15.

「いやあすまながったなぁ」


「ちよさんとこだって大変だろうに悪がったね」


「いいんだよ、お互い様じゃないか」


 長々とやり取りがあって、ようやく走り出す軽トラック。それを見つめながら、俺は軍手を外した。火照った身体に冷たい風が気持ちいい。


「ばあちゃん、うちはいつ引っ越すの?」


 ばあちゃんと並んで歩きながら、俺は切り出した。ばあちゃんちの周辺は引っ越しラッシュだった。今日だって手伝いに駆り出されて来たわけだけど、ばあちゃんは自分の家の引っ越しについて何も準備していない気がする。


「うちは一番最後だよ。みんながちゃんと出てったの見届けてからじゃないとね」


「だけど物件とか見つけておかないとダメだろ? そんなすぐに見つかるとは限らないしさ」


「大丈夫大丈夫。家ならうちで持ってるアパートに空きがあるから、優斗は気にしなくても。ちゃんと準備はしてあっから大丈夫だ」


「ふうん」


「さ、おなかすいたろ? 今日は頑張ってくれたからね、たまには外で食べようじゃないか。さて、どこにしようね」


 俺の考えなんかお見通しのようだ。俺だって色々考えてるつもりなんだけどな。


「近いし、柳さんにしようか。まだ行ったことなかったっけね?」


「うん、ないよ」


 柳さんというのは、近所の中華料理屋だ。美咲のいる煙草屋がある通りの真ん中くらいにある小さな店で、お昼時はいつも美味そうな匂いがしていた。


「こんちは、二人なんだけどいいかい?」


 薄汚れてボロボロになった柳と書かれた暖簾をくぐり、ばあちゃんは言った。


「いらっしゃい、どうぞこっちへ」


 四人掛けの小さなテーブルが四つと、右側の壁際に小上がりが二席分あるだけのこじんまりとした店内だった。壁には、外の暖簾と同じく油染みやら日焼けでよれよれになった手書きのメニューが所狭しとぶら下がっている。店の奥が厨房になっているようだが、小さなメモ紙や郵便物や小物なんかがぎゅうぎゅうに置かれていて向こう側は見えなかった。店というより、どこか、近所の人んちといった感じで、落ち着くような、落ち着かないような。


「さて、何にするかね」


 壁に張り巡らせてあるメニューを眺める。ラーメンに定食、丼もの、うどんにそば、オムライスやハンバーグなんかもある。一体何屋だかわからないラインナップだ。


「決まったかい?」


「まだ待って。いっぱいありすぎるんだけど……、ばあちゃんはもう決まったの?」


「ここで食べるものは決まってるからね」


「どういうこと?」


「ここではあたしはレバニラ定食って決まってるのさ。ここの斜向かいの大藤さんとこなら、天ざるそば、海沿いの松ってラーメン屋なら味噌ラーメンと餃子ってわけさ」


「他の物は食べないの?」


「若い頃食べ尽くしたんだ。今はそれが一番いいのさ」


「ふうん」


 その時々で食べたいものが変わったりしないんだろうか。いつも決まったものにするなんて、ちょっとかっこいいけど俺には真似できないな。


 とにかくばあちゃんはメニューが決まっているわけか。俺は何にしよう。やっぱりラーメン? それともガッツリ丼もの? とんかつなんかの揚げ物にもそそられる。お腹が空いていて判断力がない。


「こんなにいっぱいあって、迷っちゃうわよね」


 店のおばちゃんがお冷を持って笑いかけてきた。


「ちよさんはいつものレバニラ定食?」


「それでお願いしますよ」


「今日もまた引っ越して行きましたね」


「そうさ、もうだいぶ引っ越して行ったね」


「お孫さんも手伝いに?」


「もちろんさ、若い手はいくらあってもいいからね」


「たいしたもんだねえ。それじゃあお腹空いたでしょう? 特別メニューを作ってあげるわ」


「いいんだよ、なにも。その辺のメニューで」


「いいから任せなさいな」


「あっ、はい、ありがとうございます」


 おばちゃんは人懐っこそうに笑うと奥に引っ込んで行った。


「特別メニューって、なんだろう」


「さあね、あたしもわからんね」


 そう言ってばあちゃんはお冷をすすった。


「ところで優斗、あんた最近美咲ちゃんとは仲良くしてんのかい?」


 ぐふっ。危うく水を吹き出すところだった。


「な、なんで。別にどうもしないけど」


「おや、そうかい。煙草を吸う回数は変わってないのに、頻繁に煙草屋に行ってるみたいじゃないか。何かあったのかと思ってね」


「な、何もないよ別に。ふ、ふつうだよふつう」


「ふつう、ね。そうかい」


 何を納得したのか、うんうんと頷くばあちゃん。


「急になんだよ」


「いや、何もないけどね。美咲ちゃんはいい子だね」


 そう言ってニヤニヤと俺を見るばあちゃん。全て見透かしているかのような視線が痛い。


 花火大会以降、美咲と俺はよく話すようになった。だいたいは俺が煙草屋に行って、一服する間に他愛もない話をするだけなのだが、その短い時間が本当に楽しかった。美咲もよく笑うようになったし、自分から話してくれるようになった。


