第3話

「なるほどなあ。それで、その女の子のこと、待ってるの?ここで」

圭太は僕からフェルトフレームの話を聞き終えると、手元のそれを見ながら小さくぼやいた。


「そうだね、待ってるんだよ。彼女のことを」

圭太のいうことは正しかった。

僕は待っていた。この家で、彼女が再びここに来ることを。

彼女が、忘れものであるフェルトフレームを再び取りにくることを。


彼女が再び目を覚ますことができたら、きっと、彼女はフェルトフレームがないことに気づくはずだ。

そして、それを僕に渡したままになっていることにも思い当たるだろうと思った。

もしそうなれば、きっと彼女は再びここに訪れる、そう僕は考えていた。


「ようやくわかったよ。病院に入院しない理由が」

圭太はうんうんと頷きながら、一人納得していた。


「はは、まあそういうことだよ」

僕が苦笑していると、圭太は「ははーん」と呟きながら口角を上げた。


「ずばり、その女の子のことが好きだったんだろ~」

あまり予想していなかった圭太の発言に一瞬驚きつつも、僕はゆっくりと首を振った。


「それは、違うよ。もしそうだとしたら、僕と圭太がこうして話すこともないだろう?」

「いわれてみれば、そうかあ」

圭太はあごに手を添えながら、眉をしかめて唸る。


そう、僕は多分彼女のことが好きだとか、そういうことではないような気がしていた。


その時、リビングから正午を知らせる時計のオルゴール音が響いた。


「もうお昼みたいだ。」

「あ、もうそんな時間か。一度、飯食べにうちに戻ろうかな、

昨日の夕飯の作り置きがあるんだよなあ」

圭太はそう言うと、名残惜しそうに、室内を見渡した後、僕の部屋を出た。


圭太を玄関まで見送ると、彼は扉を開ける直前、こちらを振り返った。


「なあ、ちゃんと体には気をつけろよ。俺、まだ一緒に話したいし、遊びたいからさ。なんなら女の子のこと忘れて、入院するのだって」

圭太は彼に似合わず、寂しそうな顔を浮かべる。


最近の僕はどうも体の調子がよくなかった。

いつもどこかが悪くて、何をするにもエネルギーがいる。まるでそういう病気にかかってしまったかのようだ。


「気を付けるよ。圭太も体には気を付けて」

「俺は大丈夫だよ、風邪なんか一度も引いたことないんだぜ」

けらけらと笑う圭太に、冗談のひとつでも言おうとしたその時、僕の視界が急にぐらっと暗転した。


「…い!」

圭太が僕を呼ぶ声が一瞬聞こえた気がしたが、僕の意識は無情にも深い闇の中に落ちていった。


ーーーー

ーー


夢を見ていた。

それは彼女と出会った日の夢だった。


あの日、僕は一人だった。


シングルマザーとして僕を女手一つで育ててくれた母親が病で亡くなり、

母方の祖父母に引き取られて、1年ほどが経過していた頃だった。


新しく通い始めた小学校にも馴染めず、引き取ってくれた祖父母にも少し距離を置いていた僕は、近くの野山で捕まえたカブトムシだけが友達だった。


そんな時だったのだ、彼女に出会ったのは。


まだ日の高い昼下がり。

家の近くの河原で一人、いつものようにカブトムシと戯れていた時だったのだ。


じゃり、と河原の石が踏まれる音がした。

そして振り返ると彼女がいたのだ。


白いワンピースを着た彼女は、

寝起きのように目元を擦りながら、僕の前に立っていた。


透き通るような白い肌と、淡く煌めくアーモンド状の大きな瞳に

思わず魅入ってしまったことをよく覚えている。


彼女は焦点の定まらない様子で、徐におもむろ周囲を見渡した。

次第に意識がはっきりしたのか、彼女の瞳が少しずつ光を取り戻した。


そして、何を思ったのか、彼女は一筋の涙を静かに流した。

その涙は、再びこの世界に目覚めることができたことへの喜びだったのかもしれなかった。

ーーー

「いきなり泣いて、驚かせちゃったよね」

照れたように頬を赤らめながら、彼女は肩をすくめた。


「ううん、気にしてないよ」

そして、僕らは河原に座りながら、しばらくの間自分たちのことを話していた。

名前、年齢、好きなもの、それ以外にもたくさん。


「…ふーん、カブトムシが好きなんだ。かっこいいね、この子」

彼女はつんつんと、僕の脇の虫かごをつつく。

カブトムシは驚いたのか、のそのそと反対方向に動きだした。


「よくこの辺りには虫を捕りに来るの?」

「よく来るというか…そこが僕の家」

僕は左手にある少し離れたコテージ風の家を指さす。


一瞬、僕が暗い顔をしたからだろう、

彼女は少し目を伏せながら、前を向いた。


「訳あり君、ですかな?」

ぼそりと呟く彼女の横顔は、少し悲しげだった。

その表情は、僕が何度も見たことがある表情だと思った。

それは、ともすれば鏡の前の自分がいつも見せている表情かもしれなかった。


「…君も?」

「うん」

僕の反射的な呟きに彼女は困ったような笑顔を向けた。


きっと僕はその時、彼女の中に自分を見たのだと思う。

気づくと、僕は自分の中のしこりのような思いを漏らしていた。


「誰かと仲良くなるのが怖いんだ」

そう、あの日の僕は、人と触れ合うのが怖かったのだ。


シングルマザーだった母親は、僕に取っての唯一の肉親で、

内気な僕が躊躇いなく心の中を明かすことのできる人だった。


その母が亡くなって、僕の心はぽっかりと大きな穴が開いてしまったのだ。

そして、たまらなく怖くなったのだ。

誰かと親しくなり、そしてそれをいつか失ってしまうことが。


