短い距離で、たとえ人ごみの中でも何度も後ろを確かめて来たはずだから迷うはずはない。
美羽は辺りをしばらく見回したがどこにも姿はなく、仕方なく男を探すのを諦めて、シスターと行くはずだった教会へ足早に向かったのだった。
(※注)
カトリックの教えを調べて引用いたしましたが、より詳しい内容については省いておりますので、ご了承くださいませ。
(※)人間万事塞翁が馬
人生は、良いことも悪い事も予測できないということ。
幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。
また、人生において、何がよくて何が悪いのか、後になってみないとわからないという意味。
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