濁って、苦い。
境 仁論(せきゆ)
一話 -ぼくの発見-
今日から、ぼくの初めての仕事が始まる。とはいっても、ぼくは他のみんなよりも背丈は大きくないし、力もよくないから、みんなみたいな力仕事も、ずしんって感じで構えることもできない。だからぼくに与えられた初めての仕事は、ここにできた街を調べてその様子を記録して後の世界に残すことだった。これからぼくは何度もこの街に来ることになる。みんなと比べたら大したことのない仕事だけど、すごく大切なこと。みんなはそんな大事な仕事をぼくに託してくれた。精いっぱい頑張らなくちゃ。
街には灰色の高い建物がたくさん並んでいる。みんなの背丈に比べたら大したことないし、ぼくだって本当はあれよりもずっと高い。でもぼくらは大きくなると色んなものを壊してしまうから、普段はニンゲンみたいな恰好に変装して仕事をしなくちゃいけないんだって。ぼくもみんなにやり方を教えてもらってニンゲンの恰好をしてる。
こうして外に出るのは初めてだ。目に見えるもの全部が驚き。今までずっと小さくて見えにくかったものが、今はぼくよりも大きくなってる。そして思ったよりもニンゲンはたくさんいて、そそくさと歩き続けている。とにかくすごい。ちょっと調査どころじゃないかもしれない。
そんなこの街も、昔は何もなかったらしい。この辺りは全部、池になっていたんだってよく教えられた。ご先祖さまが踏んずけて作った穴に龍神様が水を溜めてくれたおかげでできたんだって。いろんな命がそこに生まれるようになって、ニンゲンがたくさん集まるようになっていった。何千年もそうやって池の近くは栄えていくようになった。でもここ数百年で、池の様子が変わっていった。
いろんな戦争とか干ばつとかで池の水はどんどん枯れていった。
そして最後には一滴もなくなって、結局ニンゲンはそこに街を作って生きていくことにした。
でもぼくたちは今、ここにまた池を作ろうとしてる。これはすごく大切なことなんだ。みんなが口を揃えてそう言った。でもその前に、将来また同じように池が枯れることがあったら参考にできるように記録しておかないといけない。
ぼくは街のいろんなところを歩き始めた。
灰色の高い建物だけじゃなくて、一気に小さくなった建物が増えてきた。いろんな看板が見える。スーパーとか、美容院とか、色々書いてるけど、あまりよくわからない。文字は読める。ニンゲンがつくった言葉をぼくたちも使わせてもらってるから。でもその意味まではわからない。やっぱり、文字を知っただけじゃニンゲンの世界はわからない。だからその勉強もさせるためにぼくにこの仕事をさせているのかな。
そんなことを考えながら街を記録していると、変な看板を見つけた。器の中に黒いものが入ってる。なんだか、水みたいに見えるけど、こんな黒い水あるのかな。そこにはこんな文字が書いていた。
「コーヒー」
なんだろう。なんかの池なのかな。そんなことを思ってると、建物の中からガタって音が聞こえてきた。
なんだか気になってその建物の中に入ってみた。透明な板に取っ手がついていてそれを押し込むと入ることができた。中は薄暗いけど全体的に白くて、机や椅子がたくさん置いてある。そこそこ広い感じはするけど、なんだか寂しい感じもする。
すると奥の方からガタって音が鳴り、
「うわあ!」
っていう女の子の声も同時に聞こえてきた。
見てみると今のぼくと同じくらいの背丈の女の子が転んでいた。
「うーん……」
「あの、大丈夫?」
「……うん、ありがと、あ、お、お客さん!?い、いらっしゃいませ!?」
「うわあ!」
いきなり女の子が大きな声を出したから、ついぼくも尻もちをついてしまった。
「うわあごめんなさい」
「いや、大丈夫。君の方こそ」
「……ママみたいにうまくいかないなあ」
女の子が頭を掻きながら奥に行こうとする。
「……ん、お客さん。……お客さん!」
「な、なに」
「お客さんなんだよね!じゃあここ座って!ほら!」
勢いに押されて言われるがままに椅子に座った。
「お客さんは特別だから、この特等席! カウンター席に座らせてあげる!」
「……カウンター席」
多分今ぼくが座っているところのことだろう。
「ね! なに飲みたい?」
「飲む……? ええと……」
ここで気になっていたことを聞いてみた。
「コーヒーっていうのはなに?」
「コーヒー! うちで一番の人気のやつ! 待ってて!」
すると女の子は慌ただしく動き始めた。高台に上がっていろんな器具をガチャガチャと出していく。
熱湯を沸かし、器具の上に紙のようなものを敷くと、その上に黒い粉をさーっと落としていく。そしてその上にケトルを傾けて、お湯を注いでいった。
「……よーし」
女の子が恐る恐る完成した黒いお湯を、別の器に注いでいく。そしてゆっくりとぼくの前に差し出した。
これがコーヒー。
不思議な気分になった。ぼくらはずっと水は大事なものと教わってきた。それが目の前に、真っ黒な姿でお出しされている。とても複雑な気分。
「飲んでみて」
「飲む?」
飲む。飲むのか。飲めるものなんだ、これ。そう言われて、一口含んでみる。
「どう?」
……なんだろう、これ。これは。
「すごい」
「本当!?」
ぼくたちは、今みたいにものを口に入れることはしない。しなくても十分に生きていけるからだ。でもぼくは今、生まれて初めて何かを口に入れた。これは、なんていうんだろう。口の中がすごくあったかくて、それで、よくわからない感じ。でもなんだか落ち着く。これがニンゲンの言う味なのかな。
そんなことを考えていると、後ろから透明な板を開ける音が聞こえた。
「あ! こらツムグ! また勝手に!」
「うわあママ! でも聞いて !私の作ったの褒めてもらえたの!」
「ホントにごめんなさい。今日は本当は休業だったんですけど」
「い、いえ。なんかすごかったのでよかったです。じゃあぼくはこれで」
コーヒーの不思議な苦い感じが舌から離れられず、慌てて建物を出ようとした。
「あ、待って!」
「な、なに」
「名前なんていうの?」
「……ダン」
「ダン! じゃあまた私のコーヒー飲みに来てね!」
きっと忘れることができない、「味」という感覚。ぼくはこの感覚も一緒に記録した。
ニンゲンがいつも感じている、「味」。ぼくはこの街に来るたびにそれを求めてここに足を運ぶようになった。
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