第二話 目覚め
怒号とともに目を覚まし、太陽とともに働いて、暴力とともに飯を食い、男の言葉とともに眠る。
あの脱走事件からもう三ヶ月も経った。ラインの日常は何一つ変わらない。強いて言えば少し体つきが良くなったことと、飛んでくる拳に慣れたこと。
それでも売れないし、暴力は止まない。拳を振るってくる奴は売れて、いなくなっていくが、暴力という名のストレス発散は受け継がれていた。
他の労働仲間の奴隷たちは体も大きくなり、売れていく者も増えてきたが、ラインは身体中にある痣や傷のせいで避けられていた。
売れぬのはそれが理由であることは主人もわかっているはずだが、暴力に関しては何も言わない。
奴隷に対してむやみに心身を痛めつけることは法で禁じられているのだが、それが適応されるのは奴隷の主人に対してだ。今行われている
それに、主人は奴隷にも感情の捌け口が必要なことを知っている。さらに言えば、暴力を振るう粗暴な奴に限って体つきが良く、高値で売れる。そういう贔屓目もあるのだろう。
「おらっ!」
今日も拳が飛んでくる。
しかし前と違うのは拳がよく見える。
腕は摑まれているが、避けようと思えば避けることはできる。だがそれは彼らを興奮させ、余計に場が酷くなるだけだ。
ラインは体を少しだけ動かし、拳が当たる位置をずらす。元の軌道であればみぞおちを貫いていた拳だったが、少し左にずれた。
「……」
幾度もの暴力のおかげで腹の筋肉だけは無駄に発達している。一発くらいではあまり効かない。ずらす技術もあって、吐きそうになることも最近は少なくなってきた。
「最近うまく入んねえな」
「はっ、奴隷になって腕が落ちたんじゃねえのか?」
「うるせえな。次は入れる」
そう言って振るわれた拳はみぞおちに真っ直ぐ刺さった。
「っ……」
ラインは顔を歪ませる。
流石は元ハンター。何もしなければ確実に弱いところを突いてくる。
「うっし、入った」
ハンターはモンスター討伐だけでなく護衛任務などの依頼を受けることもあれば輩などに絡まれることもある。高ランクの者であれば、対人戦などそこらの兵より強い。
彼らのランクがどのくらいなのかは知らないが、対人の心得はあるようだ。拳一発でもかなり効いた。
「次は俺だな」
さっきまで笑っていた男が袖をまくりながら近づいてくる。
彼から貰った一発目は体を逸らした。そう毎回弱いところにぶち込まれては、体がもたない。しかし、だからといって何度も避け続ければ、うまく決まらないからとむしゃくしゃした彼らに顔を狙われる。三、四回に一度は無抵抗で受けなければ。
自由時間が終わる。
少し不完全燃焼気味な彼らが散り、ラインも床に戻る。
天井近くの壁に付けられた小さな格子から月の明かりが差し込む場所で、ラインは寝転ぶ。
一年と少し、この天井にももう見慣れた。苦痛ばかりの生活であるが、楽しみはある。それは、たまに入れ替わる隣人の話を聞くことぐらいだ。彼らがどう生きて、なぜここに来たのか。彼らの
元貴族のラインにとって彼らから聞いた話は知らないことも多く、面白かった。誰一人として同じものはないし、この先生きていくうえで役立ちそうなものもあった。
それが唯一の楽しみ。他はない。
他に何か楽しいことはないだろうか。
心の中で呟く。しかし、そんなもの奴隷であるラインに訪れはしない。
いや、一つだけあったか。
ラインは思い出す。三ヶ月前、奴隷である自分に「人生を楽しめ」と言ってきたある冒険者の姿を。
あの時、助けてくれ、ここから出してくれと願っていたら、今頃楽しかったのだろうか。少しの後悔が湧く。
いやいや、そうしていたら今頃首がなくなっていただろう。言い訳であることの自覚はあるが、どうしてもその後悔を否定したい。
この選択でよかったのだと思いたい。そう思わなければならない。
これでよかった。これでよかった。挑戦し、楽しみを掴めるかもしれないが、もし失敗すれば自分で代償を払わなければならない。時には代償が命となる人生よりも、生があり、ほんのささやかな楽しみがある人生の方がよいのだ。
「クソッ……」
石の床を叩いた拳にじんわりと痛みが広がる。
そんなわけないのは自分がよくわかっている。この人生が楽しくないのは。それでもこの選択でよかったのだと思わなければ、自分を納得させられない。
納得させられなければ、挑戦を取らなければいけなくなってしまう。でもそれは――
「――怖い」
体を丸め、ぼそりと呟いた。
物語の主人公であれば、劇的な出会いがありそこから始まっていく、彼らの
もしかしたら三ヶ月前のあの出会いがそうだったのかもしれない。彼の手を取っていれば主人公になれたのかもしれない。
しかし、できなかった。怖かった。
そんな自分に苛立ち、ラインはまたも拳を床に叩きつける。
自己嫌悪。これをそう言うのだろう。
何かをしたい、しなければならない。そう思うのに、何かにつけて言い訳をし、動かない。そしてそれを自覚し、苛立ってしまう。
てんでダメな人間だ。てんでダメな人生だ。
母も父も、屋敷に仕えていた者たちも皆死んだ。この人生を導いてくれる者はもう誰もない。
このままいけば――このまま流されて生きれば、いつか売られ、ささやかな楽しみの中、苦痛と懸命の労働を強いられて終わる。
それでいいのか。
奴隷になってもう一年。この一年間の記憶はあまりない。本当に一年過ごしたのかと疑問に思うほどだ。
しかし時は無情に過ぎ去っていく。
あとこれを五十回も繰り返さぬ内に死ぬのか。いや、奴隷の身分だ。もっと短いだろう。
ラインには「死」がとても近いもののような気がした。
怖い。
死ぬことが。
怖い。
このまま生きる人生が。
ラインはさらに丸まり、歯を食いしばる。
脳内では様々な考えが逡巡し、やがて一つの答えにたどり着いた。今まで避けていた――忘れたふりをしていた答えに。
ならば変えねばならない。
死は避けられない。ならばせめて、少しでも楽しい人生を。刺激的で脳に染み付き離れないほどの毎日を。
ラインは心に誓った。自分の人生だ。自分で責任を持とうと。
恐怖が消えたわけではない。これは永遠に離れないだろう。しかしそれでも――
――俺は始める。俺が進める。これは俺の
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