その時、彼女が静かに口を開いた。

「それなら、さ。実験しようよ。今から私と君は『1日親友』。」

「1日親友?」

「そう。今日だけの親友。明日になれば、私たちは赤の他人に戻るの。

それを知っていても、楽しめるか実験するの」


「でも、赤の他人に戻るなんて、そんなこと無理だよ。君のこともう知っちゃったし」

「それは、大丈夫。私はもう、ここに来ることができないかもしれないから」

「どこか遠くに引っ越すの?」

「うん…そんなところ」

彼女が再び見せた、寂しげな表情が少し気になったが、僕はこくりと頷いた。


「うん、それなら…分かったよ。僕も…試してみたい」

「うん、そうこなくっちゃ」

そして彼女は、眩しいくらいのはつらつとした笑顔を見せた。


ーーーー

それからの時間は、僕に取って忘れることができない思い出となった。


「とりゃあ!」

「だから、下からゆっくり取るんだって!」

近くの野山で、一緒にセミを捕まえたり。


「必殺、水手裏剣!」

「ああ、もう!だから水面に叩きつけない!」

僕たちが出会った河原で、一緒に水切りをしたり。


「ていっ!」

「いたっ、全然場所が違うよ!」

彼女が無理やり僕に持ってこさせた、僕の家のスイカを使ってスイカ割りをしたり。


とにかく散々な振り回されようだったけど、いつの間にか僕は時間を忘れて楽しんでいた。

そう、楽しんでいたのだ。

『誰かと仲良くなるのが怖かった』、そのことを僕はあの時、確かに忘れて楽しんでいた。

今日だけの関係だったとしても、楽しむことができていたのだ。


「ははは、何してんだよ、はははっ」

その時、僕はいつ以来だっただろうか、腹を抱えるほどに笑っていた。


カゴをつついたからだろうか、僕のカブトムシに少し嫌われていた彼女は、

どこかから木の枝とつるを持ってきて、いきなり自分の額に木の枝を蔓で巻きつけたのだ。

「カブトムシの仲間だと思ってもらう!」とかなんとか、真剣にカブトムシの前に顔を寄せていた彼女の姿が僕のツボにはまってしまったのだ。


僕が涙を浮かべるほどに笑っていた時、ふと、彼女が呆けた様子で僕を見つめていることに気づいた。


「ははっはははっ……どうしたの?」

僕が笑いを止めて首を傾げると、彼女はふふっと小さく笑った。


「しっかり、楽しんでるじゃない」


僕は内心で気づき始めていたそれを指摘され、少し頬を赤らめる。

そしてゆっくりと頷いた。

「…うん」


彼女は、ふうと息をつくと、額に着けていた木の枝と蔓を取り払った。

「もしもまたさ、誰かと仲良くなることが怖くなったらさ。

今日のことを思い出してよ。

そしたらきっと、また怖くなくなるでしょ?」


彼女の優し気な表情に、僕も相槌を打つ。

「うん、ありがとう。でも…」


そして、思わず再び噴き出してしまう。

「ぷぷ、ははは、今度は笑いが止まらなくなるかもしれない…、

木の枝、はははっ!」

「こらああ!」

そして、しばらくの間、僕は彼女に追い回される羽目になったのだったーー。


ーーーー

彼女と過ごしたのはたった数時間だったけれど、

その時間は僕の日々を豊かにしてくれた。


僕は少しずつ人と触れ合うことができるようになり、

友達も少しずつだけど作ることができるようになったのだ。


彼女はというと、再び僕の前に現れることはなかった。

けれど彼女が僕の元に忘れていった、フェルトフレームを見るたびに彼女を思い出す。

彼女と過ごした数時間を。

そしてあの日、底抜けに明るい彼女が漏らした、唯一の不安を。


『一人ぼっちになるのが怖い』。


だから、僕は誓っていることがある。

いつかもし、彼女が再び目覚めて、僕の元に忘れものを取りに来てくれたのなら。


彼女にフェルトフレームを返して、そしてしっかりと伝えるのだ。

彼女のことを忘れたことがないことを、その証明として僕は彼女の忘れものを持ち続けたことをーー。


それがいつになるかはわからないけれど、僕はいつまでだって待ち続けるつもりだ。

彼女と戯れたたった数時間は、僕にとって、そういうものだったのだ。


ーーーー

ーー

「…うう」

「おい!大丈夫か!」

目を覚ますと、僕は自室のベッドの上に横たわっていた。

圭太がベッドの横で、心配そうな顔で僕の顔を覗き込んでいる。


「はは、大丈夫…じゃないかもしれない」

今までに経験したことがないほどの痛みに、全身の筋肉が悲鳴を上げている。

視界も不安定で、圭太の顔もかろうじて捉えきれる程度だ。


「だから、病院に入院すればよかったんだ。意地張ってここにいたって元気になんてならないよ…」


圭太の言うことはもっともだった。でも、それをすることができない理由が僕にはあった。


「それをしてしまえば、僕は彼女に忘れものを返すことができなくなってしまう」

「…そんなに大事なことなのかよ」

「そんなに大事なことなんだ」


僕がそう言うと、圭太は鼻をすすりながら、赤く腫れた目元を荒々しく拭う。


「わかったよ、じゃあ俺が今からその人のことを無理やりでも見つけてくる。

だから、その時は、ちゃんと病院に入院するんだぞ」


「…はは、わかった…よ」

僕は体に残る力をなんとかかき集めて、そう答える。

そして圭太は僕の言葉を聞き届けると、力強く頷いた。


「じゃあ俺、行くから!約束だぞ!


・・・!!」








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