第2話

「おーい、遊ぼうぜーー」

玄関から、圭太の声が聞こえた。


土曜日の午前。

圭太は小学校がない日は、いつも僕の家に来る。

僕はリビングで一人読んでいた本を静かに閉じて、玄関へと向かう。


あまり人付きあいが得意でない僕だったけれど、どうも圭太との交流は気が楽だった。


老若男女、誰に対しても遠慮がないような、開けっぴろげな彼の性格が、

僕にとっては少し居心地がよかったのかもしれなかった。


「今日はちょっと忙しいから、遊べないよ」

「なんだよー、また虫取りにでも行く気なのかよー」

「今日は、少し本を読んでるんだ」

「そっかあ、じゃあ俺も一緒に本読む!」

僕は少しだけ抵抗したけど、圭太があまりにも引き下がらないので、

根負けしてしまい、彼を中に入れた。


ーーー

圭太は玄関に置いてあった虫かごの中のカブトムシをひとしきり眺めたのち、

リビングで再び本を読んでいた僕のもとへ駆け寄ってきた。


そして『多重人格の起源』と書かれた本の表紙を見ながら、うめき声をあげた。

「難しい漢字だなあ、こんなの読めないよ」


「『たじゅうじんかくのきげん』、だよ」

「よく読めるなあ」

「勉強したんだよ、圭太も勉強すればすぐ読めるようになるよ」

「俺は別にいいよー」

圭太はげっそりとしながら、僕から離れて家の中をうろつき始める。

どうも、本を読む気はなくなってしまったらしい。


それからしばらくの間、僕は一人、本をじっくり読んでいた。

あの日出会った、「1億の人格を持つ少女」のことをもっとよく知りたくて。



彼女と会った翌日、彼女は僕の元に来ることはなかった。その翌日も、翌々日も。

彼女の連絡先なども聞いていなかったから、

彼女がどこにいるのか、何をしているのかはわからなかった。


彼女の言う通り、他の人格に埋もれて眠っているだけなのか。はたまた「一億の人格」などは彼女の気まぐれな冗談で、僕をからかっただけなのか。


そんなことを考えていた時だった。


僕はあるものを見つけたのだ。


ーーーー


「なんだこれえ」

その時、圭太の呆けた声が僕の部屋の方から聞こえた。

僕は読んでいた本を閉じると、自室の方へ向かった。


引き戸を開けて中に入ると、圭太は僕の机の上の、

透明なデスクマットの下に挟まれたあるものを見つめていた。


圭太は怪訝な顔をして、こちらを振り返る。


「なんで、こんなものあるんだ?」

彼が指を指したのは、メダル型のフェルトフレームだ。

内側に絵を差し込める形になっており、クレヨンで書かれた少女の絵が挿入されている。


そして、それは彼女がいなくなった後に僕が見つけた、彼女の忘れものだった。


ーーーー

ーー


「ちょっとこれ、持っててよ」

あの日、河原のすぐ前を流れる清流で水遊びをしようとした彼女は、ふと思い出したようにポケットからあるものを取り出し、僕に渡した。


それは、メダル型のフェルトフレームだった。少女の絵が内側に差し込まれている。


「濡れたら絶対ダメなの!、だから持ってて」

「うん、わかったけど」

僕はそう言いながら、少しだけ疑問に思っていた。


自分があまり小物を持たないためだろうか、フェルトフレームに対して、

少し過剰なまでに反応する彼女に僅かに違和感を感じたのだった。


僕が首を傾げながらじっとしおりを見ていることに気づいたのだろう、

彼女は「…これはね」と口を開いた。


「私の宝物なの。私が、私であることの証明」

大げさな、というのが僕の最初の印象だった。

けれど彼女の真剣な表情が、それが冗談のような類のものではないことを物語っていた。


「これはね、私が一番最初にこの世界で目覚めて、初めて作ったものなんだ。私が唯一自分で作ることができた、大切なもの」


彼女が初めて目覚めたのは、幼稚園の図工の時間だったそうだ。


いきなり現実の世界に目覚めて、最初は戸惑ったものの、他の人格の記憶や知識が引き継がれたおかげで状況自体はすぐに掴めたらしい。


けれど、友達に話しかけられてもぎくしゃくして『今日なんか変!』と言われてしまったり、

仲良くない男の子にちょっかいをかけられたりと散々な目に遭ったようだ。


そんな中で、図工の時間のテーマだった、「フェルトフレーム作成」は彼女を魅了した。


フェルトフレームに入れる絵の題材はなんでもよかった。

だから、彼女は自分の似顔絵を書くことに決めた。


自分の人格が宿った時の自分の表情を、絵に残したいと思ったのだという。

そして、初めて手に取るクレヨンで、手鏡に映る自分を夢中になって描ききり、それをフェルトフレームに入れたのだった。


彼女の人格が消える直前、彼女は強く祈ったという。


このしおりを、他の人格の私がいつまでも持ち続けてほしい、と。

私がこの世界にいた証を、残してほしい、と。

もう自分が二度と、この世界に現れることができないかもしれないから。


そして、その祈りが通じたのか、彼女が作ったフェルトフレームは、

再び目覚めた時、手元に残っていたのだという。



彼女に渡されたフェルトフレームは、あの日僕が持っていたポーチに入れたきりになっていた。そしてそのことに僕は後日気づいたのだったーー。

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