ピアノソナタは終わらない

物部がたり

ピアノソナタは終わらない

 彼女が腕を失ったのは高校生のころだった。

 ピアノの習い事をしていた彼女は、帰宅時間が遅くなり、心配した母が迎えに来ることになった。

 それが運命の分かれ目で、天変地異が人々の営みを否応なく奪い去るように、彼女のあたりまえを事故が突如として奪い去った。

 母が運転する車に、赤信号を無視した車が衝突した。

 刹那のことはコマ送りで脳裏に焼き付いている。


 赤信号では止まるものだという固定概念を裏切り、ライトを点した車が走行する母の車とタイミングよく交差し、車体がへこむ音、窓ガラスの割れる音、後に続く静寂。

 再び音を取り戻したのは救急車のサイレンが迫っているとき。

 救命救急士の人たちが、彼女の腕から流れる血の止血に努めていた。

 彼女はその瞬間、右腕を失ったことを知った。

 右腕だけで済んでよかったと感謝しなければならない大事故だったが、彼女にとって腕を失うことは足を失うよりも辛いことだった。

 

 そう表現すると、生まれつきや事故などで足を失った人の苦しみを軽視しているように聞こえてしまうが、全然そんなつもりはなく、彼女の将来の夢はピアニストであり、それも将来を期待されていたピアニストであったことを知ってもらえれば、そう思った彼女の想いを否定してやることはできないだろう。

 その日から塞ぎこんでしまい、自信に満ち溢れていた彼女から輝きは失われた。


 三歳くらいのとき両親が買ってくれたおもちゃのピアノに興味を示し、五歳のとき、家から一番近いピアノ教室に通わせてもらった。

 それから、彼女の才能はみるみる開花し、出場したコンクールでは毎回入賞を果たすほどで、業界の人々からの注目も熱かった。

 けれど、突如として彼女は消えた。

 一年も表舞台に姿を表さなければ、あの噂は嘘でないことは確かだと誰もが確信した。

 

 彼女はといえば、事故以来毎日部屋に籠って泣いていた。将来ピアニストになるために人生を捧げて来た彼女にとって、腕を失うことは命を奪われることと同位か、それ以上の苦しみと形容しても間違いではなかった。

 決して母のせいではなく、度重なる偶然によって招かれた不運だったのだが、母を恨んでしまう自分に嫌悪する日々。母も娘から右腕を奪い、夢を奪ってしまったことに罪の意識を感じる日々を送った。

 

 そんな娘の姿を見るに見かねた父は、「もう一度、弾いてみたどうだ」と勧めた。

「右手がないのに無理に決まってるじゃん……」

「左手があるじゃないか」

 その言葉が娘の逆鱗に触れた。

「わかってるでしょ……確かにハンデがあっても、そのハンデを乗り越えて夢を叶えた人はいる……。けど、一緒にしないでよ。片腕だけでプロになれるわけないじゃん!」

「プロになれとは言っていない。片腕でもピアノは弾ける。続けられる」


  *             *


 彼女は何を思ったか、あの日以来避けていたピアノに向かい合って、左手と見えない右手を定位置に乗せた。すると、不思議なことに存在しないはずの右手の感覚と鍵盤の無機質な触感まで感じられた。

 自分は腕を失っていないのだと錯覚させるほどに、ありありと右手の存在を感じられた。

 彼女は弾いた。

 左手だけが鍵盤を追って、右手は何も奏でてはいなかった。

 

 だが、彼女には鍵盤を押す微妙な力の加減さへ感じられたのだ。

 何度も弾いたメロディーは、頭の中で奏でられていた。

 まるで聴力を失ったベートーヴェンが頭の中だけで作曲を続けたように、彼女の右手が奏でるメロディーは脳内で奏でられていた。

 右手は失っても、ピアノを演奏するという喜びまでは失っていなかった。彼女は誰のためでもなく、これからは自分のためにピアノを弾こうと思った――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピアノソナタは終わらない 物部がたり @113970

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