第九話 魔法
「クソッ……」
商会長は怒りに顔を歪ませながら、渡された金属塊を地面に叩きつける。
それは、
「いいから探せ! お前たちもだ! 外に漏れる前に必ず見つけろ!」
商会長が叫ぶ。
これほどまでに怒りと焦りに支配された商会長の姿は初めて見る。
ロウはなぜだか笑えてきた。
「……あなたも裏切られたのですか?」
「うるさい! 黙れ!」
彼の焦りも分かる。
リエール大商会が弱るのを待ち、ようやく反撃に出ようとしようとしたところでこれだ。もし世間に発覚してしまえば、この商会は完全に終わる。この都市で一番になれないどころか、もう二度と商売ができなくなるだろう。二度も逃亡奴隷を出したのだから。
ロウとしてはそちらの方が都合がいい。商会長は逃亡奴隷が出たことを隠さなければならない。少なくとも大商会を潰すまでは。そのため、もし奴隷に落とされるとしてもすべてが終わった後だ。しかし、それまでにこの商会が潰れてしまうとなれば、ロウも人として生きれる道がある。
わずかな活路を見出したロウの顔には笑みが浮かんでいる。
もしかしたら、それはラインの情けなのだろうか。
一瞬頭をよぎるが、すぐに否定する。
いや、そんなことはないだろう。奴が自身のために動き、それがたまたま裏切り、そして最後の道を残すことに繋がっただけだ。
ここまでくると、もう怒すら湧いてこない。
頼むぞ。
ロウは祈った。自身を裏切った者が、最後まで逃げ切ることを。
♢
アバノ商会で起きた、二度目の奴隷逃亡事件。その数日前、ラインは自身に与えられた部屋の机で、一冊の本を読んでいた。部屋の明かりは卓上の蝋燭だけだ。
卓上には他に、一本のナイフと小瓶に入った薬、包帯と針と糸が置かれている。
「ふう」
覚悟を決めたラインは、本を閉じて机に置くと、代わりにナイフを右の手に取った。
そして上に着ていた服を脱ぎ、布を口に咥える。小瓶に入っていた薬を左の肩から腕全体にかかるように垂らすと、ナイフを振り下ろし、左の手のひらに突き立てた。
「ん”っ……」
痛みを一時的に抑えるしびれ薬をかけはしたが、それでも痛みは感じる。
ラインはこれから行うことにもう一度覚悟を決めると、息を大きく吸い、手のひらのナイフを腕にまで下す。
事前に十分に研いでいたナイフは綺麗に肉を裂き、その内部を露出させる。太い血管は避けたものの、それでも血はどくどくと溢れてくる。
魔法使い。そう呼ばれる者がいる。魔術回路をその身に刻み込んだ者たちだ。彼の者、その手より火を出し、水を操るという。
この世界において、現在過去含め確認されたのは四名。
道具を介することなく、その身一つで魔術を発動できる強大な力。そんな力を持つ者――手に入れた者が何故たったの四名だけなのか。それには理由があった。
ラインはナイフを、その刃先を使うようにして持つと、指先が焦げることを無視し、刃先を蝋燭で炙って少しだけ蝋を付ける。そしてそれを、腕にできた肉の切れ目に突っ込んだ。
「あ”あ”っ……」
ジュッと肉の焼ける音がする。
ラインは顎が砕けるのではないかと思うほど強く咥えている布を噛み締めていた。
声を出してしまえば終わりだ、ばれてしまえば終わりだ、と必死に声を押しとどめても、声は漏れてしまう。
額には汗が浮かび、喉には汚物が上がってくる。
万物に宿る魔力の道を組み替え、時に新しく道を作る。魔術回路を人体に刻み込むことは、神経をねじ切り再び繋げなおすようなものだ。魔術、人間の体への深い理解が必要になる。
その点では、ラインは貴族時代に得た知識で事足りた。魔術回路であれば、一度刻んだこともあった。その時は勿論人の体などではなかったが。
しかし、問題はその痛みである。魔術回路を刻み込む過程までいくと、しびれ薬はもう意味をなさない。脳が痛みに耐えきれず気絶したとしても、体から湧き出る冷や汗が、窓の隙間から入るそよ風が、露になった肉体の内側、魔力の道を刺激し、無理やり脳を起動させる。それへの対処法は、ただ耐えるしかない。だがそれに耐えれる者などいないのだ。どれだけ屈強な戦士であっても、泣き叫び、暴れる。それこそ施術者を殺してしまうほどに。
それならば魔術の刻まれた魔道具を使った方がいい。そうなるのは必然であった。
「ふん”……ん”ん”っ……」
肉を裂き、肉を焼き、回路を刻む。魔術書で見た、ある魔術回路を。これもすべて自由のため。自分で決めたことだ。何年も待ってられない。時間を一秒たりとも無駄にはしたくない。
ラインは幾度も心が折れそうになりながらも、ただ繰り返した。
九度の気絶と五度の失禁、二度の嘔吐の末、それは完了した。
針と糸で傷口を塞ぎ、包帯を巻き終わった頃には蝋燭も消え、空には朝日が差し込んでいた。
その数日後、ついに決行する時が来た。
今頃ロウの元には主人の部下が向かっているはずだ。今が一番こちらへの警戒が薄い。
ラインは全神経を使っていた左腕への集中を解く。すると宙に浮いていたランタンが音を立てて床に落ちた。
そして左手で内から掴むようにして脚と枷の間に左手を滑り込ませる。右手に持っていたナイフを左の肩に突き立て、魔法を発動させる。
「っ……」
刻んだ魔術は、二つの金属を反発させるというものだ。魔術組合にあった宙に浮くランタンはそれを使ったものであり、他にも荷の運搬で使われたりしている。
物語にあるような火や水を出したりするようなものではないが、この枷を外すという点ではうってつけの魔術だ。
しかし、一つだけ問題があった。魔術回路を刻んで数日のラインにとって、魔術を発動させるために身体に巡る魔力の流れを意図的に集中させることは困難だったのだ。全神経を集中させてもランタンを少し浮かす程度。それでは堅く繋がっている枷を外すことなど不可能だ。もっと多くの魔力を流さねばならない。
だが、解決策はあった。それがナイフだ。痛みという刺激が、ラインの意識を無理やり集中させる。痛みには回路を刻んだ時に慣れたと思っていたが、脳はまだ一丁前に働くようだ。
左腕全体がじんわりと熱くなり、縫合部から溢れ出る生暖かい血を感じる。熱が手のひらへ集まり――
ピキン。
―― 一瞬だった。
鉄の枷が真っ二つに割れる。
ラインはすぐに収縮を始めた枷を投げ捨てる。異常な形で発動した枷の魔術が、鉄でできたそれをいとも簡単にねじっていき、最終的には三日月形の歪んだ鉄塊が二つできた。
その一つを拾うと、ラインは窓から外に――自由に――飛び出した。
一晩中走り続け空が明るくなってくるころ、ラインはある場所にたどり着く。
目の前の巨大な建物。その入り口には、リエール商会の名が刻まれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます