歴史修復師は躊躇わない
白里りこ
第1章 バタフライ
第1話 出番だよ、蝶々さん
やがて、ドンドンと激しめに扉を叩く音がしたので、理玖は寝ぼけ眼を擦りながらむくりと身を起こした。スマホで時刻を確認しながら返事をする。
「んー……ふぁい、います」
「私だ。今いいかな」
「
扉を開けて顔を出したのは、穏やかな雰囲気の年齢不詳の男性である。
「出番だよ、蝶々さん」
言われて理玖は顔をしかめた。
「その呼び方、やめてもらえますか。縁起でもない」
昌史は柔らかく微笑んだ。
「では、理玖さん。たった今、『ノート』上に異常を観測した。過去へ飛んで、原因を究明し、歴史改変を阻止して来ておくれ」
「はーい……。今回はいつのどこですか」
「看過できないレベルで差異が出たのは、一九四五年九月上旬の東京だよ」
またか、と理玖は思った。
「んーまあ、だいたい予測がつきましたけど、一応九月から探してみます」
「よろしく」
理玖は立ち上がり、部屋の一角にある箪笥を漁り始める。ぼろぼろのもんぺを広げていると、昌史は追加でこんなことを言った。
「今回からは、
理玖は手を止めて振り返った。
「え、今回から?」
「うん。貴重な新人だから、あまりいじめないように」
「いやいきなり一九四五年に連れてく方がいじめでしょう」
「おや、どうして? これくらいでへこたれるようではこの先やっていけないし、どうせなら早めに慣れてもらった方がいいだろう」
「あのですね。ライオンみたいに子を崖から突き落とすのは、教育ではなく振るい落としって言うんですよ」
「うんうん。理玖さんもまだ甘いね。そもそも、直弘くんは前にもあの年に行ったことがあるのだから、大丈夫だよ」
「……」
確かに、理玖が初めて
「……分かりましたよ。連れて行きゃ良いんでしょう」
「ありがとう」
「それじゃ私は準備するんで、出てって下さい」
「はいはい」
昌史は丁寧にドアを閉めた。理玖はTシャツとジーパンから、つぎはぎだらけの着物ともんぺに着替え、髪を後ろで編み込んで頭巾をかぶった。理玖たち歴史修復師は、タイムトリップの際、周囲に怪しまれないようにその時代に合わせた服を着るのが鉄則である。特に今回の場合、ぼろをまとっていないと、敵国のスパイだと疑われて捕まってしまう危険がある。
理玖はその他諸々の準備を済ませると、廊下に出て支部長室に向かった。
「昌史さん、入りますよ」
「どうぞー」
部屋では昌史が、ごちゃごちゃと物の置かれたデスクに、分厚い巨大な本を広げてにこにこしていた。そのそばには、軍服に似たカーキ色の洋服に身を包んだ直弘がいる。理玖は直弘の着こなしをじろじろと見た。
「ふーん」
「あ、あの、
「いや、良いんじゃないかな。あと私のことは理玖で良いよ。ここには新巻姓の人間が他にも出入りするからね」
理玖がそう言うと直弘はいっとき言葉に詰まってから、戸惑いがちに言い直した。
「……理玖さん」
「よろしい。……で、昌史さん、何か他に分かったことはありますか」
「うん」
昌史は巨大な本──ゼロ・ノートの、とあるページのとある箇所を指差した。文字がびっしりと書いてある本だが、昌史の示した部分は文字が不気味に赤く光り、一部判読不能になっていた。
「九月三日時点では、東京都日本橋区を中心に、人口が記録よりやや多くなっているよ。それから、いるはずのない英雄の名が密かに語り継がれているようだ。以上」
「了解。では現代史用の旅行時計を拝借します」
「どうぞ。健闘を祈っているよ」
昌史は木材でできた大きめでアンティークな懐中時計を、理玖に差し出した。理玖は鎖の部分を首にかけ、時計の形をした部分を着物の内側に仕舞い込んだ。
「ありがとうございます。では、これで。……行くよ、直弘」
「はっ、はい!」
直弘は緊張した面持ちで返事をし、すたすたと部屋を後にする理玖の後を、不安そうに追いかけてきた。仔犬みたいな新人だな、と理玖は思った。図体はでかいくせに妙な可愛げがある。
このオフィスには三つの部屋がある。支部長室と、事務室と、控え室だ。タイムトリップは控え室で行う。
控え室に入ると、今の理玖と直弘とそっくり同じ姿をした二人組が、丁度出ていこうとしているところだった。
「うわあ! 俺だ!」
直弘は驚いた声を上げたが、理玖は聞き流した。二人組の横を通ってつかつかと控え室を進み、真ん中まで行って直弘を呼び寄せた。懐から例の時計を出して直弘に示す。
「これが旅行時計。タイムトリップに用いる、貴重な品だよ」
直弘は恐る恐る時計を覗き込んだ。
「針が二つで、文字盤は……どうやって読むんですか、これ」
「読み方は追々覚えれば良い。赤い針を文字盤の任意の場所に動かすとその時代まで飛べる。青い針は空間の座標を指定するためのもの」
「へえ」
「では、針を動かす前に、確認しようか。我々
「ええと、
「よろしい。くれぐれも、感情に走って余計な真似をしないように」
「はい……!」
「ではこれより時間旅行を実行する。直弘、もっと近くにおいで」
「は、はい」
直弘は遠慮がちに理玖のそばに寄った。理玖は赤と青の針を文字盤の上で慎重に回すと、「行くよ」と言って、時計の横にある小さなスイッチを押した。
次の瞬間、理玖と直弘の姿は、控え室から忽然と消え去った。
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