 付き合うとか付き合わないとか、告白のようなものはしていないし、なんだかそれをするのも違う気がしてお互い何も言っていない。そこには触れないようにして、ただ二人で会う時間を楽しんでいるだけ。ただそれだけだ。


「あんたらは若いからね、まだまだチャンスはあるけど、大事なもんはちゃんと掴んでないといかんよ。気持ちを伝えるっちゅうのは恥ずかしいことじゃない、いちばん大事なことなんだ」


 ばあちゃんは俺の目をまっすぐ見ながら言った。


「お待たせしました、レバニラ定食と、柳屋特製ランチです」


 タイミングよく話が切れて助かった。ばあちゃんの前にレバニラ、俺の前には特製ランチが置かれた。


 どでかいエビフライに、チキンカツと生姜焼き、山盛りのキャベツにはオレンジ色っぽいドレッシングがかかり、ポテトサラダとキュウリとトマトが脇を固めている。ご飯は丼で、みそ汁と漬物もついていた。


「すっご……」


「いただきます」


 ばあちゃんは黒々と光るレバニラに箸をつけた。ニラの緑色が目に鮮やかだった。


「ん、美味しいね」


 俺もいただきますと呟いて、ソースがたっぷりかかったチキンカツにかぶりついた。サクサクの衣がザクっと良い歯ざわりだ。生姜焼きはちょっと甘めのタレだけど食欲をそそる。大きなエビフライはゴロゴロと具材の入ったタルタルソースがかかり、食べ応えバッチリだった。


「よく食べるようになったね」


 俺がガツガツと食べていると、不意にばあちゃんが言った。


「あんた、ここに来たばっかの頃は食が細かったでしょ。男っ子なのに全然食べなくて心配したよ」


「そうだったっけ?」


 俺はご飯を飲み込みながら聞いた。


「そうだとも。肌も生っちろくて、そのくせ目はぎょろぎょろしててね、吸血鬼みたいだったよ」


 吸血鬼か。確かに東京にいた頃は昼夜逆転してたから、あながち間違いじゃないのかもしれない。


「それがね、今はこうやってしっかり働いて、日の下で生きて、ご飯もちゃあんと食べて。立派なもんだよ」


「立派なことなんか、ないけどさ」


 ここで生活していて、当たり前にできるようになったことをばあちゃんは立派だと言う。俺にはそれがよくわからない。


 ばあちゃんちに来て約半年。ここでの生活にもだいぶ馴染んで、ばあちゃんの手伝い及び付き人として上手くやれてると思う。ばあちゃんの知り合いや近所の人なんかともふつうに話せるようになったし、スーパーとかで会っても挨拶できるようになったし。


 最初の頃は確かにできなかったけど、今となってはそれが当たり前で、当たり前すぎて、ずっとそうやって生きてきたような気がしている。東京の窮屈な空や街が恋しくなることもあるけれど、何もないここの方が何もなさ過ぎて面白かったりする。


「ごちそうさまでした」


「あらぁ、綺麗に食べてくれてありがとうね」


 ちょうど食後のお茶を持ってきてくれたおばちゃんに笑顔で言われた。


「美味しかったです」


「それは良かったよ。ご飯足りたかい?」


「はい、お腹いっぱいです」


「いいねえ男っ子は。ちよさんも作り甲斐があるだろ?」


「たくさん食べてくれるのは、やっぱり嬉しいね」


「そうだよねえ」


「そいじゃお勘定お願いしますよ」


「はいはい、ちょっと待ってて」


 ばあちゃんがお会計をするのを見ながら、そういや俺ってバイト代というかそういうのあんまりもらってないけど、全然平気にならなくなったな。煙草代は定期的にくれるし、お菓子も飲み物も必要なら買い出しの時に買えるし。


 東京では、どうしてあんなに金が必要だったんだっけ。遊ぶ金か。自分の居場所を守るための金か。


 ここではそのどちらも必要としていない。遊ぶ場所なんかそもそもないし、同年代だって美咲を除いてはほとんど知らない。自分の居場所のために、ゲーセンでちまちま小銭を使ったり、公園で飲みたくもないアルコールを飲んだりする必要もない。


「さ、行こうかね」


 ばあちゃんがくるりとこちらを振り向き、そう言った。


「美咲ちゃんとこ、寄っていこうかね。あんた、煙草吸いたいだろう?」


 ニヤニヤとしているババアは気に食わない。けど、それもなんだか楽しいと思える。


 昼下がりの商店街に降り注ぐ光は、柔らかく優しい日差しだった。

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